わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

悟りのメソッド 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。最初期に属する記事で、平易な文体で書かれています。後になるにしたがって、花岡さんの文体はかなり凝ったものに変わっていきます。
 
悟りのメソッド
 
生き生きと輝ける青い地球。
その青さは、まるで命の育み、命の活動そのもののように見えます。

ここに70億の人々が住み、笑い、泣き、悩み、迷い、幸と不幸を味わいながら、
誰もが悟りに向かって生きています。

「人は生まれながらにして、悟りから逃れられない」と道元は言いました。

それに誰も気づかないけれど、
不思議な事に、どうしても悟りに憧れを抱いてしまう人が出てきます。
それは生まれる前から予定されていた命題として現れてきます。

そして、たいがいの場合、それを宗教に求めてしまいます。
宗教以外に、悟りに至るメソッドは無いと、頑なに信じてしまっています。

たしかに経典は美しい真実が散りばめられ、まるで輝く宝石のようです。
でも、その真実は、悟るまでは読み取れないのです。
悟った人の言うことは、悟ってみないことには、
ほとんど理解できないものなのです。

それで、とりあえず人は、その言葉の数々を信じてみて、
信じていれば、いつかきっと悟りに到達すると思い込んでいます。

そうして伝統的な修行と呼ばれるものに取り組み、
努力して掴み取ろうとします。

努力こそが必要だ。信心こそが絶対だ。・・・ってね。
そこから抜け出そうなんて、みんな考えもしないのです。
これは重大な過ちです。

実は、普通の人が悟るのです。
そこに努力も、信じるも、必要ありません。
っていうか・・・信じたら、お終いです。
それ以上、前に進めません。
信じるっていうのは、判っていないのに、受け入れてしまう、
言ったら、公式を暗記するようなものです。

どうしてその公式から答えが導き出されるのか全然わからないけど、
とりあえず、答え・・・出ちゃうじゃん? っていうのをね・・・信じるっていう。
答え出ちゃってるんなら、もういいんじゃない?って。
止まってしまうんだよね。

悟りは、自我の絶対的な拒絶のうちに現れます。
努力するんだ!信じるんだ!・・・これでは自我の奴隷です。
宗教を放擲(ほうてき)するなら、すぐここに、悟りが転がっています。

過去の聖者たちは、宗教によって悟ったのではありません。
彼らは、純粋に真実を探し求め、結果、判ったにすぎません。
ゴータマも、イエスも、クリシュナも、だれも宗教家ではありません。
周囲が、仏教をつくり、キリスト教をつくり、ヒンドゥー教をつくったのです。
言ったら、わかっちゃいない集団が宗教組織です。

悟りのメソッドなんてありません。
純粋に、そして真摯(しんし)に真実と向き合う、それがメソッドです。

そして、その答えが、今の自分の生にあるのです。
誰もが今生きて、体験しているその中に、学びがあるのです。
誰の生も、そのための課題の故にあるという事に気づかないといけません。

それだから、あらゆる起こる事を・・・受け入れなさい。

どうしてもそれは掴み取るものでも、至るものでも、達成するものでも、
開発するものでも、ないのです。
それは、源泉から与えられる恩寵によるしかないんです。
しかも、源泉は、いつでも準備OKだ。
準備ができていないのは、悟りを欲しがる方。

欲しがらなけば、与えられる。
努力も、修行もなしに。
ただ、絶対的に唯一存在する源泉を信頼しきって、真摯に向き合うだけだ。

さあ、この人生を現しているのは・・・なに?
世界を具現させているのは・・・なに?

真実は変わらない。 変わらないから真実と言える。
変わってしまう真実は、虚偽でしかない。
瞬間瞬間変化してやまないこの現実の世界。
これは、真実?
それとも、これを表現しているあの永遠に変わることのない源泉が真実?

自我にはわからない。

真我にしか・・・わからない。
 
2012-02-29