わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

 悟ったのかと聞かれても 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。これもコメント欄がありましたので、最後に青字で付加しておきました。ハンドルネームはイニシャルに変えてあります。

 

悟ったのかと聞かれても

 

あなたは悟ったのですか? 直球勝負で来る人は、とことん直球の質問を投げてきます。

 

わたしはいつもこう聞かれて、正直に言うと、どう答えていいか、なかなか言葉が出てきません。

 

それは、「悟った」という状態がどういうものなのか、実は知らないからです。

 

ただ、以前の自分とは明らかに違うという事は言えます。

なにが違うのかといえば、

 

まったく願望がありません。

欲しいものがありません。

何にも執着しません。

 

だから「悟り」さえ、欲しいとも思いません。

そのようなものは、どうでもいいのです。

 

ただ、今までの価値観は完全に消滅して、知らなかった真実がわたしの中を占めています。

 

あの日、この胸の「ここ」に、言葉では言い尽くせない至福が溢れてきてから、

条件なしの、理由なしの、わけ隔てのない愛に包まれてから、

わからなかった事が次々わかっていって、

 

今までの自我に支配されていた自分が、

あれやこれや、思い悩んでいた自分が、苦しんでいた自分が、惨めな自分が、

人を恨む自分が、嫌悪する自分が、逃避する自分が、他を羨む自分が、

 

完全に吹っ飛んでしまって、

 

ああ、このまんまで、いいんだと、心底思えて、

 

完全に自由になった感覚と、

なによりも、この内側に源泉を、神を感覚できる幸せと、

溢れる感謝の想いと、

 

全ては源泉と自分との関係から現れているこの世界を感覚して、

全ては自分そのものだと感覚できる解放感と、

 

こうなってしまった以上、「悟り」とか「覚醒」とか、

もうそんなもの、どうだっていいじゃないかって思えるのです。

 

あの日、わたしは自分の一切を神に明け渡しました。

明け渡した自分は、もう、神が好きなようにすればいい。

後は、なんでも受け入れる。

 

スッタニパータで仏陀が言う、雨を降らせるなら降らせよ・・・っていう状態です。

 

どのような雨でも、わたしは微笑んで受け取りましょう。

そう、「ここ」から溢れ出る至福で、わたしの口角はいつも上がりっぱなしです。

微笑んで日常を生きていられます。

 

今までと同じように、明日はどうなるかわからない身の上でも、

明日食べるお米が有ろうが無かろうが、わからない身の上でも、

(実際にそうなんです)

 

空中を飛び回る夥しい光の粒子たち

闇を漂う霧

虹色に輝く雲

 

正体がつかめぬものも見えたりするけれど、

わからないものはわからないままでいい。

わからなくてもいいものもあるのでしょう。

 

なにも持っていない事が、なんと幸せな事でしょう。

 

第四のチャクラと、第七のチャクラが開きました。

 

神と共に在る事の喜びも、おそらく伝えきる事など出来ないでしょう。

 

それだから、わたしは悟ったかどうかなど、どうでもいいし、

そんなこと、知りません。

 

わたしは思うのです。

「わたしは悟った」などと言う聖者は、きっと悟ってなどいないのでしょう。

それは他者が、どのようにでも判断していい事なのでしょう。

 

金剛般若経にあるように、

悟った悟ったというのは、悟っているのではない、それだから悟りと言われるのだ・・・と。

 

全くそのとおりだと、全く全く、そのとおりだと、わかるのです。

 

悟ったと言い切れるのは、悟りに執着があるのでしょう。

心のどこかに、虚栄を隠しているのでしょう。

ほんとうは、悟りなどと言うものは無いのです。

それだから、「悟り」と言われるのです。

 

あるがまま。

それでいい。

 

それで何も間違っていない。

 

2012-03-22

      

 

[読者H]

同じ体験をされている方がいらっしゃることに驚きました。

      

[読者T]

毎日読ませて貰ってます。 

まるであの領域から降りてきてるような 

かざりけとまざりけのない 

ハートに響く書き込みですね。 

 

苦しんでる魂の道しるべになっているブログだと 

思います。 

 

今ここで触れることができてありがたいことです。 

      

[読者K] 教えてください

はじめまして 

 

少し前からブログを読ませていただいています。 

今回の記事も非常に納得させられた反面、 

ますます花岡さんはすごいという風に感じてしまいました。 

 

私は悟りたいと思って生きていたのですが、 

では実際悟りとはどういうものかということはわかっていませんでした。 

今は悟りがどうということはともかく、花岡さんのようになりたい、 

「完全に自由になった感覚と、なによりも、この内側に源泉を、神を感覚できる幸せ」を自分も知りたいという思いが強いです。 

 

そこで教えていただきたいのですが、 

具体的にどうすれば私もそのような境地にたどりつけるのでしょうか? 

役立つであろう具体的な瞑想法などがあれば教えていただきたいのですが、 

それとも方法なんてものはなく、私もそこまで委ね切れるまで苦しみ続けなくてはならないのでしょうか? 

 

もし花岡さんから参考になる方法やご助言をいただければ大変ありがたく存じます。 

何卒よろしくお願い申し上げます。

      

[花岡] Re: タイトルなし

> 同じ体験をされている方がいらっしゃることに驚きました。 

 

同じ体験をされたことに、とても喜びを感じております。 

他にも、仲間がたくさんいらっしゃるようです。 

人はだれも、素敵だなって、あらためて思います。

      

[花岡] Re: タイトルなし

読んで頂き、ありがとうございます。 

 

つたない文章ですが、これからもよろしくお願い致します。

      

[花岡] Re: 教えてください

> そこで教えていただきたいのですが、 

> 具体的にどうすれば私もそのような境地にたどりつけるのでしょうか? 

> 役立つであろう具体的な瞑想法などがあれば教えていただきたいのですが、 

> それとも方法なんてものはなく、私もそこまで委ね切れるまで苦しみ続けなくてはならないのでしょうか? 

> もし花岡さんから参考になる方法やご助言をいただければ大変ありがたく存じます。 

> 何卒よろしくお願い申し上げます。 

 

このコメントについては、本記事に載せるようにします。 

すぐにはできませんが、(書きたいことはなかなか自由には書けないようです)お待ち願います。

 

◎「質問への答え(Kさんへ)」を参照してください。(ブログ管理人より)

      

[読者K]

花岡さんご親切にありがとうございます! 

 

楽しみにお待ちしています!

      

[読者T]

ご返事までいただき、ありがとうございます 

 

湧き起るそのままの言葉がいいですね 

 

何よりのごちそうです。 

 

おいしくいただいてます。 

 

これからもよろしくお願いいたします。 

      

[読者Y] しあわせ

未熟な僕でもあるがままでいいんですね。 

上りも下りも幸福への道。 

色んなことをおそれずに経験していきたいです。 

素敵なお話の数々ありがとうございます。

 

【花岡】Re: しあわせ

Yさん、こんにちは。 

 

そうですね。 

経験するために、生まれて来てるのですから、そうしてください。 

 

楽しい時も、ガッカリな時もありますが、後で振り返れば、必要な楽しい時、ガッカリな時だったと気付きます。 

 

コメントありがとうございます。