わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】胸の感覚で生きる

真我が目覚めると、あるいは目覚めかけると、
あれやこれやの願望が、とてもとてもとても希薄になって行きます。

今日のランチ? なんでもいいなぁ~。
今日やるべき事? あぁ、なんだっけ~。
何着ていく? まんまでいいんじゃない~?
みたいな。

でも、感覚は研ぎ澄まされていきます。

今まで思考で計算的に、理論的に、考えて行動してきたのに、
あるものはあるがまま、見えるものは見えるまま、聞こえるものは聞こえるまま捉えていきます。
感覚が瞬時に理解していきます。
それが内側で起こって行きます。

現実世界での願望が薄らいでいき、あるものをあるがまま見ていく。
その、なんとも楽ぅ~な生き方を、一度味わえば、あぁ、これでいいんだって思えてしまいます。

一方で、あるところに願望を達成するために真我を開発しようと試みる人がいると仮定します。
彼にとってはそれは開発できるものだと、まるっきり信じ込んでいます。
しかし、真我は誰の本性であっても既に完全無欠な形で存在してしまっています。
自我が開発できる真我などどこにもありません。

しかし、願望とか野望とか、自我が作り上げる幻によって、それは出来ないはずがないと、ますます頑なになります。

自我が自我を自我に縛り付ける。
願望が願望によって願望に縛り付けられる。
ものすごいシステムです。
無限ループです。
抜け出せないパラドックスです。

これが真我に気づかせないための自我による巧妙な罠であることを知る人は希です。

無限ループの中で、そんなことを、悶々と考え続けます。
精神が疲れていきます。
目がギラついていきます。
あるいは目が虚空を見るがごとくになっていきます。

あ、もう考えないでください。
危ないですよ。
思考を離れてください。
そんな事にエネルギーを浪費するより、
そんなもの、手放して、内なる安らぎに気づいてください。
そこにくつろいでください。

内なるハートの聖域から与えられるエネルギーを充填してください。
その愛によって癒されてください。

神に創られたあなたが、あなたが創る神に頼るような事をしないでください。
外に神を求めても、空しいだけです。
不安が、欲望が、執着が、こだわりが、断定が、外に神のようなものを求めます。
そうやって紙に描き、石を削り、木を彫り、そのへんの何かをそれに見立てたり、発明するのを止めてください。

自我にもてあそばれないでください。
内なるハートの聖域に意識を向けてください。
それを感覚して、知る事のなかったほんとうの愛を受け入れてください。

それをいつもまなざしのように感じていたはずです。
内なる正義を、願望のために奥底に追いやろうとするとき、真我の声を感覚していたはずです。

良心がとがめる・・・と言ったりします。
なぜか、「そうはするな。やめろ」みたいな、引き戻そうとする感覚をだれもが感じたはずです。
そのような彼方から呼ばれる感覚が誰にでもあるのです。

それが、「荒野で呼ばわる声がする」の、その「声」です。
キリスト・イエスが、ひとり荒野でヤハウェ(在る)とコンタクトしていたその「在る」です。
それこそが、自らの本性である真我なのです。

わたしはかつて、ありとあらゆる、やってはいけない事をやってきました。
その度に、いつもいつも、その「まなざし」を感じていました。
それを無視しようとする度に、葛藤し、それと戦い、その声が自分そのものの声である事に気づきませんでした。

誰にとっても、それはいつも在り、離れてはいません。
願望を際立たせればさせるほど、自我に引き込まれます。
べきだ。ねばならない。それらの実体は無いのだと、自我の巧妙な罠だという事に気づいてください。

真我はあなたと全く離れてはいません。
それはピッタリとくっついています。
ただ、気づくだけです。

内側の聖域、ハートの「ここ」を開けばいいのです。
日常を生活していても、「ここ」に留まり、安楽な生き方にチェンジするのです。
それは両立できます。
その感覚で生きるのです。
おどろくほど、自分を自由にしてくれます。

 

2012-04-16

 

shikoutoshi.hatenablog.jp