瞑想で悟れるか? 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎これも最初期に属する記事。文体は平易。前記事「悟りのメソッド」の続編のような内容です。Hさんからいただいた記事です。
瞑想で悟れるか?
瞑想は自己を見つめるうえでは、欠かせない行です。
自我を見つめ、自我に気づき、自我から離れ、
内なる静寂に気づけば、そこは空(くう)です。
その静寂は、安楽で、サーマディー(三昧)の世界でしょう。
たしかに、瞑想は悟りの準備を整えていくには有効な手段です。
しかしながら、瞑想そのものが悟りを招くのではありません。
気づきは、瞑想とは無関係に、突然現れます。
それは、畑に鍬を振り下ろそうとした瞬間かも知れません。
日が落ちて、縁側のすだれを巻き上げている瞬間かも知れません。
サーマディは境地です。
悟りは境地ではありません。
瞑想から戻ると、境地は失われます。
悟りは、失うことがありません。
ひと度気づいてしまうと、それはいつも「ここ」にあります。
気づきには、荒行や苦行、辛いお勤め、戒律や作法、がんばる思い、
そのようなものは一切必要ありません。
むしろ、それらは弊害にさえなります。
内なる目で無明を見るなら、明知によって照らされます。
第三の目・・・といえば、みんな眉間にあるかのように思っています。
だから、インドの聖者になじられます。
「君は眉間にちからを入れて、なにをしようと言うのかね?」
静寂に入れるなら、そこにある「わかるちから」がある事に気づくべきです。
「わかるちから」が第三の目、内なる目です。
それは思考ではなく、エナジーです。
頭脳の優秀さではなく、感性の問題です。
真に純粋な潔らかさが必要です。
幼子のような天心さが必要です。
この「わかるちから」というセンスが、真実を捉えてくれます。
それが、なにげない日常で、
特に意識もしないのに・・・
捉えてしまうんです。
修行も瞑想も経験ない、普通の人に、それが起こります。
であれば、サーマディに入れる達人が、悟れないはずがありません。
さあ、それを阻害しているのは・・・なあに?
悟りは、勝ち取るものではありません。
その準備ができた人に、恩寵(おんちょう)によって与えらえるものです。
いりません!って言っても、与えられてしまいます。
死ねば仏になって彼岸に至れると・・・本気で信じている人がいます。
ザンネンですが、
それは、無理なことです。
知るべき事がまだ残っているのです。
そうであるなら、再び母体に宿るでしょう。
知識はなんの役にもたちません。
ただ、体験による学びが、教えてくれるでしょう。
苦悩の人ほど、大切な学びをしているのです。
源泉は、どうしても、悟りに向けて運んでくれるのです。
源泉は、気づいてほしいのです。
学びのために、与えたその生は、それは試練ではありません。
自分のための課題です。
真摯に向き合えば、誰にも悟りは与えられます。
幼子になって、あるがまま、内側をみましょう。
自我を見つめ、自我に気づき、自我から離れ、
内なる静寂に気づけば、そこは空(くう)です。
その静寂は、安楽で、サーマディー(三昧)の世界でしょう。
たしかに、瞑想は悟りの準備を整えていくには有効な手段です。
しかしながら、瞑想そのものが悟りを招くのではありません。
気づきは、瞑想とは無関係に、突然現れます。
それは、畑に鍬を振り下ろそうとした瞬間かも知れません。
日が落ちて、縁側のすだれを巻き上げている瞬間かも知れません。
サーマディは境地です。
悟りは境地ではありません。
瞑想から戻ると、境地は失われます。
悟りは、失うことがありません。
ひと度気づいてしまうと、それはいつも「ここ」にあります。
気づきには、荒行や苦行、辛いお勤め、戒律や作法、がんばる思い、
そのようなものは一切必要ありません。
むしろ、それらは弊害にさえなります。
内なる目で無明を見るなら、明知によって照らされます。
第三の目・・・といえば、みんな眉間にあるかのように思っています。
だから、インドの聖者になじられます。
「君は眉間にちからを入れて、なにをしようと言うのかね?」
静寂に入れるなら、そこにある「わかるちから」がある事に気づくべきです。
「わかるちから」が第三の目、内なる目です。
それは思考ではなく、エナジーです。
頭脳の優秀さではなく、感性の問題です。
真に純粋な潔らかさが必要です。
幼子のような天心さが必要です。
この「わかるちから」というセンスが、真実を捉えてくれます。
それが、なにげない日常で、
特に意識もしないのに・・・
捉えてしまうんです。
修行も瞑想も経験ない、普通の人に、それが起こります。
であれば、サーマディに入れる達人が、悟れないはずがありません。
さあ、それを阻害しているのは・・・なあに?
悟りは、勝ち取るものではありません。
その準備ができた人に、恩寵(おんちょう)によって与えらえるものです。
いりません!って言っても、与えられてしまいます。
死ねば仏になって彼岸に至れると・・・本気で信じている人がいます。
ザンネンですが、
それは、無理なことです。
知るべき事がまだ残っているのです。
そうであるなら、再び母体に宿るでしょう。
知識はなんの役にもたちません。
ただ、体験による学びが、教えてくれるでしょう。
苦悩の人ほど、大切な学びをしているのです。
源泉は、どうしても、悟りに向けて運んでくれるのです。
源泉は、気づいてほしいのです。
学びのために、与えたその生は、それは試練ではありません。
自分のための課題です。
真摯に向き合えば、誰にも悟りは与えられます。
幼子になって、あるがまま、内側をみましょう。
2012-03-02