わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

思考を観察する者はだれ? 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。コメント欄からひとつだけ読者のコメントをピックアップし、最後に付け加えておきました。

 

思考を観察する者はだれ?

 

思考が思考の世界を、どのように解析しようが、それは思考でしかない事に気づかないのは驚きです。

夢の中で、夢を見ているのだと全く気づく事がないように、思考が創り出す夢の中で全く眼を覚ましません。

夢を見る者を夢が創り出しているという、この見事な自己呪縛に、呆れ果てて拍手さえ送りたい思いです。

人が思考に気づくのは、いつやって来るのでしょうか。
それほどまでに強烈な、この思考の堅固な防衛システムであるから、ほとんどの人が気づかないのも当たり前です。

思考に気づいていますか?

その事さえ、思考でやってのけようとしています。
気づく者の立場を、崩そうとしません。

気づく者が居なくなる時、真に思考を観察できます。

思考は、思考が創りあげる「わたし」によって、
また、思考を気づく者によって、完全に防衛されているのです。

思考が、思考する者つまり、「わたし」を創りあげた瞬間、ただの現れは世界になってしまいます。

意識のちょっとした一部分が、「わたし」に振り分けられる時、あるいは、ちょっとした意識の不注意が、思考にフックを引っ掛けてしまうと、すぐさま「わたし」が創られて、意識のほとんどを彼が吸い取ってしまいます。

思考の世界に「わたし」以外の「主体」を探しても、果てしのない夢を生きるだけだと言うのに、人は「わたし」を支配している見えない何か、神とか創造主とかを探そうとします。

思考の世界に崇める神など無いのにです。

ところが、

人はそれを創り出してしまいます。

それは創り出すというより、探して見つけてくるのです。

記憶の中から・・・。

この事がわかるでしょうか?・・・思考とは、記憶でしかありません。

言葉を記憶に仕舞っているから、言葉を発する時、それは常に記憶を探し続けるのです。
人々は、会話の中で、常に記憶に、過去に居るのです。

相手の目をみて話していながら、ほんとうは過去を見て話しているのです。

不安も、悲しみも、苦しみも、喜びも、

なんという事でしょう。それは、
過去から、わざわざ、見つけてくるのです。

この瞬間の新しい現れを定義するために、名前を付けるために、自己を主張するために、人は、古い記憶にさ迷うのです。

思考とは、つまり、

記憶をさ迷っているという事です。

その中で、拠り所を探し迷い、神とか創造主とか、真我とか、あるいは誰か聖者の名前とか、なんちゃら大王とか、スピリチュアルとか、チャネリングとか、言葉を探してきて、あらぬものを組み立て上げてしまいます。

思考の中で見つけたものに、どのような真実を見ようと言うのでしょうか。

夢の中の、はかない何かに、すがっていていいのでしょうか。

名前を付けられるものに、絶対真実などありません。

名前で呼ばれるものは全て、思考が創りあげたまやかしである事を、「ここ」から観察したら、あたりまえにわかると言うのに。
誰も「ここ」に来ません。

人は「ここ」に来る事なく、思考の中に思考する者を置かれて、わたしはそれだと言い張り、更に崇めるものを妄想します。

そのような現実という完璧な夢の中で、つまり思考の中で、この大きさも時間も真ん中も端も有しない「ここ」を、ついに見つける事はできません。

思考の中で神を見つけるのは、つまり創り出すのは、「わたし」と言う囚われに、更に完全無欠な防御バリアで覆うようなものです。
それであれば、何も知らない人のほうが、まだまだましです。

知識を集めるな!・・・とは、その故に言うのです。

何も知らない者こそ、目覚めに近いのです。

思考の中に創り出した何かに、うやうやしい名前を付けて、ありもしない不思議な作用を適用して、「わたし」を喜ばしても、むしろ何も知らず、ただその日を生きる人の方が救いに近いのです。

「ここ」に来るには、「わたし」が崩れ去る必要があります。

そのために、人にはやむなく苦悩が与えられ現れます。
それによって、ある人は苦悩し、ある人は手放すに至ります。
実生活のその事が、人の迷いであり、同じその事が覚醒の手段です。

ところが、苦悩に迷ってもなお、「わたし」を明け渡す事の難しい人もいます。
北風がいかに強かろうとも、更にコートを飛ばされまいとする旅人のように。

そのような人は、思考を観察する事で、「わたし」をつぶさに知って、明け渡せばいいのですが、ところが、こんどは観察する者を、思考が創り出してしまいます。
「わたし」が思考する者に、すりかわってしまいます。

それで、次に思考を完全に停止させる事を思いつきます。
思考を止めれば、思考する「わたし」は消えせるでしょう。

思考は止められます。
しかし、思考を止める者を、背後に隠しています。

このハードルを、いかにして飛び越えられるでしょう。

悟りも、覚醒も、気づきも、智慧も、名前を付けたら思考です。

常に、そこには過去が引きずられています。
思考も「わたし」も過去です。

未練なく、完全に過去に流すのです。

ただひとつの真実が、光明があります。

それに真実とか光明とか名付ける事無く、まかせるのです。
委ね切るのです。

この「在る」

居ません。
在るのです。

doing、この行為者は居ません。
being、この在るだけがあります。

「これ」がそれです。

「ここ」がそこです。

「ここ」に来て、「これ」によって夢を、つまり思考を観察するのです。

そうであれば、思考は力を失い、エネルギーを喰う事をしなくなります。
夢から覚醒するのです。
真我が目覚めるのです。

どうでしょうか。
今、どこにいますか?

解放を味わえていますか?
自由を、喜びを、幸せを、感覚できますか?

わたしでも誰でもなく、ただ、「これ」で在る事がわかりますか?

日常に戻ったら、ハートに「これ」を置いてください。

執着という汚れを、きちんと掃除して、ハートに「これ」を安置してください。

なんと世界がきらめく事でしょう。

世界とは自分の事である事に気づきます。

宇宙を創り出した者を知る事になります。
 
 
2013-05-08
 
 

[読者HR]

花岡さんへ 

>>思考の中で見つけたものに、 
どのような真実を見ようと言うのでしょうか。 

その時は誰もが必死。それこそが真実であると 
お金を払ってでも手に入れようと懸命に努力します。 

>>名前を付けられるものに、絶対真実などありません 

私はそれらはグリコのオマケのようなものだと感じました。 

何がはいっているかもわからない。 
不確かなもの。 
気に入るオマケが手にはいるまで 
あちらこちらと捜し求め続けていく。 
オマケの箱を開ける度どんどん自分から 
離れていく自分に気づけない。 

確実にそこに在る一粒で二度美味しいキャラメルのほうが 
自分の体験として味わい感じる事が出来るのに・・ 
どうしてもオマケの方が魅力的に思えてしまう。 

今から一年前・・ 
花岡さんのプログを読んで 
自分が出来たから人も出来るなんて・・ 
簡単に語るな! 

そう感じていました。ごめんなさい(汗 

お金を支払ってでも得たいオマケが 
どうしても手にはいらない。 
こんなに頑張っているのに・・・ 

何故?どうして? 

そんな時花岡さんのプログにたどり着いて・・ 
簡単に言ってくれるな! 
人の気持ちも知らないくせに・・・・(怒 
悟りたいと望んでいる私には何も起こらないのに 
不公平だ!ずるい! 
完全に 
やっかみ・妬み・八つ当たり以外の何者でも 
在りません。 

オマケなんかなくても手に入れているのだ 
という現実を見たくなかったのです。 

自分の力では手に入れることが出来ないから 
他力本願以外に道は無いと思い込んでいましたから・・・ 

>>「ここ」から観察したら、あたりまえにわかると 

簡単だけど難しい。 

知恵の輪のようなものですね。 

外れてみればなんて事無い・・ 

そう考えてみれば 

人生は知恵の輪のようなものなのかもしれませんね。