わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

何に明け渡せばいいのか? 花岡修平 「真我が目覚める時」

何に明け渡せばいいのか?

 

人生は苦悩に満ちています。
真実がわからず、迷いの中を、手探りで生きています。
真実を照らす光が無いから、無明と言われます。

無明とは、無知の意味です。
知識を持たないという事ではありません。
現象として現れるこれらすべてが、ほんとうは何処から来たのか、
この「わたし」と思い為すこの身体ではなく、真実のわたしとは何なのか、
それを知る事が無いから、無明と言われます。
真実の愛の光が届かないから無明と言われます。

多くの人が、無明の故に迷い、苦悩を抱えて生きているのです。
苦悩を打ち消す安心を得るために、戦って生きています。
人より多くを得るために、人を押しのけても戦います。
マインドが自我に、生存に縛り付けるから戦います。

戦い、得られたら、次には失う恐れが「わたし」を支配します。
それで更に得ようと戦います。
貪欲(とんよく)と言われます。

どうあっても、「わたし」は足りていないと主張するのです。
「今」、この「今」足りているにも関わらず、足りないと言い張るのです。
「愛されていない」と不満を言うのです。
「必要とされていない」と訴えるのです。

ほんとうは、我々は、幸せに満たされる事を望んでいるのです。
しかし、ほんとうの幸せさえわかりません。
それだから、得ようと戦います。

無明に、真実の愛という光を浴びてください。

明知と言われます。
ひと度その「真実の愛」という光を浴びたなら、無明が明知の光に照らされ、
自分が何によって苦悩に落ちていたかを明らかに知るのです。

自我という囲いを取り去ればいいのです。
ありとあらゆる「わたし」に関わるものが自我に展開されています。
それを、明け渡せばいいのです。
そうするなら、明知の光に満たされるでしょう。

では、何に明け渡せばいいのでしょう。
その対象は何でしょう。

仏像?曼荼羅?あの山?お日様?プレアーデス?お釈迦様?キリスト?

そうじゃなく、我々が現されている、その力を有している第一原因にです。
我々が出てきたその源泉にです。

それが自我を離れたところにあります。

それは対象として捉えられません。
形も大きさも無く、どうしたって形容される言葉はありません。

明け渡す対象を探すなら、それはどうしても自我の中を探しているのです。
外の世界に探しているのです。
それだから、宗教になってしまうのです。
そうして「信じる」に憑依され、身動き取れなくなってしまいます。

究極の苦悩の最後には、絶対的にあきらめるしかありません。
その時には、「もうどうにでもしてくれ。何でもいいから好きなようにしてくれ。完全に降参だ」となります。
全てをあきらめ、手放します。

その時、その「何でもいい何かが」が、「よし!引き受けた」と救い上げてくれるのです。
ひとつのこらず、手放した時、それを聞き入れてくれるのです。
欠けらのひとつでも、自我に隠し持っているなら、引き受けてくれません。
完全に明け渡すのです。

その引き受けてくれる「何か」が源泉です。
真実のわたしです。
古の聖者が言うところの神です。
それは宗教の神ではありません。

それは対象としては捉えられないけれど、我々はそれと何時如何なる時も、それの中に、その要素として存在します。
自我という物語を映し出すスクリーンの中で主人公を演じきっているため、わからないだけです。

この自分の物語は、その真実のわたしに帰還する物語なのです。
全くのハッピーエンドの物語なのです。

では、救い上げられた事を、どうやって知るのでしょう?

全てを手放し、任せ切った事による、解放感が、安堵が、もう苦悩と戦わなくていい安らぎが、それを教えてくれます。
その時、解放された事による至福が、喜びが湧いてきます。
次の瞬間、それが全くの愛であることに気づきます。
条件の無い、理由の無い愛です。
全く純粋な、これこそが愛だという、愛です。

その愛に満たされ、もうその源泉に完全に従うしか無い事を知らされます。

あらゆる事を、受け入れる事を自らに許可するしか無くなります。

無明が明知で照らされる瞬間です。

なんという喜びでしょう。なんという幸福感でしょう。
その愛の故に泣きます。
その愛の故に満面の笑顔になります。
その愛の故に感謝せずにはおれなくなります。

では、究極の苦悩に至らずに、それに明け渡し、救われる方法はないのか?

胸にそれを感覚してください。
左右の胸筋の中央です。
そこに聖なる通路、ハートがあります。
それに明け渡してください。
そこは、世界が現れ来る神聖な場所です。

胸がキュンとなるそこです。

そこに、あなたの過去も、未来も、この「今」も、全部を明け渡し、任せてください。
自我から離れ、そこを向いてください。

自我を、マインドの思考を、遠巻きに見る感覚を養ってください。

その状態なら、自我があっても、自我から離れています。
その状態で、ハートに明け渡し、ハートを信頼し、ハートを受け入れるなら、応えてくれます。
究極の苦悩から手放したとおなじ、至福に満たされます。

この世界の何に手放しても、自我の中の出来事です。幻です。

しかし、唯一真実に導通するそのハートに手放すなら、叶えられます。
そうでなければ、究極の苦悩に至るまで苦悩を味わい、選択肢の無い状態で手放すしかありません。
むしろ、そのほうが楽?かも知れません。

いずれにしても、「明け渡す」しかないのです。
この素晴らしい恩寵を頂いてください。
次は、絶対あなたが、それを頂けますように。

 

2012.05.23

 

*Hさんから頂いた記事のコメント欄からいくつかの問答をピックアップして付け加えておいた。(2019-06-09記)


[読者A]ハートの感覚(閉じてる?)

花岡さん、こんにちは。 

胸の真ん中あたりを意識してみると、そこが堅く閉ざされているような感じがするので、その堅い感じをじーっと観察するようにしていたのですが、そういうやり方で大丈夫でしょうか? 

長時間そうやってたら、ハートが開いてくるでしょうか?

 

[花岡]

Aさん。 
こんにちは。 

それぞれの記事は、ただひとつの事、目覚めについての断片です。 
そして言葉は、記事内の断片です。 
それぞれの言葉、記事に、何かしらの意味は込めてはおりますが、 
それぞれの意味を繋ぎ合わせないと、一本の川が流れません。 
言葉を認識するのではなく、意味を感覚してみるのがいいと思われます。 

さて、胸を意識しても閉じているのは、何が胸を意識しているかによります。 
意識しようとしているのは、自我(マインド)でしょうか。 
それとも、それ以外(わかる事の出来る感覚)でしょうか。 

自我が胸を意識しても、閉じています。 
外からは、内側は見えにくいのです。 

胸に意識を向ける前に、思考、マインド、自我を、観察してください。 
思考の動きを、離れてみてください。 
その時、自我は見られる者です。 
では、見ている者はなんでしょう。 
その者に、ハートを見せるのです。 

まず、思考、マインド、自我を観察する能力を養わなければいけません。 
観察できる状態になるなら、すでに、観察する者はハートを漂っています。 
その観察する者に、ハートを感覚させるのです。 
その時、すでにハートに溶け込んでいる事に気づくでしょう。 

それがわかれば、観察者が胸で眠りに入っても、マインドによって日常を暮らしていようとも、 
何かしらアクセスしてくるのを、五感以外のセンスが捉えます。 
(胸で眠るわけではないのですが、そういう表現で降りてくるので、そのフィーリングに同調して読んでください) 

Aさんは、今、わけのわからない、捉われの苦に陥っているのはわかります。 
しかしながら、それさえも、予定どおりの物語です。 
順調です。なぜなら、捉われを手放すための苦悩を体験しているからです。 
わたしは確信しております。絶対それは捨てるしかなくなるという事を。 

どうにもならなくなったその時には、いさぎよく、それを捨て去ってください。 
いさぎよくとは、潔くと書きます。 
捨てた瞬間、潔らかな(きよらかな)者になります。 
そうであるなら、真我が、あなたを捉えないはずはないのです。 

悟るために、それをしようとしても、それはできません。 
悟りは、この際、あきらめてください。 
悟りなんて、ほんとうは無いんです。 
これこそ悟りです。 
そう言っておかないと、いつまでも自我の中で、「悟ってやる」が暴れます。 
悟りなんて、自我を捨てるまえに、捨ててしまいましょう。 

どうであれ、わたしから見れば、順調に運ばれています。 

真我も、我々も、Aさんを置き去りになどしません。 
我々はひとつです。 
そのひとつを信頼してください。 
それがハートと繋がっています。 
信頼して、それに明け渡してください。任せ切ってください。

 

[読者A]「観察者」

花岡さん、ありがとうございます。 

ですが、よく分からないのが「観察者」です。 

思考を見ようとするのも、また思考のような気がするのです。 

それから、思考を見ようとしていると、時々心が暴れだすことがあります。つまり、心(この場合は、思考でもないし、何らかの通常の自分ではない心の要素)が暴れだして、言葉が滅茶苦茶に出てくることがあります(といっても、声に出すわけではなくて、心の中で)。 

でも、これ(心の暴走)を見ているのも、また思考のような気がするのです。

 

[花岡]

そのとおりです。 
なぜなら、思考から抜け出そうとすると、マインドが恐れるのです。 
それだから、マインドが思考に戻そうとします。 
やろうとしてやっているうちは、思考の中です。 
観察する者と、観察される者が明確に区別されなければいけません。 
恐怖がそれを阻むのです。 

もっと、かしこばらずに、 
リラックスして、 
少しずつ、 
慣れていく、 
最初は、0.1秒でいい。 
遊び感覚でいい。 

ゲーム以外の、なにか感動するものを見るのもいい。 
風景とか、映画とか、すぐれた匠の技とか、 
知らず知らずのうちに、ハートが呼応するようなものを、 

感動は、味わいに似ている。 
そうやってハートに近づいて行くのもいいと思いますよ。 
感動は、思考ではない。 
後で思考が言葉を与えるのです。 
美しいとか、見事だとか、すばらしいとか、 

でも、感動そのものは、思考ではない。 
まずは、慣れていくことです。 
すぐにできると思ったら大間違いです。 
そうやって、内側の気づく力を育ててあげるのです。

 

[読者A]身体とエゴ

花岡さん、おはようございます。 

いつも新しい記事や、コメント欄での回答、ありがとうございます。 

さて、今日は一つ疑問があるのですが、それは身体とエゴの関係です。 

これまでここで何度か書かせていただいたように、 
私がふだんよく感じるジレンマに、 
「頭では『こうしよう』と思ってるのに、身体が動かない」 
ということがあります。 

この場合、 
「こうしよう」という思いは「思考・マインド」と理解できますが、 
動かない身体のほうは、一体何なんだろう? 
という疑問です。 

「身体のほうが、ほんとうの答えを知っている」みたいな話も聞いたことがありますが、 
私の場合、必ずしもそうでないような気もします。 

動かない身体もエゴだとすると、 
エゴは一人の人間に複数同時に存在するのでしょうか? 

でも、それがエゴだとしても、 
動かない身体は「思考」ではないですよね。 

 

[花岡]

Aさん。 
わたしは次のように、思うのです。 

エゴ(自我)の中で数えきれない程の思考が交錯します。 
「わたし」がある以上、「わたし」が感覚する全て、五感で捉える全て、存在の一切がエゴです。 

しようと思うけど動かない。 
特別な事ではありません。 
だれだってそうです。 
やりたくない事はとっかかりにくい。 
やりたい事はやってしまう。 
人間は普通、そうじゃないですか? 

思考と抑制思考が激突しているだけです。 
その結果、思考と動作に同一性のエラーがでているのです。 

掃除しなければ、するべきだ、という常識的価値観による思考が責め立てても、 
めんどうだ、やってもすぐ汚れる、疲れる、という怠惰に見える無価値観的価値観による思考が否定します。 

ゲームは楽しいから行動に移せます。 
楽しむ事は悪い事ではありませんが、常識的価値観が、これではいけないと断定します。 
それよりもっとやるべき事があるじゃないかと責め立てるから、全く楽しめません。 

しかし、身体は快楽というドーパミンを求めます。 
だからゲームに楽しさを求め止められません。 

価値観が、それより掃除でもしろと責め立てます。 
しかし否定的思考が、ノルアドレナリンを抑制します。 

結局、動くにも動けず、自分はだめなやつだと言い出します。 

人は誰でも、ある程度のそのような倒錯に陥っているのです。 

否定と断定をやめればいいだけです。 
価値観という尺度を捨てるだけです。 

やりたければやればいいのです。 
やりたくないなら、やらなければいいのです。 

ゲームを楽しみたいなら、そこに否定思考を持ち込まず、徹底的に楽しんでいいのです。 
掃除をしたいのであれば、めんどうだ、無駄だを持ち込まず、やってみれば綺麗に片付いていくのに感動します。 

否定と断定を持ち込むから、倒錯します。 

さて、やるか・・・で動き出せばいいだけです。 

楽しい事だけしてていいのか?と思うでしょう? 
楽しい事だけしなさいという聖者?もいますよね。 

そうじゃなく、楽しむのです。 
ゲームを楽しむように、お掃除を楽しむのです。 
否定と断定を持ち込まなければ、楽しめるのです。感動できるのです。 

あらゆる事を楽しんで生きるのです。 
プレッシャーも、苦も、怒りも、悲しみも、もちろん娯楽や、恋愛や、食事や、入浴や、 
ありとあらゆるものを、楽しむのです。 
体験の全てを、楽しむのです。 

人間というものが、わかっていきます。 

楽しめるものか!って言いたい? 
また否定と断定を持ち込もうとしてはだめですよ。 

それと、 
したくないを、責めてはいけません。 
しないでもいいのです。 
したくなったらする、ただそれだけです。 
疲れたら休む、それでいいのです。 
すーーーーっと休む?もちろんそれでもいいのです。 
それらを楽しんでください。 

そうすると、なにが起こっても、どうでもいいなぁ~って思えます。 
こだわらなくなります。 
断定しなくなります。 
断定しなくなれば、否定もしなくなります。 
あるがまま生きられるようになります。 
自分はこれでいいんだって心底思えるようになります。 

そうは言っても、すぐゲームに逃避したくなるかもしれません。 
それでも自分を否定してはいけません。 
これも修練です。 
ちょっとずつでも、そう移行していけばいいと思います。 

Aさんは、みんなに支えられて、幸せですね。