わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

やばい!来てしまった  花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

 

やばい!来てしまった

 

さて、今日はブログの話題を何にしようかと考えて、
そうだ、あれにしよう・・・なんて思うのだけれど、
いざ、それについてキーボードを叩いていると、

なぜか、違う事を綴っている。

今日こそは絶対これを書くぞって思って書いていると、

途中で、

ん? 変だ・・・浮かんで来ない。 まとまらない。

結局、別の話題が降りてきて、自然にまかせながら書いてしまう。

わたしのブログの記事は、そうやって書かれています。

今日もすでに、お題は決まっていて、「マーヤについて」でしたけど、

マーヤについて、仏陀のお話から例を載せましょうって思い、
仏陀最後の旅」(大涅槃経=マーハー・パリニッバーナ・スッタンタ)を開いて、
さてと、あれはどのあたりに記されていたかなぁ~って、探しつつ、
途中途中読んでいたら、

ああ、大変な事になりました。

仏陀の慈悲に溢れる言葉に、このハートの「ここ」が完全に「やられて」しまって、
熱く熱くこみあげてきて、どうにもならない。

涙・・・ボロボロで

・・・よ・・・読めない。

ちょと数行読んだだけなのに、

まだハートが開いていなかった頃は、普通に読めていたのに、
ただなんとなく、完成された偉大な人の言葉は、やっぱり違うなぁ~、ぐらいに見てたのに。

ああ、もう書けない。

その見事に説かれた言葉のゆえに、
若き弟子、アーナンダへの深い深い慈しみのゆえに、
「ここ」が「それ」に入ってしまって、
本を開いたまま、開いたページを胸に押し付けて、
そのまま、泣き続けてしまいました。

こんなにも「ここ」が呼応する。
ハートが開いてしまうと、こうなってしまう。
こんなにも真実の愛に共鳴してしまう。

「ここ」? 「それ」? 読む人がいたら、なんだよそれ・・・って思うだろう。
言葉の領域を超えてる事は、どうしても、言葉では言い表すことは難しい。
ピッタリ来る表現は、「ここ」、「それ」、しか思い浮かばない。
それを表現するために、自我に戻る気もない。

さて、もしも、仏陀を崇拝することが信仰であるならば、
わたしには信仰がない。信心がない。
何であれ、対象を置いて崇拝するなら、偶像崇拝であると内側から知らされた。
それだから、わたしは何も崇拝しない。
わたしには、宗教など無い。

わたしの経典や聖書の捉え方は、宗教ではなく、真実の言葉という位置づけだ。
これについて詳しく言うと、いろいろ浮上する問題があるので言わないけれど。

とにかく、この真実の愛に反応し、源泉からの至福を頂けるのは、
ただ、「わかった」から、でしかない。

わかったから、信じなくてもいい。
かつての常識、あたりまえは、もうない。
わかった事だけが、わたしの中では「あたりまえ」として存在する。
それだけが、価値あるもの。

今日は、これでいいや・・・書けないから。

はやく、宇宙の塵で出来たこの身体を、宇宙にお返ししたい。
ニルヴァーナ
わたしのふるさと
はやく帰れたらいいな。
 
 
2012-03-14