わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

学び知るために体験は現れる 花岡修平 「真我が目覚める時」

学び知るために体験は現れる

 

起こる事すべてに意味がある。
意味があるからこそ起こるとも言えるのです。

それらは偶然が交錯して起こるのではなく、

緻密に設計され尽くした出来事の連続なのです。

自分が置かれていく状況。
そしてそこで起こる出来事。
それらを体験し、学び取らなければいけません。

小さな事、大きな事、それらの体験の積み重ねで何を学び取っていけるかが、

偉大な理解に繋がる鍵となるのです。

体験しないとわからない。
理屈ではわかっているつもりでも、ほんとうの意味がわからない。

かつて、ある大物政治家が言いました。

「戦争はやってはいけないだって?戦争した事もない奴が何言ってるんだ。

戦争は嫌いだとか、戦争はやってはいかんというのは、戦争を経験した者

だけが初めて言える事だ」

この言葉に反発する人は多いかも知れない。
誰が考えても戦争は悲惨で、あってはいけない事ではあるのです。

でも、きちんと精査するなら、この言葉の重みは、戦争と平和という

一言では片付けられない、体験したものだけが知っている奥底からの

理解というものを我々に教えようとしているのです。

体験した者だけが知り得る恐怖、殺戮、奪い取らなければならないやるせなさ、

奪い取られる悲しみ、正義が消滅し悪が正義となった極限での自己を見るとき、

そのような忌まわしい戦争は絶対あって欲しくないというのは、戦争を知らない

世代が単に「戦争はいけない」と言う常識的理解を超えた真実を言っているので

はないでしょうか。

もちろん戦争を体験しなさいと言うのではないし、

わたしも戦争は体験していません。
どのような事であれ、真実は体験してはじめてわかる事なのですと言う事を、

ここで強調したくて持ち出したお話です。

そのような大きな事ではなく、小さな事でさえ体験に学び取ろうとするなら、

我々を変えて行ってくれます。

変えて行ってくれるというより、掴んでいるものを手放させて行く、

あるいは、純粋な清らかな、かつての自分に経ち帰らせてくれる気づき

に繋がる学びがそこにあったりするのです。

先の大物政治家の戦争についての発言は、自分が体験した事ではないので

深く理解する事はできません。

自分の体験に学ぶのです。

かつて生活苦に喘いでいたわたしは、銀行を襲ってでもお金を

手に入れたい状況でした。


そんなとき、ポケットから落ちた5千円札を、一緒に落ちていた

レシート一枚から身元を割り出して届けてくれた老夫婦がいました。

わたしには5千円は大金ですが、多くの方にはどうってことの無い僅かなお金です。

自分だったら届けるのもめんどくさいし、お金の無いわたしは自分のものにしていた

でしょう。

それなのに、苦労も厭わず、わたしを探し出して届けてくれたのです。

わたしはこの小さな出来事に、言葉では言い尽くせない大きな学びを得たのです。

人の苦を思いやれるこの老夫婦の清々しいまでの人としてのクオリティ。

対して、いかに生活苦であってもお金に執着し、犯行まで考えている汚れきった自分。

いったい自分は何をやっているんだろう。

ああ、自分もこの人たちのように、執着を解いて清らかな者に成りたい、

成れるはずだ、そのように生きて行こうと、決意する事が出来たのです。


そのような者であろうとすれば、不思議にそういう者でいられるものです。

それからのわたしは、何事にも執着せず、無くなるものは無くなるにまかせ、

得られるものは得られる事に感謝して生きはじめました。

その体験が、後に究極の苦悩に立ったとき、自己さえ、この命さえ差し出して、

神のみこころだけを受け入れ神の従者となろうという完全な明け渡しに至る、

言わば予備体験として役に立っていたのです。

多くの人はそういう極限の苦悩に立つ時、自死を考えたりするでしょう。

わたしの場合は、死さえ神に明け渡してしまったので、

そのような逃避はありませんでした。

自死など考えなくても、必要なら神が死を与えてくださる。
そう思っていたのです。

その完全な解き放ちが、必要なものは神から与えられるという通路

を解放してくれたのです。

何もいらない。
何でも受け入れる。
全ては神のみこころなのだから。

それが理解できたとき、次から次と、知らなかった諸法がわかりだしたのです。

さて、「内側にいる」という事。

体験しないとわかりません。

わたしが内側とはこうだと、どのように具体を述べても、体験がないのであれば、

わかるはずもないのです。

また、悟り、あるいは真我。

体験しないとわかりません。

どのような聖者が、懇切丁寧に説明してくれても、

体験しない事にはわかるはずがないのです。

誰もそこへ連れて行ってくれません。
ただ、人に現れる体験だけは、実はそこへ導いて行こうとしているのです。

そこから学ぼうとしないから、不平不満で一杯になるのです。

以前、「望んでいない事ばかり起こり、望んだ事は何も成就しない。

学びたくもない苦悩を強制されるのは地獄だ」とコメントを頂いた方

がいらっしゃいました。

全ては自分が望んだから現れ来る物語だという理解は、

わたしがそう言ったからとて、わかるはずがないのは当然です。

それをわかるだけの体験が、未だ現れていないからです。

その体験に至る前の、必要な体験しか、まだ現れていないだけです。

誰であっても今以上の苦悩が現れるまでは、今のこの苦悩がMAXだと思うのです。

それだから、わたしが苦悩が最大の先生となるはずだと言っても、

こんだけ苦悩しても何もわからないじゃないかと言うでしょう。

しかし、途上なのです。

体験しなければならない事は、体験させられて行きます。

そうして遂には、誰もが順次、今生であろうと来世であろうと、

真実を知るに至るでしょう。

全てが神により成り立っているというのも、神を悟って初めてわかる事です。

自分が神のエレメントであり、神の中に自分が在り、それをわかって初めて

自分の中に神が在る事も知るのです。

内側にあって、外側は全てただ現れに過ぎないという理解も、

内側にいるからわかる事です。

我々は自我を観て、自我に気づいている事によって

自我に気づいている者である自分を知ります。


思考する事無く、気づいている者の立場にあるなら、そこは空です。

しかし、それは空を体験しているだけで、空の本質に届いてはいず、

それはただ境地です。


日常に戻って来ても、それは相変わらずの日常で、

空の境地は醒めてしまうしまうのです。

空に入ったなら、存在する一切の根源、この絶対一元に通じない事には、

空の境地はこうだったという理解しかありません。

この絶対一元、この至福、この真実の愛、これを浴びるなら、

日常に戻ってもそれはいつも「ここ」に在るのです。


身体は日常にあっても、わたしは内側にいるというのは、

この絶対一元がいつだってここに在り、わたしはそこにいるという事です。

わたしは神の中にあり、わたしの中に神がある。

そういう事です。

わたしが「これ!」と言っているのは、この「これ!」の事です。

このような事も体験しない事には、わからないでしょう。
知識や理屈では、思考がイメージする空想しか思い浮かびません。

しかし、誰であろうと、それを知るために人生を体験しているのです。

それはどのような立派な賢者・聖者よりも、あなたにとって役立つものであり、

必要なものです。


例えば苦を忌み嫌うのも、今そのような理解である事が次に起こる必要な

体験に続くからであり、順次体験して、結局遂には苦は苦ではなく、

有難い体験だったと後から知る事になるのです。

人生なんてそんなもんです。

だから何にも心配ない、間違ってないと言うのですが、

それも体験しない事にはわからない・・・という事です。

体験は起こりますが、学びをおろそかにしない事。

それが、大切な事ではないでしょうか。

わたしにディクシャの能力があり、誰にでもそれを与える事ができたら、

どんなにか人々にとっていい事だろうかと思ったとしても、そのような悟りは

味気なく、意味なく、体験が伴わないのであれば、絶対に奥底に刻み込まれる

はずが無いのだと言う事です。


人の世と、神のみこころは、こんなにも奥深く、味わいのある、

意味深いものなのです。


有難い事です。


わたしが神の袖を引っ張って歩くのではなく、神自らがその御手で

わたしの手を引いて歩いてくれるのです。


もはや、道をはずし転ぶ事もないでしょう。

有難い事です。
有難い事です。