「わたしが在る事の不思議」【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎この記事は、以前掲載した記事「わたしが在ることの不思議」(2015-10-20掲載)の完全版になります。以前の記事は、私がノートに手書きで写しておいたものが元になっており、行替えが私流で、一行抜け、出だし部分のカッコの付け方も違っていました。Hさんからいただいた記事と照合した結果わかりました。
「わたしが在る事の不思議」
「わたしが在る。
この疑いようもない在るという事実が、どうしてあり得るのでしょう」
つまり、自分はなぜ存在しているのだろうか?という疑問です。
その意味や目的の事を言っているのではありません。
存在そのもの、在る事の不思議を言っているのです。
この事を、論理を超えて知る事ができるでしょうか。
あなたが在る、この不思議を。
あなたは知る必要があるのです。
もちろん必要を感じられないのであれば、どうでもいい事ではあるのです。
しかし人は、ふと、この疑問に向き合う事があります。
あなたが在る。
無くても、別段不思議な事ではない。
にも関わらず、あなたは在る。
あなたは真実在るのです。
どうでしょうか?
このどうでもいいようなテーマを、まあ暇つぶしにでも、追求してみるのも面白いじゃないですか。
それは過去のいつかの時点で、いきなり現れたのでしょうか?
親から生まれた・・・と言う人は、それを信じていればいい。
それはそれで幸せな事に違いない。
しかし、「わたしが在る」という超現実に向き合う人には、そんな答えには満足できないはずです。
自分が在る、この事への真実の答えを探って欲しいのです。
在るけれど、しかし無くても不思議な事ではないはずです。
それなのに、自分は在る。
この事から、神に気づけるでしょうか?
一気に神を確信できるでしょうか?
そう、一気にそこに意識を溶け込ませる事ができるでしょうか?
神が在るから、あなたは在る。
あなたが在るという事が、神が在ることの証しなのです。
この事に気づけるでしょうか?
この事で、閃光のように、意識のシフトが起こるでしょうか。
そして、あなたが在るというその事で、最初というものなど無かったという真実に辿り着けるでしょうか?
最初が無いから終わりも無い、つまり、歴史的時間的幻に気づけるでしょうか?
あなたはそのもの(神)そこから、初めも無く終わりも無く、何処にも行く事も、行った事も無く、今も、過去(幻)にも、そこに在る事に気づけるでしょうか?
いつだって不二一体で在る事に気づけるでしょうか?
過去の記憶による思考を使わず、あなたの感性と洞察で、それに辿り着けるでしょうか?
「わたしが在る事へのなぜ」
その答えを、あなたの感性は受け入れるでしょうか?
神は在る。
あなたは在る。
しかしあなたは、そこで、自我という小さな世界に宇宙と日常を夢見ていて、そこに暮している。
あなたが無くても、他の誰かは在り、世界も在るかも知れない。
しかし、それをどうやって、無いあなたが認識できるでしょうか。
全てあなたの中で起きている事に気づけるでしょうか。
あなたが在る事により、世界が現れている。
あなたは神の中に在る事に気づけるでしょうか?
あなたは、疑問に思うかも知れない。
自分が亡き後、自分は何処へ行き、どうなってしまうのだろうと。
何処にも行きはせず、いつだってここに在ります。
あなたが世界という、現れてはすぐに消え、瞬間また現れ消える、変わり続ける世界の夢を、それを現す事を続けるか止めるかだけです。
あなたが世界という夢を見ていようが、見るのを止めようが、あなたはここに在ります。
ここに在るあなたが、真我です。
それは最初とか終わりとか、区切られようもなく今です。
また、今という表現も適用できない程「在る」です。
次元の基は、「在る」です。
次元の終端は、0次元(無)です。
「在る」から遠い程、細分化され限定された欠片(かけら)です。
面の欠片は線であり、線の欠片は点(1次元)であり、点は無となり、そのような夢が瞬間、次の1タイム1空間の夢に置き換えられます。
それらは実在ではなく、認識という働きが楽しんでいるだけです。(リーラ)
マーヤ(幻想的錯覚)を起こす力による作用です。
いつだって、あなたは在るそれだけです。
神が自らの内にあるあなたに、その認識作用を及ばせています。
(わたしが言う神は、宗教的神とは違う、つまり神々のそれではありません。神々というのは別の言い方では諸天善神、法則や定めをけん引するキャリアでもあり、そのものでもある神の事でしょうが、それの事を言っているのではありません)
認識するためには、認識する者が置かれなければ、認識が行われません。
それで、認識する者「わたし」と認識される対象「わたし以外」の二元分離を夢見るのです。
夢見ようが見まいが、あなたは在るです。
いつだって、それです。
神(絶対一元)にあなたは在り、あなたはそれで満ちています。
気づけば、それは純粋な愛であり、それ以外ではありません。
あなたがひと度、この愛に浸るなら、全てを投げ出してもそれに留まりたいはずです。
それはまるで、エンドルフィンの大海に寛ぐような、無執着の安らぎ、喜び、至福であり、解放であり、許しであり、救いです。
「わたしが在る」、この事から、そこまで行けるでしょうか?
全てがただ、認識しているに過ぎない事に気づけるでしょうか?
それが認識する者によって、認識されているに過ぎない事に気づけるでしょうか?
「あなたが在る事が、神が在る事を証明している。」
意識のどこか、隠れている部分が、小さく動くでしょうか。
この見逃しがちな、小さな意識のひっかかりに、焦点を合わせられるでしょうか。
そして、閃光のような気づきと共に、そこ、神の意識の中に行けるでしょうか。
何もする事の無い、休日の、心が落ち着いている時にでも、探ってみてください。
この疑いようもない在るという事実が、どうしてあり得るのでしょう」
つまり、自分はなぜ存在しているのだろうか?という疑問です。
その意味や目的の事を言っているのではありません。
存在そのもの、在る事の不思議を言っているのです。
この事を、論理を超えて知る事ができるでしょうか。
あなたが在る、この不思議を。
あなたは知る必要があるのです。
もちろん必要を感じられないのであれば、どうでもいい事ではあるのです。
しかし人は、ふと、この疑問に向き合う事があります。
あなたが在る。
無くても、別段不思議な事ではない。
にも関わらず、あなたは在る。
あなたは真実在るのです。
どうでしょうか?
このどうでもいいようなテーマを、まあ暇つぶしにでも、追求してみるのも面白いじゃないですか。
それは過去のいつかの時点で、いきなり現れたのでしょうか?
親から生まれた・・・と言う人は、それを信じていればいい。
それはそれで幸せな事に違いない。
しかし、「わたしが在る」という超現実に向き合う人には、そんな答えには満足できないはずです。
自分が在る、この事への真実の答えを探って欲しいのです。
在るけれど、しかし無くても不思議な事ではないはずです。
それなのに、自分は在る。
この事から、神に気づけるでしょうか?
一気に神を確信できるでしょうか?
そう、一気にそこに意識を溶け込ませる事ができるでしょうか?
神が在るから、あなたは在る。
あなたが在るという事が、神が在ることの証しなのです。
この事に気づけるでしょうか?
この事で、閃光のように、意識のシフトが起こるでしょうか。
そして、あなたが在るというその事で、最初というものなど無かったという真実に辿り着けるでしょうか?
最初が無いから終わりも無い、つまり、歴史的時間的幻に気づけるでしょうか?
あなたはそのもの(神)そこから、初めも無く終わりも無く、何処にも行く事も、行った事も無く、今も、過去(幻)にも、そこに在る事に気づけるでしょうか?
いつだって不二一体で在る事に気づけるでしょうか?
過去の記憶による思考を使わず、あなたの感性と洞察で、それに辿り着けるでしょうか?
「わたしが在る事へのなぜ」
その答えを、あなたの感性は受け入れるでしょうか?
神は在る。
あなたは在る。
しかしあなたは、そこで、自我という小さな世界に宇宙と日常を夢見ていて、そこに暮している。
あなたが無くても、他の誰かは在り、世界も在るかも知れない。
しかし、それをどうやって、無いあなたが認識できるでしょうか。
全てあなたの中で起きている事に気づけるでしょうか。
あなたが在る事により、世界が現れている。
あなたは神の中に在る事に気づけるでしょうか?
あなたは、疑問に思うかも知れない。
自分が亡き後、自分は何処へ行き、どうなってしまうのだろうと。
何処にも行きはせず、いつだってここに在ります。
あなたが世界という、現れてはすぐに消え、瞬間また現れ消える、変わり続ける世界の夢を、それを現す事を続けるか止めるかだけです。
あなたが世界という夢を見ていようが、見るのを止めようが、あなたはここに在ります。
ここに在るあなたが、真我です。
それは最初とか終わりとか、区切られようもなく今です。
また、今という表現も適用できない程「在る」です。
次元の基は、「在る」です。
次元の終端は、0次元(無)です。
「在る」から遠い程、細分化され限定された欠片(かけら)です。
面の欠片は線であり、線の欠片は点(1次元)であり、点は無となり、そのような夢が瞬間、次の1タイム1空間の夢に置き換えられます。
それらは実在ではなく、認識という働きが楽しんでいるだけです。(リーラ)
マーヤ(幻想的錯覚)を起こす力による作用です。
いつだって、あなたは在るそれだけです。
神が自らの内にあるあなたに、その認識作用を及ばせています。
(わたしが言う神は、宗教的神とは違う、つまり神々のそれではありません。神々というのは別の言い方では諸天善神、法則や定めをけん引するキャリアでもあり、そのものでもある神の事でしょうが、それの事を言っているのではありません)
認識するためには、認識する者が置かれなければ、認識が行われません。
それで、認識する者「わたし」と認識される対象「わたし以外」の二元分離を夢見るのです。
夢見ようが見まいが、あなたは在るです。
いつだって、それです。
神(絶対一元)にあなたは在り、あなたはそれで満ちています。
気づけば、それは純粋な愛であり、それ以外ではありません。
あなたがひと度、この愛に浸るなら、全てを投げ出してもそれに留まりたいはずです。
それはまるで、エンドルフィンの大海に寛ぐような、無執着の安らぎ、喜び、至福であり、解放であり、許しであり、救いです。
「わたしが在る」、この事から、そこまで行けるでしょうか?
全てがただ、認識しているに過ぎない事に気づけるでしょうか?
それが認識する者によって、認識されているに過ぎない事に気づけるでしょうか?
「あなたが在る事が、神が在る事を証明している。」
意識のどこか、隠れている部分が、小さく動くでしょうか。
この見逃しがちな、小さな意識のひっかかりに、焦点を合わせられるでしょうか。
そして、閃光のような気づきと共に、そこ、神の意識の中に行けるでしょうか。
何もする事の無い、休日の、心が落ち着いている時にでも、探ってみてください。
2013-10-14