信じるとはつまり、騙されているという事なのです 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんから頂いた記事です。
信じるとはつまり、騙されているという事なのです
アクセス下さる読者皆様に心から感謝申し上げます。
このブログは、わたしが体験し、そこから学びわかった事を記しております。
どうでしょうか。
一連の記事内容を、皆さんは理解して頂けてるでしょうか。
これらを書き始めた理由は、今まで自分だと思っていたこの「わたし」意識とは違う、今まで気付けなかった次元を超えた真実の自己があるのだと、知るに至ったからです。
人に教えようとか、おこがましい事など考えてはおりません。
わかって来たうちの、大まかな内容を、言わばメモとして残しておこうと考えたのと、真実の自分の理解、真実の神の理解、「わたし」という意識のもっと根底に広がる無辺の世界、そのような気付きに、もう少しで手が届きそうな方の、ささやかなヒントにでもなればという思いから、書き始めました。
教えよう等とは考えていないから、理解されなくてもそれはそれでいいのです。
教える役目は、他の聖者・賢者皆様がしてくださるでしょう。
しかしながら、人が陥りやすい傾向があり、その事について実は危惧しているのです。
それは、これらを理解するのでもなく、体験するのでもなく、ただ信じてしまう人がいるのであれば、それはある意味危険であり、わたしの本意とするところでも無いという事です。
人は体験からしか学べないし、体験を通してしか本当にわかる事ができないのだと、改めて思っております。
例えば、それが真実真理であったとしても、人から言葉によって伝えられる事は、同じ体験、あるいは似通った体験をしない事には、完全にその意図、意味を汲み取る事は出来ません。
聖書や聖典、仏典に記された事柄も同じです。
気づきや覚醒、悟りに触れた者にしかわからない事がそこには記されているからです。
まったく全てが理解不能であれば、何の問題もありません。
こんなしょうもないもん・・・と放っておけばいいのです。
しかし、我々は幾つかの生の遍歴によって、様々な事を体験し、それによって学んできました。
聖書、聖典、仏典に記された幾つかは、それで汲み取る事も出来ます。
それだからこそ、これは真実であるに違いないと、ただそれだけで、全部を信じてしまう自己誘導に陥るかも知れないのです。
かつて、プトレマイオスの天動説、コペルニクスの地動説、発表された当時に於いてはそれぞれに支持され、皆がわかったような振りをしていたのでしょう。
今は、どちらが支持されているのでしょうか。
まあ、それも国の事情によって今でも異なります。
わからないうちは、どちらかが正解で、どちらかが間違いなのだろうと思います。
とりあえず、大勢を占める意見を取り入れるのが大方の受け入れ方なのでしょう。
わかってしまえば、どちらも不正解だと言い切れるのです。
実際は、天も地も静止しておらず、どちらもアクティヴな動きの中にあります。
しかも、驚くほどの高速で。
天動説も地動説も、相対の一方に偏って見る事による概念に過ぎません。
真理、真実、神や真我・自我、アートマンやブラフマンも、わからないうちは概念の中で取り沙汰されているだけです。
ところが、何度も繰り返し「こうなのだよ」と言われ続けると、「そうかも知れない」「そうに違いない」と、わからなくても信じてしまいがちです。
そうして意味もなく、有難がったりします。
それだから、信仰と言われます。
信じて仰ぐ。
信じる事は、わかるという要素が介入しません。
わからなくても信じてしまえるのです。
信仰・信心は、多くの聖者によって、人にとっての尊い行為であると言われる場合があります。
ただし宗教上の理由からでしかありません。
わたしのようなアドヴァイティスト(注参照)の立場に立つ者にとっては、とても違和感があるのです。
つまり、信じるという行為が何故こうも簡単にできてしまうのか不思議でしょうがないのです。
わかっていないのに、信じてしまえる不思議さです。
しかし、信じる人は、わからないから信じるのだとも言えるでしょう。
わかったら、信じる必要などあるはずが無いからです。
「わたしは1+1=2であると信じている」と言う言い方は誰もしません。
それは、明らかに誰でもわかっている事であるから、そのようには言わないのです。
本当にわかったなら、もはや信じるという境界を越えてしまうのです。
さて、このブログでわたしが言い続けてきた事は、理解されているでしょうか。
同じような体験をしてきた人にはわかると思います。
しかし、皆がこのような事を体験した訳ではないでしょう。
そうであるなら、わからない人の方がほとんどかも知れません。
わからなくても、何も問題ありません。
ただ!
「わからない事は、わからないままにしておいてください」と言いたいのです。
それを信じ込もうとするのはいけません。
人は、前述のように、わからない事を信じてしまう傾向があるのです。
はっきり言います!
信じるという事は、騙されているという事と同じです。
わからない事は信じたりせずに、そのような捉え方もあるのだろう、ぐらいの受け止め方でいてください。
信じない事は、疑う事ではありません。
我々は、信じない事を否定と同義とする傾向がありますが、それは別物です。
信じる事が、いかに脆弱性をはらんでいるか、わかってください。
人は、わからなくても信じられるのです。
そうして、やがて、知らないのに知っていると思い為してしまいます。
つまり、信じるから洗脳されます。
信じる対象に依存してしまうのです。
ついには、信じているだけで実際にはわかってないという事実さえ、見失ってしまうのです。
そのようにして、取り返しの付かない事件に巻き込まれて行く人のなんと多い事か。
それだから、真実・真理は、宗教的な位置づけで探求しようとしても、実のところ難しいと言えるでしょう。
占い、霊障、いわゆる外の世界の神、こっくりさん、怪しげな新興宗教、○○○星人とのチャネリング、いろんな事があなたの意識の中で他人の言葉によって誘導され、あなたが意味づけして固定してしまいます。
それが信じるという事です。
それは、全て、あなたの意識の中の、あなたが意味づけしてしまう虚偽です。
それは、「あるがまま在る自由」を拘束してしまいます。
こうでなければいけない、こうであるべきだ、というありもしない固定された概念を基に論争闘争に走らせます。
主義主張や思想による論争、宗教闘争は、わかっていないのに信じてしまうから起こる、エゴ対エゴの対立です。
わからない事は、恥ではありません。
わからない事は、わからないと言い切れなければいけません。
それが、あるがままの今であるのなら。
それだから、わたしの言う事も、信じてはいけません。
わからないうちは、わからないでもいいのです。
わからなくても、体験していく日常が、わかる状態に導いてくれます。
しかし、信じてしまえば、もうそこで道は閉ざされます。
信じているから、何も受け付けない状態になってしまいます。
何を言っても、跳ね返されます。
盲信、狂信と言われます。
人には誰にでも、わかる能力、その力を備えている奥底の部分があります。
素直なその部分が、わたしにはよく見えています。
それだから、そのような信じてしまう状態に陥った人を見る度に、「もったいないなあ」って、つくづく思うのです。
「信じる事なしに、もっと探求を持続させれば手が届くのに」と思ってしまうのです。
人の現状は、様々です。
苦境にあえぐ人もいるでしょう。
また、楽に人生を歩いている人もいるでしょう。
しかし、最初から最後まで楽々に歩いて終わるなら、学びはありません。
無駄な人生とさえ言えます。
苦しみ、悲しみ、喜び、そのような時々の変化があってこそ、気付き、学びがあります。
このどうしようもない苦しみの意味は、何なのだと、頭を抱えて問わずにはおれないその事が、やがては答えを導きます。
人から教えてもらった事が、その問いを完全に満足させる事は、無理かと思うのです。
僅かに、ヒントや支えにはなってもです。
あるいは、信じてしまって、学びを放棄するのであれば、それはとてももったいない事です。
しかし、信じてしまって失敗するというその事も、人にとっての大切な与えられた失敗である事が、悲しくも悔しく、どうか信じないで、わからないならわからないまま、歩き続けて欲しいと、言ってしまいたくなるのです。
とにかく、体験しない事には、やはり始まりません。
その体験が、次の偉大な悟りへの体験のステップである事には違いありません。
どんな事にも、それなりに意味があり、導かれているのです。
従って、あなたの為すべきは、導く彼、全てを与える彼、真実のあなた、神に委ねて、エゴを差し出す事。
それ以外に無いのだと言う事です。
導きを信頼し積極的に受け入れるという事です。
その時、導かれるべき道さえ一瞬のうちに解き放たれ、ショートカットで神によって引き受けられます。
実に不思議な事が起こるでしょう。
誰もが、早く、その喜びに歓喜して欲しいのです。
それが、たぶん。
あなたの遍歴を重ねて来た長い長い物語の、目的、あなた自身の使命なのでしょう。
その使命感を忘れてはいけません。
その物語が、その旅が終わるまでは。
2013-06-16
(注)アドヴァイティスト=advaitist . .花岡さんは、advaita(アドヴァイタ)の徒・主義者という意味でこの語を使っていると思うが、花岡さんの造語だと思う。私の知る限り、このような語は見たことがないし、調べてもこのような語はない。advaita とは、サンスクリット語で、a=not ,dvaita=two、つまり、「2ではない」ことを意味し、シャンカラの流れを汲むいわゆる「不二一元」一派のことをいう。今、流行している「非二元」もadvaitaを英語に訳したもの(nonduality)をさらに日本語訳したものにすぎない。さらに言えば、アドヴァイタではなく、アドワイタと表記する方がサンスクリットにより忠実である。サンスクリットをラテン文字に転記する規則では、VはWの発音となる。テーラワーダ仏教のテーラワーダ=Theravada も英語圏ではテーラヴァーダと言われるが、日本語のテーラワーダの方がより原語の発音に近い。(ブログ管理人より)
◎この記事にはコメント欄も付属していて、記事の内容に関するある読者の質問と花岡さんの回答が続いていました。記事の理解に役立つと思われるので、以下に添付しておきます。青字は読者の質問です。
それ以外に無いのだと言う事です。
導きを信頼し積極的に受け入れるという事です。
具体的にはどういう意味なのでしょうか?
よろしく御回答お願い致します。
さて、具体というのは、手法を訊ねているのでしょうか、それとも、意味を訪ねているのでしょうか。
これは、このまま具体として載せているのではありますが、更に申し上げます。
何度も同じ事を載せているので、他の記事も参考にして頂ければいいのですが。
我々が人生で苦悩するのは、「わたし」つまり思考するエゴが「起こり来る事」に否定的な意味づけてしまうからではないでしょうか。
それは他者との比較によって、自分を劣っている者、恵まれない者、惨めな者、様々な妄想に駆り立てます。
もしも、世界の人々が何もかも皆一様に同じ水準であれば、「自分だけが」という思いは起こらないでしょう。
人は自分が格として下にある事が、どうにも辛くてしょうがないのです。
ところが、更に下層にいる人たちの事は思いやる事が少ないのです。
常に上を見ては、嘆き、得ようとして戦います。
単に思考だけを言うなら、エゴとは称しません。
そこに「欲」に根差した願望があるからエゴと呼ばれる「わたし」がクローズアップされるのです。
そうして、恥、虚栄、失う恐れ、愛でる対象への執着、戦う痛み、慢心、そのような事とも戦わなければいけません。
苦悩とは、そのようなエゴに起因する妄想、思い違いによって起こる倒錯なのではないでしょうか。
それが真実の我々の、神の本性を覆っているのです。
わたしは何も得ていないと、人々は言い嘆きます。
しかし、人は全てを与えられています。
もしも、ほんとうに得られていない人には、必要なものが与えられるのです。
世界は、そのように運ばれ、動きます。
それがわからないのは、ほんとうに得られていない状態に陥った事がないからです。
人は、そのような神の無償の愛に、いつ気付くのでしょうか。
いつ神を悟るのでしょうか。
起こる事が、全て与えられ起こっている。
その起こる事が、エゴの故に気に食わないと言っては嘆く。
これでは、みこころによって与えてくれる神を、いつ悟れるのでしょうか。
このエゴ、「わたし」が真実ほんとうの自己であるか、検証する事が必要です。
エゴは消滅させる事は不可能かも知れません。
しかし、真実の自己から、「剥ぎ取る」事は出来ます。
剥ぎ取られたエゴも、実は与えられたものです。
つまり実は、苦悩そのものも、与えられた教材にすぎません。
それを与えて下さった神に、もう必要ありませんと、お返しすればいいのです。
お返ししますから、好きなようにして下さいと、委ねればいいのです。
委ねるしかありません。
末梢できないのですから。
そうすれば、みこころによって、ありとあらゆるものが与えられていた事に気付きます。
人生も、その苦悩も、教材として与えられていた事に気付きます。
気付かないのは、剥ぎ取れないからです。
剥ぎ取るというのは、真実の自己にシフトするという事です。
それは、ただ、在るであり、それを実は神と呼んでいるだけです。
我々は、それぞれ、ただ、在る、である事に気付き、それにシフトする事です。
手法については、苦悩という教材を、上手に使いこなす、としか言えません。
つまり、諦めて腹をくくり、開き直る事です。
あるいは、瞑想が、その手助けとなるでしょう。
まず、在る、に突入する事です。
苦悩に陥ったら、試してください。
>まず、在る、に突入する事です。
とは、自分に生じてくる出来事に対し、いちいち諦める、期待しないという心の態度のことを言うのですか?
思考を伴って認識する全ては、世界も含めて、思考である「わたし」が思い描く思考でしかなく、それとは別の真実の自分が在るという、立場に立ち、それに可能な限りの意識のフォーカスを試みるという事です。
しかしながら恐らく、思考の「わたし」と真実の別の自分が在るのかどうかさえ認識できないでしょう。
ですから、そこまでまだ知る必要はありません。
まず、思考しているその思考に気づいていられるかどうかが問題です。
気づいているなら、それに気づいている者はだれであるかを、見るのです。
思考している「わたし」と、その「わたし」に気づき見ている者、その両者の位置に気づくのが先です。
そうでなければ、今のまま、思考の囲いの中で、思考によって気づきが阻害され続けます。
>手法については、苦悩という教材を、上手に使いこなす、としか言えません。
つまり、諦めて腹をくくり、開き直る事です。
この説明と、
>まず、思考しているその思考に気づいていられるかどうかが問題です。
気づいているなら、それに気づいている者はだれであるかを、見るのです。
思考している「わたし」と、その「わたし」に気づき見ている者、その両者の位置に気づくのが先です。
この説明はどのようにつながるのですか?
全く別のことを説明されているのでしょうか?
私の中で混乱がありますので、解説していただけますか?
後者は、前の質問について述べています。
前者についての更に質問が出たのを見て、思考で理解しようとしているのがわかったから述べた訳です。
このような事は、思考では理解できません。
ところが、理解するのに思考以外を使おうとしないから、思考の範囲でしかわからないのだと思います。
思考以外の直感覚的理解の働きをまず呼び起こす必要があります。
それだから思考を分離させて思考そのものに気付いていながら、それから離れて見る立場に移行する事をしてみてはいかがでしょうか?と言っている訳です。
これに続く、疑問が出てくるなら、思考の連鎖にはまっています。
つまり、どのような答えを示しても、そこにまた新たな疑問と思考を湧き起こす連鎖です。
連鎖は、ご自分で断ち切るしかありません。
あるいは、連鎖が止まるまで、これについて考える事を休むのがいいかも知れません。