わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

胸の感覚で生きる 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。コメント欄での読者たちとの会話も付け加えておきました。

 

胸の感覚で生きる

 

真我が目覚めると、あるいは目覚めかけると、
あれやこれやの願望が、とてもとてもとても希薄になって行きます。

今日のランチ? なんでもいいなぁ~。
今日やるべき事? あぁ、なんだっけ~。
何着ていく? まんまでいいんじゃない~?
みたいな。

でも、感覚は研ぎ澄まされていきます。

今まで思考で計算的に、理論的に、考えて行動してきたのに、
あるものはあるがまま、見えるものは見えるまま、聞こえるものは聞こえるまま捉えていきます。
感覚が瞬時に理解していきます。
それが内側で起こって行きます。

現実世界での願望が薄らいでいき、あるものをあるがまま見ていく。
その、なんとも楽ぅ~な生き方を、一度味わえば、あぁ、これでいいんだって思えてしまいます。

一方で、あるところに願望を達成するために真我を開発しようと試みる人がいると仮定します。
彼にとってはそれは開発できるものだと、まるっきり信じ込んでいます。
しかし、真我は誰の本性であっても既に完全無欠な形で存在してしまっています。
自我が開発できる真我などどこにもありません。

しかし、願望とか野望とか、自我が作り上げる幻によって、それは出来ないはずがないと、ますます頑なになります。

自我が自我を自我に縛り付ける。
願望が願望によって願望に縛り付けられる。
ものすごいシステムです。
無限ループです。
抜け出せないパラドックスです。

これが真我に気づかせないための自我による巧妙な罠であることを知る人は希です。

無限ループの中で、そんなことを、悶々と考え続けます。
精神が疲れていきます。
目がギラついていきます。
あるいは目が虚空を見るがごとくになっていきます。

あ、もう考えないでください。
危ないですよ。
思考を離れてください。
そんな事にエネルギーを浪費するより、
そんなもの、手放して、内なる安らぎに気づいてください。
そこにくつろいでください。

内なるハートの聖域から与えられるエネルギーを充填してください。
その愛によって癒されてください。

神に創られたあなたが、あなたが創る神に頼るような事をしないでください。
外に神を求めても、空しいだけです。
不安が、欲望が、執着が、こだわりが、断定が、外に神のようなものを求めます。
そうやって紙に描き、石を削り、木を彫り、そのへんの何かをそれに見立てたり、発明するのを止めてください。

自我にもてあそばれないでください。
内なるハートの聖域に意識を向けてください。
それを感覚して、知る事のなかったほんとうの愛を受け入れてください。

それをいつもまなざしのように感じていたはずです。
内なる正義を、願望のために奥底に追いやろうとするとき、真我の声を感覚していたはずです。

良心がとがめる・・・と言ったりします。
なぜか、「そうはするな。やめろ」みたいな、引き戻そうとする感覚をだれもが感じたはずです。
そのような彼方から呼ばれる感覚が誰にでもあるのです。

それが、「荒野で呼ばわる声がする」の、その「声」です。
キリスト・イエスが、ひとり荒野でヤハウェ(在る)とコンタクトしていたその「在る」です。
それこそが、自らの本性である真我なのです。

わたしはかつて、ありとあらゆる、やってはいけない事をやってきました。
その度に、いつもいつも、その「まなざし」を感じていました。
それを無視しようとする度に、葛藤し、それと戦い、その声が自分そのものの声である事に気づきませんでした。

誰にとっても、それはいつも在り、離れてはいません。
願望を際立たせればさせるほど、自我に引き込まれます。
べきだ。ねばならない。それらの実体は無いのだと、自我の巧妙な罠だという事に気づいてください。

真我はあなたと全く離れてはいません。
それはピッタリとくっついています。
ただ、気づくだけです。

内側の聖域、ハートの「ここ」を開けばいいのです。
日常を生活していても、「ここ」に留まり、安楽な生き方にチェンジするのです。
それは両立できます。
その感覚で生きるのです。
おどろくほど、自分を自由にしてくれます。
 
 
2012-04-16
 
 

[読者T] ぐるぐるループ

花岡さん、皆さんこんにちは。 

私も願望実現!とあーだったら、こーだったらと野望を胸にいつか叶う!きっと叶う!なんて無限ループ(私はぐるぐるループと言ってます)にはまりがんじがらめになって心もすさみ、最悪の状態になり、始めて自分を見てる自分に気付きはじめました。私はこれとひとつになりたい!ただそうなりたいと思い、憧れ、世界と恋する感じになり、今もちょいちょい引き戻される事もありますが、以前より、大分ましです。 
そしたらなんと! 
私のあの無謀な野望や願望が消えたんです。 
いつか叶うなんて絶対ない!ってわかりました。 
願望が叶わないと言ってるのではなくて、すべて今ここにあるなら、起こるに任せていれば自然に願望は叶ってるんですよね。 
真我に目覚め始めたら、自然と愛からの選択をするし、ワンネスの感覚になるので自分の事のように人が見られ、自分の感覚が研ぎ澄まされ、敏感になって行く気がします。 

なので、Kさん、Aさんも私もみんな同じですよ~。
本当はみんな気付いてるけどエゴが邪魔して見えなくしてるだけなんだと思います。 

私初めこういう世界のブログ見たり、本読んだりすると、私が聞きたいのはそういう事じゃない!もっと直接的に願望を実現するやり方が知りたいんだ!とイライラしてました(笑)でもそんなものありはしないし、自分に気付く事が願望を実現する1番近道なんだとわかりました。でもその願望もなくなりますけどね。 
あるがままで居るって怠け者になることじゃなく 
信頼しすべて明け渡す事だと気付きました。 
身を委ねていればその時々にする行動や経験が向こうからやってくる感じになります。 

力んで解ろうとすると離れて行くけどリラックスして何があってもいいんだと思うと向こうからやってくる!何だか恋愛みたいです。

今日は何しよっかなぁ。
 
 

[花岡] みなさん、ありがとうございます

Aさん、申し訳ございませんでした。 
やむなく名前を伏せて、こちらに返信しました。 
そうですか、阿部さんのところからいらっしゃったんですね。 
彼は完全に、「わかった人」です。 
矛盾もなく、否定すべき事など何一つおっしゃいません。 
すばらしい方だと思います。 
気にかけてくれていたんですね。ほんとうに心から感謝申し上げます。 
質問にはなるべく真摯に答えようと思っていますが、なんでもわかるわけではありません。 
わからない時は、わからないと正直に言いますので、その時は許してくださいね。 
Aは、仏陀の従弟で柔和で優しい性格でした。 
わたしは仏陀の弟子の中で一番好きです。 
これからもよろしくお願いします。 

Kさん、Tさん、Aさんを受け入れてくれてありがとうございます。 
おなじ疑問を持ってたんだとわかると、なにかこう、同志みたいな心強さを感じますよね。 

Tさんの、憧れて世界と恋をしている、これピッタシの言葉です。 
わたしの言葉足らずを、いつもHさん、Tさんに補足して頂いてます。感謝。 
Tさんも阿部さんのところで鍛えらえたんですよね。 
どうりで、って感じです。
 
 

[読者T] ありがとうございます。

花岡さん、ありがとうございます。私はここで、このブログを読んで鍛えられました。Hさんの短いけどそこに愛がいっぱい詰まったこゆい言葉に、花岡さんの体験を通しての地に足のついた言葉を本当に日に何度も何度も訪れ読み返し、最初はよくわからなかったけど、自分が体験し始めて「あー!これ?」と思うようになりました。だから感謝しているのは私の方です。 

私のただひとつの願いは 
ワンネスで、後の細かい事は些細な事です。 
おっ言ったな…この物欲、見えっ張り、妬みの塊だった私の言葉とは思えないです。 

みなさんのお陰です。ありがとうございます。 
 
 

[読者H]

ハートは、ワクワクですね。 
だから、ワクワクすることを探さなくてもいいんですね。 
 
 

[読者A] ありがとうございます(2)+疑問

花岡修平さま、Tさま 

温かく迎えてくださって、ありがとうございます。 

一昨日の昼食は、本当に家でカップ麺を食べました。 
正確にはやきそばだったのですが、沸騰してから少し時間のたったお湯を内側の線まで(なのでおそらく80%くらい)入れました。 
花岡さん、見えてたんでしょうか? 
最初は気付かなかったのですが、後から「あ、合ってる!」と驚きました。 

阿部さんのブログは、最近はほぼ毎日読んでいます。 
いつも励まされたり、ヒントを与えられたりしています。 

ほんと素晴らしいと思うのですが、ちょっとひっかかるのが、セミナーや瞑想伝授等の値段が高いということ。 
なので、ブログの記事にも、時々「欲」を感じてしまうということ。 

完全に「わかった人」でも、人間なので、その辺は仕方のないことなのでしょうか? 
(でも、そもそも、イエスや釈迦は、お金取って講演会や瞑想会を開いていたのでしょうか?) 

それから、阿部さんが、以前講演会で「悟りとは、自分が悟っていると宣言することでしかないんじゃないでしょうか?」というふうに言ってたんですが、これも疑問に思いました。 

例えば私がそう宣言したとしても、単なるインチキ教祖になってしまいそうで、そんなこととても言えません。

[読者T]

悟ったと宣言するは、多分みんな誰しもが悟って居て、それに気付いてないから宣言するしかないと言ってるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 

確かにセミナーなど色んな方が主催されてますが、正直高いなぁと感じる事もありますね。 
エスや釈迦もみんなあるがままでその時その時を流れるように生活していたのではないでしょうか。だからお金の変わりに施しを受けたり、イエスはその当時大変高級な装いをしていたそうです。 
悟ったからと言って特別になるわけではないんだし、みんな泣きもすれば、笑いもする。同じ人間なんだと思います。 
嗜好品の好みと一緒で表現の仕方の違いだと思うのです。 

受け取る側も全く同じですね。 

余計わからなくなっちゃいました? 
 
 

[花岡] Re: タイトルなし

> ハートは、ワクワクですね。 
> だから、ワクワクすることを探さなくてもいいんですね。 

Hさん。これすごい言葉です。 

色紙に書いて、額に入れて、壁に飾っておきたい言葉ですね。 

そう、だから探さなくても、あって、 
だからワクワクなんです。 
探すから、自我さんが、頑張っちゃうんです。
 
 

[花岡] Re: ありがとうございます(2)+疑問

Aさん、コメントありがとうございます。 

仏陀は家々を回り朝の托鉢の時、求めに応じるまま教えた後では、乳粥の一杯さえ拒否しました。 
これは、そのことによる見返りを一切拒否したからです。 
わたしもそういう体質です。真理はすでに、だれの前にも無料で与えられています。 
太陽の光が善人であろうが、悪党であろうが、等しく与えらえているように。 
それを生業にはできません。 
しかしながら、いくらそうは思っていても、日常の時間を拘束されて皆さんのために働いておられるのであれば、 
それなりの協力金は認めてもよろしいかと思われます。 
金額の相場(とても世俗的な響きですね)を考えれば、ほかに「わかった人」も、それぐらいのようです。
参加者が多くて意外と収益になってしまった・・・という事もあるでしょう。 
しかしこうも言えます。なんであろうが、報酬を受けるなら、導ききる責任を負った事になるのです。 
本の印税については、それは生業として認めてあげてください。 

悟りの宣言は、自分自身に対して、自分はこれでもう悟った!(あるいは、ここまで悟った)と思えるなら、 
それでいいのですよって事です。 
だれも彼をみて、悟っているなどと知る事はできませんから、自分で納得するしかないのです。 
しかし、そもそも悟りなどないのだ、というのがわたしの立場です。 
むしろ皆さんがどのようにでも評価してください、っていうのがわたしの思うところです。 
っていうか、悟りさえ手放していますから。そうなれば、これが悟りなのだなんて、もうわかりません。 

他人には? 
他人に宣言する人は絶対いません。自他を悟っているひとが他人に宣言するなど悟っていない証拠です。 
それだから悟りと言われます。
 
 

[読者A] イエスの装い 「悟った」

花岡さま、Tさま 

御回答ありがとうございます。 

エスが大変高級な装いをしていたというのは、初耳でした。聖書に書かれてるんでしょうか? 
情報源を覚えておられたら教えて頂けないでしょうか。 

「悟ったと宣言する」に関しては、ちょっと私が受け取ったニュアンスと違うような気がするのですが・・・。 
でも、お考え聞かせていただけてありがたいです。