わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】癌・あるいは進行性の重篤な病

ある人には突然このような事が起こります。
つまり、どうにも死を覚悟しなければならない病。
しかも、余命数ヶ月、数週間という差し迫った状況に置かれる時、人は耐えられない恐怖に駆られるに違いありません。

やりたかった事、描く将来、希望のかけらも見いだせない絶望感。
この悲しみ、残して行かなければならない家族、愛する者達への想い、苦悩は計り知れないものがあるでしょう。

若い元気な人は、このような状況を考える事すら無いでしょうが、しかし、若かろうが高齢だろうが、そのような突然の悲劇は予告なしに襲ってくる事があるのです。

人は誰でも、死について考える必要があると思います。
死について考えるとは、死んでやろうとか、死後どうなるか?とか、生まれ変わるのか?とか考える事ではありません。
そのような、どうでもいい事ではなく、「今を精一杯生きる」に繋げるための考察なのです。

「一日一生」と申します。

たとえ今日一日で自分の命が果てたとしても、心残りなどなく安心して逝けるように、今日一日を一生分として大切に生きていようという事です。

余命を宣告された患者さんは、最初はもちろん戸惑い、恐れ、絶望に襲われるでしょう。
当然の事です。

しかし、もはや手を尽くしても、どうにも治癒が望めないなら、受け入れるしかないし、実際受け入れるでしょう。
そうであるなら、残りわずかな日々を、精一杯、人間として誇れる生き方をしようとするでしょう。
貴重な日々、僅かな時間だからこそ、「今をどう生きているか」見つめながら生きるでしょう。

その時彼は、「今」を生きているのです。

悪性リンパ腫で、あっという間に先にいってしまった従兄は、そういう現実を完全に受け入れて、残りの日々を生きました。
わたしは知らなかったのですが、彼は、わたしが神に気づくずっと以前に、何年も前に既に神を悟っていたようです。
その当時、わたしはあらゆる宗教から逃げ回っていたので、彼を遠ざけていたのです。
ところが、悪性リンパ腫という病気になり、彼の奥さんから話を伺うと、まったく同じように明け渡す事で神を悟ったというのです。
それを聞いて彼と話をしようにも、もはやベッドの上で呼吸する事さえやっとの状態でした。

激痛に耐えながら、脳にまで腫瘍が転移して何も喋れない彼の胸に手を当て、神に完全に委ねているなら、救われているから大丈夫だよと波動を送ると、わたしの顔を見つめハアハアと荒い呼吸のまま、うんうんと頷くのです。
耳も聞こえているかどうかさえ明確ではないので、声で語ったりはしませんが、それでも彼は理解して頷いたのです。
何度も、何度も。
わたしのハートには、わかっている、わかっていると、響いてきました。
その数時間後に、彼は安らかに神の国に入りました。

また、二十代の若さで乳がんで旅立った友達は、死を受け入れ、純粋な感謝の心で神のもとに帰って行きました。
彼女は自らの死を完全に受け入れた瞬間から、同時に神の愛を受け入れ、喜びに満たされていたに違いないのです。

そうであるなら、そのような重篤な病気になるずっと以前から死を受け入れきっているなら、どれほど神の傍に近づけたか計り知れません。

それだから人は死について真剣に考えておかなければならないと思うのです。
誰だって必ず死を迎えるのですから。
それは生きるという事を考える事です。

このまま自我を神に明け渡し、一度死んで、神のみこころを完全に受けれて生まれ変わるのです。

誰でも新しく生まれるのではければ、神の国に入る事はできないと、イエスは申されました。

たかが数十年の人生です。
あっという間に過ぎ去ります。
その短い人生の毎日が、神に出会うチャンスなのに、この一瞬一瞬の今が全部チャンスなのに、もったいなくはないですか?

自我にへばり付いていては気づきません。
今、病気も無く、元気なうちに、神と和解するべきなのです。
ひとに喧嘩を売ったり、卑劣な虐めをしていてどうします。

生も死も、神からのプレゼンスです。
誰にもそれが必要だから、与えられているのです。

神を、あなたの源泉を、思い起こしてください。

神は待っているに違いないのですから。

片想いのまま、待っているのですから。

 

 

2012-10-25

 

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