わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】神に逢いにいきなさい

もしも未だ目覚めず、それでも神の存在を疑わない立場にある人なら、この事を知ってください。

「いつも、どんな時でも、神の方を向いていなさい。」

これはどんな行よりも大切で、尊いものです。

あなたが為した行為、あるいは為そうとしている行為に罪悪感や呵責や、そのいたたまれない感情感覚を覚えるなら、あなたの中に神が宿っているのです。

その感情感覚は、神のまなざしを感知している証拠ではないでしょうか。

それに正直でありなさい。

我々は怒りに任せる時、欲望を抑えきれない時、罪悪とわかっていながら行為を為す時、そのまなざしを遮断します。
世俗の欲や、執着に負けて、わかっていながらやってはいけない行為をしてしまいます。

そうしてその神のまなざしを、全く知らないがごとく装います。

それはつまり、自分にも、神にも嘘をつく事です。

ほんとうは、我々は誰でも、知っているのです。
知っていながら知らない振りをして、自分と神を欺いているのです。

もちろんそれでも神は咎(とが)めたりしません。
咎めるのは、あなた自身のわかっている意識です。

そこに嘘をつき通す事はできません。
そこはいつだって、嘘であることを見破っているのです。

そこがつまり、あなたに存在する「わかる眼」です。

神のまなざしは、その眼が感知しています。
その眼で、いつでも神の方向を向いていなければいけません。

たとえあなたが、怒り狂う相手と対自していたとしても、その眼が神の方向を向いているのであれば、怒りに対して怒りで戦う事はありません。

たとえあなたが、世俗の欲にかられる対象を目の前にしても、その執着に負ける事はありません。

神の前に、恥ずかしい自分をさらけ出すような事が、どうして出来ましょうか。

神を悲しませるような行為が、どうして出来ましょうか。

常に神の方向を向いているなら、たとえ怒りの根が、欲望の根が、断ち切られていなくてもそのような行為に及ぶ事はありません。

そのように、常に神を想い、慕い、憧れ、愛し、感謝を捧げる日々を送るなら、あなたは完全に浄化された者となって行くのです。

それは、あたかも幼子の純粋な意識に立ち返るような透明度まで至ります。

そのようになった者がどうして神を悟れずにいられるでしょう。
そのような者は、絶対に神の恩寵を頂く事になるのです。

いつも神のまなざしを感じながら、その方向を向いていなさい。

そのようにして、日常を暮らし、成すべき務めを果たすのです。

遠くなく、ほんとうに近いうちに、あなたは神の愛を実感し、その喜びの中に酔う事になるでしょう。
忘我に近いサーマディに入るかも知れません。
味わった事のない法悦に、着衣が濡れるほど涙を流すでしょう。

これは信仰でも宗教でもありません。

ただただ、あたりまえの事です。

普通の事です。

固定観念を適用せず、ただ、なるがまま、そのようにするのです。

そのようにして神を悟り、再び世俗に戻ってきたなら、どうでしょう!
世界が違って見えるのです。
あらゆるものが輝いています。
今まで何をみていたのだろうと思うでしょう。
見ていたのに、見ていなかった事に気づく事でしょう。

神は神の世界にだけ在るのではなく、この世俗にも現れているのだと悟るでしょう。

そうであるなら、もう生まれ変わったのです。

いつでもあなたの顔は、喜びに満ちている事でしょう。
人にも言われるはずです。
「いつもと違うけど、どうしたの?」
日に幾度も神の愛を感じ、神を想い、涙を流さずにはおれなくなります。

神に呼ばれ、神に酔う日が続く事になります。

そうなれば尚更、宗教も信仰も悟りも、全部マーヤだと言ってしまいたくなります。

そうです。

真実在るのは、真実だけ。

神とその作用だけ。

見るも、聞くも、味も、触感も、臭いも、判断も、断定も、全てそれは、ただ思いであって、幻とは思いの具現である事を知るのです。

神はすごい!
これほどまでに深遠な見事な組み立てを構築された。


(しばし忘我状態に入りました)


それだから。

いつでも神の方を向いていなさい。
それだけで、いつか必ず、清らかな者となり、真実を自らの内に知る事になるのです。

ハートを通り、内なる神に逢いに行きなさい。

そして言うのです。
「神よ、あなたに逢いに来ました」と。

2013-02-16

 

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