わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

見る者と見られるものの関係から「わたしは誰か」を考察してみる 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した記事「あるがままに見る」(2015-12-13掲載)の完全版になります。コメント欄でのやりとりを最後に付け加えておきました。読者たちの「語り」が長いです。(笑) Hさんからいただいた記事です。

 

見る者と見られるものの関係から「わたしは誰か」を考察してみる

 

哲学的な、または宗教的な考え方を、潜めておいてください。

例えば散歩をしていて、道路のわきに花を見つけたとします。

しゃがんで、よく観察しようとします。
その時、その花を見る事ができるでしょうか。
あなたなら、確実にその花を、あるがまま見る事ができますか?

人がその花を発見し、見つめる時、思考が過去を呼び起こします。
記憶からそのデータを、つまり、記憶という過去のイメージを探り出し、それを適用しようとします。

例えばそれは水仙だとします。

なんと水仙という名前を知っています。
名前はどこにあったのでしょうか。
記憶にあったものを、思考が引っ張り出してきたのです。

うちの花壇にもあるとか、水仙の様々な品種や、花言葉や、ナルシストの語源だとか、水仙にまつわる過去の出来事や、有毒であるとか。
実に様々な思考が駆け巡ります。

人が花を見るとき、そのように見るのであれば、その人は花をあるがまま見ているでしょうか?

その人は、まつわるイメージを見ているだけで、花を見ていないのです。
つまり、その人は今そこにある花ではなく、意識のほとんどを過去の花に向けているのです。

なんの思考によるイメージをも適用する事無く、花を見ることができますか?
花をあるがまま、受け入れる事ができますか?

一切の思考なく、あるがまま見るなら。
花と花を見る者との間に、距離を感覚していますか?
感覚しているなら、思考があります。
花と花を見る者との間に、距離も、隙間も、時間も、空間も、一切思考の痕跡が無いなら、それがあるがまま見ているという事です。

その時、見る者は、見られる花と異なってはいません。
その時、見る者は見られるものです。

思考がじゃまをしているだけで、ほんとうは花は、あなたの中に現れているのです。

その事を知るために、思考に気づいている必要があるのです。
気づきは思考であってはなりません。
それはただ知覚です。

思考している事も、思考していない事も気づいている必要があります。

また、それを思考で気づいているのではなく、ただ知覚があるだけで、そういう事さえも気づいている必要があります。

さて、思考を見ている「わたし」があります。
それは事実、「わたし」が思考を見ているのでしょうか?

思考が静まり、完全に姿を消した状態で、「わたし」はあるでしょうか?
この観察を、しっかり見つめてください。
思考があり、思考を見る「わたし」がいる。

これをしっかり見つめるなら。
「わたし」という観察する者は、思考によって現されているという事実に突き当たります。

観察される思考は、観察する者と異なってはいません。
理論としてではなく、これは実際に気づかれなければなりません。

想う事を止めても、観察者がいるうちは、それは紛れもない思考です。

観察される思考と、観察する観察者が同一である事実を、わかるでしょうか?

花を見るとき、思考なく見て、一切の判断も適用しないであるがまま見るなら、花と観察者の間に、どのような種類の隔たりなく見るのであれば、そこに観察者は存在しません。

その時、花はただ純粋な花であり、花はただあなたです。
観察者はいません。

これが、あの人の言う「わたしは誰か?」の答えです。

ただあなたが在る。
この事が、言葉を超えて理解されるでしょうか。

これが、別のあの人の言う「わたしは在る」の答えです。

そこに自己は肯定も否定もされません。

思考が「わたし」」を作り上げるなら、たちどころに、あらゆるものへの分離が起こります。
見られるものと、見る者との間に、距離、時空、が現れます。

そこに否定と肯定が現れます。
つまり、矛盾がそこには横たわるのです。

思考が思考の中心を作り出しておきながら、思考の中心(観察者)は、思考そのものを異質なものとするから、葛藤が生じます。
自己の怒りや嫉妬、欲望などを、コントロールしなければならない分離した何かと捉えます。
見るものとみられる者の間に、それはほんとうは違うものではないのに、矛盾を感じるのです。

それがつまり、苦悩なのでしょう。

あるがままで居る事が出来なくて、あるべき何かに変わらなければならないと思い為すのです。
見られるものが、見る者と異なるという分離が、そのようにしてしまいます。
観察者は、ほんとうは居ないのです。

大いなる変容とは、あるべき何かになる事ではなく、あるがままに戻る事です。
赤ちゃんの無為に戻る事です。

分離がそのように、倒錯を生み出すのです。

「わたし」とは、ただ思考であり、それはそのような現れが現れているだけです。
それを物語と表現しているのです。
物語は思考によって「わたし」にとっての様々な色付けをされ、分離した数えきれない自己の断片たちとの間に、つまり宇宙のいちいちの間に関係を築き、めまぐるしい応答を、それぞれに完全な整合を適用しながら、「わたし」は悩むのです。

あるがままで、居なさい。

否定も肯定もなしに、ただ、それで居なさい。

「わたし」が無いのは、恐怖ではありません。
恐怖は思考の得意分野です。
ほんとうにあるがままであるなら、恐怖はありません。

「わたし」を明け渡す、一切を許し受け入れるとは、そういう事です。

自由とはそういう事です。

それは虚無ではなく、充実した楽しみです。

ゼロではなく、ひとつです。

 

 

2013-05-02

 

 

[読者KR] 在る

はじめまして。 
最近の気付きを、花岡さんがズバリと書かれていたので、ついつい嬉しく感じてのコメントです。 

たまたま今朝、「わたしは誰か?」→「(わたしは)在る」に至りました。 
頭では分かっていましたが、今朝は体感しました。 

「わたし“が”在る」は、思考の中。 
「わたし“は”在る」は、全然違いますね。(^^) 

そして最近、肯定と否定にも気付きがありました。 
肯定って、否定の方向性が逆なだけなんですよねぇ。 

ようやく、そのことが解りました。 
肯定だとか否定だとかっていうのは、結局、思考の輪の中なんだなぁって。(^^;) 

>自己の怒りや嫉妬、欲望などを、コントロールしなければならない分離した何かと捉えます。 

まだ私には、この辺りのことは理解(頭以外での理解)ができていませんが… 
探求してみたくなりました。
 
 

[読者KO]

すばらしいブログをありがとうございます。 聖書に古事記親鸞、一休禅師にマーフィー、 ホノオポノポノ、その他様々なものを読んでき て得た理解その他が、このブログでサーっと整理され、 腹にスーっと落ちていくようでした。 

当方、経営していた会社倒産、離婚に父の死と 地獄の数年でした。銀行残高は後18万、42才 となかなか辛い状況ですが、もう自我で抵抗は やめて、神に従う所存です。 

このブログで大変救われました。感謝申し上げ ます。 


[花岡] Re: 在る

KRさん、はじめまして。 

まったくそのとおりですね。 

そうでありながら、我々は、肯定し否定している。 

こうであってはならないという否定の思いが、それらをどうにかすべきだという思いに駆り立てる。 
それは、思考が作り出すのであって、肯定すべき理想を思い描いてしまうからでしょう。 

つまり否定も肯定も、同じであり、同じ作用を思考に還元しているのです。 

そのような思いの中心(わたし)さえも、思考が作り出しているのです。 

思考が作り出す理想を適用するから、「あるがまま」を見ていないのです。 
否定を適用するから、「あるがまま」を見ていないのです。 

あるがままは、ただ、「あるがまま在る」何も間違っていない真実です。 

 

[花岡] Re: KOさん

KOさん、はじめまして。 

いろんな曲がりくねった人生を、苦しい人生を歩んできた我々です。 
しかし、今、あなたが神に委ねるその場所に立った時、ふりかえれば。 

今、この事のためにそれがあったのだと気づくでしょう。 

どうでしょうか? 
曲がってなどいなくて、真っ直ぐに導かれていたとわかるでしょう。 

様々な聖者の教えを紐解いたのは、準備を促されていたのだと、わかるでしょう。 

なんと尊いこの人生だったのでしょう。 

神の祝福を受けるその場所に立てたのですから。 

これからが、楽しみですね。
 
 

[読者KO]

花岡様 

ご返信ありがとうございます。 

きれいな言葉に、 

少し、涙がでました。 

感謝いたします。 


まだまだ自我という軍隊は完全解散にいたらず、ジタバタさせようとしてきますが、 

もう外側への、渇愛のようなものから来る衝動に基づく働きかけは、やめようと思います。 

天にお任せ、なるようになる、ならずともよし。 

そういう所存です。 


ブログの更新を楽しみにしております。 


御礼方々。 

 
 

[読者HR]

花岡さんへ 

花岡さんの表現から自分自身を振り返って見ました。 

とても辛いとき苦しいときハイヤーセルフと繋がれば 
そこから私を救い出してくれるのでは? 

そう思いこんでいたときがありました。 
ハイヤーさんと繋がる為にありとあらゆる手法を実行しましたが・・・ 

悲しい事に非凡な私に特別な事が起こるわけもなくハイヤーと 
繋がるという私の試みはことごとく失敗に終わりました。 

望んでいた事は叶わないのに・・・ 
望んではいないエネルギーばかりが湧き出てきて 
私を有頂天にしたり、失望させたり・・・ 
それはもう散々たるものでした。 

エネルギーが私から湧き出ててきて 
そのエネルギーが人を癒しても 
自分自身をも癒しても 
私は苦しみから解放されることもなく・・・ 
幸せにもなれない。 

何かに頼っても、誰かに助けを求めても 
結局は自分の事を救えるのは自分だけなのだと悟りました。 

私は事在るごとに自分の魂に耳を傾け続けました。 
いつでもどんなときでも・・ 
迷うたびに耳を傾けその声を感じました。 

そうして感じるままに行動しました。 
世間の常識や価値観など吹き飛ばすぐらいの勢いで・・・(笑 

それほどに切羽詰っていてそれしか自分を救い出す方法がなかったから・・・ 
心の声に従うという選択肢しか私には残されてはいませんでした。 

問いかけている自分。 
心の声を感じている自分。 
それを見ている自分。 

当時は三人の私が同居していました(笑 

その内に問いかけている自分が消滅し 
魂の声を感じている自分と 
それを見ている自分の二人だけになりました。 

そうして段階を得るごとに・・ 
見ている自分もいなくなって・・ 

ただ魂を感じて表現するだけの自分が残りました。 

その自分でさえ投げ出してみたら・・・ 

残ったのは魂そのもの。 

ただそこにいて在りのままを感じるだけに・・・ 

あの時ハイヤーセルフと繋がりたいと望んでいたけれど、 
本当ははじめから繋がっていたのだと。 
ただその事に気づいていなかっただけなのだと今更ながら気づきました。 

ハイヤーセルフとは私自身。 

私自身=魂だから・・・ 

魂=ハイヤーセルフ 

自分の魂(ハート)に耳を傾ければ 
はじめは本当に小さくささくから・・・ 

信じていいのか戸惑うけれど、 
勇気を出してそれを信じれば=自分自身を信じる事へ繋がっていく。 

確信すればするほどにどんどん魂に近づいていき、 
やがては自分自身でさえ消滅してゼロになるかのような喪失感を感じるけれど・・・ 

自分自身を感じればそこに在るのは 
ただ在りのままで在るという自由そのもの。 

自分の魂そのもの。 

魂の感じるままに自分を表現する自由。 

何の恐れも不安もなく満ち足りていると感じられる。 

宇宙の一部でも在りその全てでも在る魂。 

魂=ハイヤーセルフ=その全てが自分自身。 

自分の魂(ハート)に耳を傾けてみる。 

全ての答えは自分自身の中に在る。 

だから魂に身をゆだねて全てを任せてしまえばいい。 
答えは全て自分自身=魂が知っているのだから・・・ 

なんとなくそういう仕組みになっているのではなかろうかと・・・ 

花岡さんの表現を通じて・・・ 

なんとなく湧き上がってきた思いを表現して見ました。 

自分を救うのも自分を癒すのも自分自身。 

どんな自分であっても認めて許す。 

どんな自分であっても受け入れる。 

それを私は自分の魂に導かれ与えられた現象の中で学びました。 

どんな人でも平等に与えられている。 

全てが気づきに繋がっていく。 

誰もが幸せに導かれている。 

・・・・・と私は常日頃からそう感じています。(笑 

 
 

[読者BB] 近況や悟りのことなど(1)

こんにちは。 
花岡さんの上の記事を拝見して、やっぱりと確信致しました。花岡さんは、見性(自己の神性についての自覚)も得ておられるのですね。 
私は、実はつい最近、あるマスターを中心に自覚の勉強を行うあるグループに入れていただき、見性を得ました(自分でもよく分かってないのですが、正確には見性を確認したといった方が正解なのかも知れません)。 
最近分かってきたことなのですが、悟りには、見性という要素と、包括的な受け入れという要素とがあるようですね。 
私が経験した明け渡しによる悟りは、まずは包括的な受け入れはその瞬間に起こったのですが、見性の方は、不十分といいますか、しっくりとは来てませんでした。私の場合、その後の過程を自分だけで進んだ場合、見性に至ることができたのか、あるいは至ることができたとしても、どのくらいの時間がかかったのかまったく不透明なものでした。ちなみに、同じ勉強グループに、臨死体験によって明け渡しによる悟りを得た方がおられるのですが、その方は何年もの長い間、見性に至ることなく、過ごされたようです。 
一方、見性から悟りに入った場合、包括的な受け入れはまた別もののようで、その後の道のりはまだ大分あるのかなぁと、思ったりもしております。この点については、私は未経験ですので、詳しいことは分かりません。 
一旦区切ります。
 
 

[読者BB] 近況や悟りのことなど(2)

続きです。 
ともあれ、花岡さんは見性も得ておられるようで、何より私も嬉しいことと思っております。 
そこで、一つ花岡さんに質問があるのですが、花岡さんは、いつ見性を得られましたか? 
もし明け渡し体験のときに同時に得ておられるとしても、しっかりとそれが分かるまでは、それなりのタイムラグがあったのではないかと思います。 
その辺、花岡さんの場合はどんな感じでしたか? 

なぜこんなことをお伺いするのかといいますと、単純に知りたいという欲求がありますのと、今後、明け渡し体験を経た方とお会いする機会があったときに、役に立つかも知れないと思っております。
 
 

[読者BB] 補足です

ここでいう見性とは、自分(大いなる存在であるあわし)が、思考(概念)により、肉体を持った自分自身を含めて、この世界(宇宙)を現実化して創っているのだと、分かることです。 
すべては思考(概念)であり、思考に過ぎないのです。 
 
 

[花岡] Re: タイトルなし

HRさん。 

熱い思いを語って頂き、ありがとうございます。 

そうです。 
誰もが導かれていきます。 

ですから、はっきり言って、わたしが何を言おうが、役に立つ事はありません。 
どうしたって、その方向に、誰もが向かっているのですから。 

その意味で、わたしは誰の事も心配していません。 

そうなるのだから。 


 

[花岡] Re: 補足です

BBさん 

たくさん書いて頂いたのに、こう言ってはなんですが・・・ 

わたしにとって見性やら悟りやら、どうでもいい事なのです。 

ただ、「これ」に在って「これ」で居られたらそれでいいのです。 

人はそのようなものに、なりたいとか、ならねばとか、あれやこれや取沙汰したがります。 
それは全くマーヤです。 
それを求める「わたし」がある以上、それは得られません。 

そのような思い、思考を超えて行かないと、それである事を気付けはしないと思うのです。 
超えるとは、捨て去る事です。 
明け渡しきる事です。 
既にそれであるはずなのに、どうしてそれになろうとするのでしょうか。 

自分はそれではないと思うのも、今やそれだと思うのも、両方捨て去ってしまえば、 
ああ、これだったとわかります。 

それは言語が介在しません。 
思考が介在しません。 
理解するちからが働くだけです。 

わたしがいつも言ってるのは、この事です。 

勉強して知識を蓄えても役に立ちません。 
それは尚更、願望を強めていくだけだと思うのです。 

あるがままで在る事が、これです。 
この気付きは、まったく意図しない恩寵です。 

芯が蝋を分離するから、芯である自己を主張するから、蝋燭だと言う事に気付かないのです。 


 

[読者HR]

花岡さんへ・・・ 

熱く語らせていただきました(笑 

実生活において 

自分の思いを他者に語る必要も 

自分の思いを他者に押し付ける必要も 

一切無いのです。 

誰かの立場にたって考える事も 
誰かを心配する事も 
同情することも哀れむ事も一切無いのです。 

自分の感じたままに在るだけなのです。 


花岡さんの表現を感じると私もですよ~と 
熱い想いがこみ上げてきて・・・ 

私がとても嬉しくて 

どうしても伝えたくなってしまうのです。 

小さい頃からこの地球に馴染むことができず、 

子供の頃から他とは何かが違う自分にも違和感を感じて生きて・・・ 

何の為にここにいるのだろう? 

ずっと疑問に感じていました。 

他の皆はそんなこと感じずに面白おかしく生きているのに・・・ 

どうしてもそうなれない・・・。 

皆と同じでいられない。 

どうしてそうなってしまうのか? 

それが不思議でたまりませんでした。 


ここにきてやっと 

ここにいていいのだという安心感。 

これでいいのだという安心感。 

何も間違っていなかったという安堵感。 

そうして花岡さん存在をしり 

花岡さんへ表現するたびに 

伝えたい事がちゃんと伝わっているという 

歓びが湧き上がり・・・ 

私はとても満ち足りた気持ちに包まれます。 

在りのままに受け入れてくれる事に感謝です! 

ありがとうございます。 



[読者EK] 意識のシフト

花岡様、はじめまして。 
最近、マハラジやセイラー・ボブ・アダムソンなどのアドヴァイタ系の本を読み、 
自分の意識を思考や感情から、それらに気づいている気づきにシフトすることが重要と学びました。 
しかし、自分の目で、自分の目を見るのが不可能なように、 
気づきに気づくことが自分の中で非常に困難に感じています…。 
なにかご助言いただけると幸甚に存じます。 
突然の質問、申し訳ございません。
 
 

[花岡] Re: 意識のシフト

はじめまして。 


まず心を、鏡のように鎮めてください。 
呼吸を整えて、静かでいてください。 

気づいているその事に、気づこうとする者があるのであれば、 
それは、気づこうとする者の立場から出られないのでしょう。 

気づこうとする思考が、いよいよその気づこうとする者を堅固に保持し、 
気づけるはずだ、気づかねば、気づくとは・・・様々な葛藤を産み出します。 

そのような事で、無駄なエネルギーを浪費しているのではないでしょうか。 
実にイラめく作業です。 

気づこうとする者が去られなければ、気づこうとしている思考に縛られている事さえ気づかない。 

気づこうとする者の他に、気づこうとする思考に全く気づいている何かを、 
気づく事はできるでしょうか。 

眼が自らを見るのではなく、眼である事に気づいているように。 
見ようとする者なしに、気づいている事ができるでしょうか。 

力まずに、落ち着いて、 
行為するのではなく、ただその何かに移行できるでしょうか。 
それは移行という動きなしに、それである状態に気づけるでしょうか。 

その何かである事が可能でしょうか。 

否定も肯定も断定も疑問も持ち込まず、それである事が可能でしょうか。 

それは気づくちから、そのものです。 
それは誰でもなく、ただそれです。 

言葉を超えて、それである事ができるでしょうか。 

眼が世界を見ていながらも、熱心にそれであってみてください。 

それはイラめく作業などではありません。 


 

[読者BB] ご回答ありがとうございました

花岡さん 
私のぶしつけな質問に対し、丁寧にご回答頂きましてありがとうございました。 
私の質問の仕方がまずかったですね。すみませんでした。 
でも、最近分かってきたことなのですが、これが私のやり方であり、進む道なのです。 
私は、内と外の両方を探りながら、進んでいくようです。そして、そこに私の役割もあるようです。 
人それぞれなのです。 
ありがとうございました。 
そして、これからもよろしくお願い致します。
 
 
 

[読者EK]

花岡様 

ご回答ありがとうございます。 

>気づこうとする者の他に、気づこうとする思考に全く気づいている何かを、 
>気づく事はできるでしょうか。 

>眼が自らを見るのではなく、眼である事に気づいているように。 
>見ようとする者なしに、気づいている事ができるでしょうか。 

今の私にはやはりなかなか難しく感じてしまいますが、「力まず、落ち着いて」挑戦してみようと思います。 
ありがとうございました。