そのままでいいって言われても 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんからいただいた記事です。最後にコメント欄から拾った読者と花岡さんのやりとりを付け加えてみました。
そのままでいいって言われても
いつも言う言葉。
あなたはそのままでいい。
なにも間違っていない。
う~ん・・・そう言われてもなあ~。
自分にとってこの状況が、ずーっとこのままなんて耐えられないじゃん。
苦しんで悩んでいるなら、誰だって救われたいって思うのは普通でしょう。
じゃあ悪い事してるあの人はどうなのよ。悪いままでいいの?
そんなんじゃ成長なんて無いと思うんですけど。
ってみなさん思われるでしょう。
そうなんです。
そのままでいいわけないんですよね。
やはり人は、自分自身も住環境も、地域も国も、地球全体もより良くして行く必要があるし、
人と人のつながりや、助け合って生きる、絆も大切なんですよね。
じゃあ言ってる事とちがうじゃないか?って事になるんです。
時間という魔術を考えてみましょう。
時間という概念が、錯覚させているようです。
たいていの人は今の状況を考える時、過去と未来を同時に思考に盛り込みます。
それも、記憶としてすぐ呼び戻せる程度の、
つまり、昨日やおととい、まあ三日四日ほど過去でしょうか。
そしてそれと同じ程の未来、明日、明後日、明々後日とか。
おとといの出来事を今日も引きずり、明日もこうなら嫌だなあって思います。
その程度の中途半端な過去と未来に生きているなら、いつまでたっても同じです。
どうせなら、もっと長いスパンで、過去なら生まれた時から、未来なら臨終まで、
一生分を考えてみればどうでしょうか?
え?まだ何十年も生きるの?それなら、この先どうなってるかなんてわからないじゃん。
ってなるわけです。
世の中なんて常に変化しているから、死ぬまでの間にどうなるかなんて予想も付かないってわかります。
それなら、今のこの心配、悩み、苦しみなんて、無くなってるかも知れないし、
ずっとこのままなんて、どうして断言できるのでしょう。
いろんな事が起きていきます。
人生は流転であって、無常です。
中途半端に過去未来を見ているなら、苦悩をひきずり続けます。
ほんとうは臨終までにいろんな出来事が起こり経験して、いろんな事に気づき自分のものとします。
そのように運ばれるように、だれの人生もデザインされています。
それだから、だれの人生とも激突することなく、それぞれの人生を生きて行けるのです。
その筋書の、どこかのポイントが今に現れているのです。
だって、在るのは今しかないでしょう?
過去ってどこにありますか? 記憶でしかありません。
未来ってどこにありますか? 想像でしかありません。
自分の人生の命題として必要な状態を、課題を今体験しているのです。
体験しなければならない事だから体験しているのです。
だからそのままでいいんだって言うわけです。
今の状態は、体験上、完璧だと言うのです。
もちろん、いつまでもそのままではありません。
今の体験の次には、その体験の故の向上があります。
そう運ばれます。
中途半端に過去未来に生きるのではなく、
この瞬間しかない、今を生きるのです。
今が足りていて満足できるなら、次の今も満足の今です。
足りているのに嫌だ嫌だで暮らすから、嫌な明日を引き寄せます。
今、満足なら、明日も満足の明日です。
満足できる事に、気づいてください。
気付いたら、後は運ぶものにまかせきってください。
源泉に運ばれて、受け入れることを選択してください。
ほんとうはありもしない時間のマジックです。
不安を煽るように、マインドは働き、自我に縛り付けます。
自我の世界は、真我である本当の自分が見ている夢です。
魔術師だけが真実で、彼の見せる魔法は幻想であると、ラーマクリシュナも言っています。
どう生きて来たか、どう生きていくかより、
どう生きているか・・・です。
物語の主人公は自分です。
野望、願望は、真我のプロジェクトではあり得ません。
それには苦しみ、怒り、恨みがセットでついて廻ります。
そのような偽真我はあり得ないから、追い求めたり、開発する?とか訳のわからない事を言い出します。
気づくのです。
真我は「ここ」にあります。
「ここ」に問うてみることです。
自分の今が自分の明日を作り出します。
世界は、そのように自分の状態にあわせて展開され、自分で現したものだけを受け取ります。
選択したとおりに運ばれます。
野望を選択するから戦いに明け暮れるのです。
そこに平安はありません。
だから足りているなら、それが僅かであっても満足してください。 そうすれば満足を得られます。
だからどのような命をも愛してください。 そうすれば誰からも愛されます。
どんな人をも許してください。 そうすれば、誰からも許されます。
内なる神を信頼してください。 そうすれば、神は導いてくれます。
今、そのままで選択してみてください。
それは、あなたにしか出来ない選択です。
選択したとたんに、あなたの選択に合わせて宇宙の果てまで、他の人との物語と激突する事無く、
ルーチンの書き換えと整合が起こります。
マーヤは幻想をもってあなたを脅かすだけでなく、祝福をもって導いてもいるのです。
我々は、間違っていました。
あの人が嫌いだ。こんな人生は嫌だ。それは、
自分で選択しておいて、そして自分で文句を言っていたのです。
2012-04-02
あなたはそのままでいい。
なにも間違っていない。
う~ん・・・そう言われてもなあ~。
自分にとってこの状況が、ずーっとこのままなんて耐えられないじゃん。
苦しんで悩んでいるなら、誰だって救われたいって思うのは普通でしょう。
じゃあ悪い事してるあの人はどうなのよ。悪いままでいいの?
そんなんじゃ成長なんて無いと思うんですけど。
ってみなさん思われるでしょう。
そうなんです。
そのままでいいわけないんですよね。
やはり人は、自分自身も住環境も、地域も国も、地球全体もより良くして行く必要があるし、
人と人のつながりや、助け合って生きる、絆も大切なんですよね。
じゃあ言ってる事とちがうじゃないか?って事になるんです。
時間という魔術を考えてみましょう。
時間という概念が、錯覚させているようです。
たいていの人は今の状況を考える時、過去と未来を同時に思考に盛り込みます。
それも、記憶としてすぐ呼び戻せる程度の、
つまり、昨日やおととい、まあ三日四日ほど過去でしょうか。
そしてそれと同じ程の未来、明日、明後日、明々後日とか。
おとといの出来事を今日も引きずり、明日もこうなら嫌だなあって思います。
その程度の中途半端な過去と未来に生きているなら、いつまでたっても同じです。
どうせなら、もっと長いスパンで、過去なら生まれた時から、未来なら臨終まで、
一生分を考えてみればどうでしょうか?
え?まだ何十年も生きるの?それなら、この先どうなってるかなんてわからないじゃん。
ってなるわけです。
世の中なんて常に変化しているから、死ぬまでの間にどうなるかなんて予想も付かないってわかります。
それなら、今のこの心配、悩み、苦しみなんて、無くなってるかも知れないし、
ずっとこのままなんて、どうして断言できるのでしょう。
いろんな事が起きていきます。
人生は流転であって、無常です。
中途半端に過去未来を見ているなら、苦悩をひきずり続けます。
ほんとうは臨終までにいろんな出来事が起こり経験して、いろんな事に気づき自分のものとします。
そのように運ばれるように、だれの人生もデザインされています。
それだから、だれの人生とも激突することなく、それぞれの人生を生きて行けるのです。
その筋書の、どこかのポイントが今に現れているのです。
だって、在るのは今しかないでしょう?
過去ってどこにありますか? 記憶でしかありません。
未来ってどこにありますか? 想像でしかありません。
自分の人生の命題として必要な状態を、課題を今体験しているのです。
体験しなければならない事だから体験しているのです。
だからそのままでいいんだって言うわけです。
今の状態は、体験上、完璧だと言うのです。
もちろん、いつまでもそのままではありません。
今の体験の次には、その体験の故の向上があります。
そう運ばれます。
中途半端に過去未来に生きるのではなく、
この瞬間しかない、今を生きるのです。
今が足りていて満足できるなら、次の今も満足の今です。
足りているのに嫌だ嫌だで暮らすから、嫌な明日を引き寄せます。
今、満足なら、明日も満足の明日です。
満足できる事に、気づいてください。
気付いたら、後は運ぶものにまかせきってください。
源泉に運ばれて、受け入れることを選択してください。
ほんとうはありもしない時間のマジックです。
不安を煽るように、マインドは働き、自我に縛り付けます。
自我の世界は、真我である本当の自分が見ている夢です。
魔術師だけが真実で、彼の見せる魔法は幻想であると、ラーマクリシュナも言っています。
どう生きて来たか、どう生きていくかより、
どう生きているか・・・です。
物語の主人公は自分です。
野望、願望は、真我のプロジェクトではあり得ません。
それには苦しみ、怒り、恨みがセットでついて廻ります。
そのような偽真我はあり得ないから、追い求めたり、開発する?とか訳のわからない事を言い出します。
気づくのです。
真我は「ここ」にあります。
「ここ」に問うてみることです。
自分の今が自分の明日を作り出します。
世界は、そのように自分の状態にあわせて展開され、自分で現したものだけを受け取ります。
選択したとおりに運ばれます。
野望を選択するから戦いに明け暮れるのです。
そこに平安はありません。
だから足りているなら、それが僅かであっても満足してください。 そうすれば満足を得られます。
だからどのような命をも愛してください。 そうすれば誰からも愛されます。
どんな人をも許してください。 そうすれば、誰からも許されます。
内なる神を信頼してください。 そうすれば、神は導いてくれます。
今、そのままで選択してみてください。
それは、あなたにしか出来ない選択です。
選択したとたんに、あなたの選択に合わせて宇宙の果てまで、他の人との物語と激突する事無く、
ルーチンの書き換えと整合が起こります。
マーヤは幻想をもってあなたを脅かすだけでなく、祝福をもって導いてもいるのです。
我々は、間違っていました。
あの人が嫌いだ。こんな人生は嫌だ。それは、
自分で選択しておいて、そして自分で文句を言っていたのです。
2012-04-02
[読者H]
そうですね。
「今」ですね。
ハートのままってことですね。
ハートに抵抗するから、苦しむんですね。
「今」ですね。
ハートのままってことですね。
ハートに抵抗するから、苦しむんですね。
[読者T] まさしく!
花岡さん、Hさん、こんにちは。
そうそう、まさしくこれですよ。勘違いするんですこれ。私も例外ではありませんでした(笑)
今ここに意識を集中すると、自分はすべてを持ってる。過去も未来もすべてが今に叩き込まれてるって感覚になり、何にも問題なし、すべてOK!になるんですね。
そして今の連続が続く…時間も空間も無いのであれば時系列に流れているのではなくすべてが今起こってるって事ですよね?
時々とてつもなく日常的になり忘れてしまう事もあるけど、はじめのはじめからずっと「在る」、「それ」に気付き思い出す事が今を生きるって事なんでしょうかね。
言葉にすると難しいです。ボキャブラリーの貧困さが身に染みます。
今私はマックでお茶してます。今を生きてます(笑)
そうそう、まさしくこれですよ。勘違いするんですこれ。私も例外ではありませんでした(笑)
今ここに意識を集中すると、自分はすべてを持ってる。過去も未来もすべてが今に叩き込まれてるって感覚になり、何にも問題なし、すべてOK!になるんですね。
そして今の連続が続く…時間も空間も無いのであれば時系列に流れているのではなくすべてが今起こってるって事ですよね?
時々とてつもなく日常的になり忘れてしまう事もあるけど、はじめのはじめからずっと「在る」、「それ」に気付き思い出す事が今を生きるって事なんでしょうかね。
言葉にすると難しいです。ボキャブラリーの貧困さが身に染みます。
今私はマックでお茶してます。今を生きてます(笑)
[花岡] わかっちゃってるじゃないですか
おふたりともコメントありがとう。
いやいや、参った。
わかちゃってるっていうのが、わかります。
そのコメント。
いいですねえ。
いやいや、参った。
わかちゃってるっていうのが、わかります。
そのコメント。
いいですねえ。
[読者A] 「選択」とは?
「選択」とは、どういうことでしょうか?
どんな人をも許す、という選択。
内なる神を信頼する、という選択。
「どんな人をも許す、という選択」について考えてみる。
「どんな人をも許す、という選択」をしてみようかと考えてみる。
しかし、どこかに「いや赦せない」という自分がいる。
「内なる神を信頼する、という選択」をしてみようと思う。
「内なる神を信頼します」と思ってみる。
ちょっと安心と暖かいものがやってくる感じがする。
でも、一方で、「また日常生活では、恐れ・不安・後悔・焦りがやって来るんだろうな~」と思う。
「選択」って、何なのでしょうか?
「選択」って、本当にできるんでしょうか?
どんな人をも許す、という選択。
内なる神を信頼する、という選択。
「どんな人をも許す、という選択」について考えてみる。
「どんな人をも許す、という選択」をしてみようかと考えてみる。
しかし、どこかに「いや赦せない」という自分がいる。
「内なる神を信頼する、という選択」をしてみようと思う。
「内なる神を信頼します」と思ってみる。
ちょっと安心と暖かいものがやってくる感じがする。
でも、一方で、「また日常生活では、恐れ・不安・後悔・焦りがやって来るんだろうな~」と思う。
「選択」って、何なのでしょうか?
「選択」って、本当にできるんでしょうか?
[花岡] Re: 「選択」とは?
> 「選択」とは、どういうことでしょうか?
>
> どんな人をも許す、という選択。
> 内なる神を信頼する、という選択。
選択とは、文字のとおり、選ぶ事ですけど、
選択する・・・となると、ただ選ぶ事を言ってるのではありません。
もしも、ひとつを選択しておいて、後に建設的、成長的理由も無く、つまり、
やっぱり出来ないとか、飽きたとか、つまらないとか、あれこれ取って付けた理由によって、
他を選択し直すなら、それは選択していないのです。
選択する・・・これには、後戻りできない「絶対的な決意」と、「いさぎよさ」が伴わないといけません。
それだから、究極の困窮や、完全清らかな憧れとか、そういう不退転と成す要因が無いと選択できないのです。
イエスが、いたずらに(覚悟もないのに)神に祈るなと言う所以です。
>
> どんな人をも許す、という選択。
> 内なる神を信頼する、という選択。
選択とは、文字のとおり、選ぶ事ですけど、
選択する・・・となると、ただ選ぶ事を言ってるのではありません。
もしも、ひとつを選択しておいて、後に建設的、成長的理由も無く、つまり、
やっぱり出来ないとか、飽きたとか、つまらないとか、あれこれ取って付けた理由によって、
他を選択し直すなら、それは選択していないのです。
選択する・・・これには、後戻りできない「絶対的な決意」と、「いさぎよさ」が伴わないといけません。
それだから、究極の困窮や、完全清らかな憧れとか、そういう不退転と成す要因が無いと選択できないのです。
イエスが、いたずらに(覚悟もないのに)神に祈るなと言う所以です。