わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】わたしは誰か?

削除した記事ですが、読んでいなかった方からリクエストがございましたので、内容を一部修正して再度掲載致します。
既に読まれた方には、新鮮味がないでしょうが、勘弁してください。


さて、「わたしは誰か?」
ラマナ・マハルシの教えの中核をなす、言葉です。

わたしは誰か?と問いかける事で、わたしは身体に由来する存在ではない事をまず理解します。

ところが、わたしは誰か?と、昼も夜も問い続ける事では、望んでいる答えは見出せません。
誰だろう・・・誰だろう・・・と思い出す作業を始めるなら、要点を外しているのです。

もしも、宗教として、ラマナを崇拝し、信じ、彼の言葉に忠実に励もうとしているなら、
それは、彼の言葉を全く理解していない事になるのです。
信じる事、崇拝する事が、言葉の奥にある深い意味を洞察する事を妨げるからです。
信じるから、そこで止まり続けます。
ラマナが言っているのは、わたしは誰か?、その誰かを探せという事ではないのです。

言葉に、言葉以外の、実に様々な意味を見てとれる事を、我々は経験で知っています。
ところが人は、未知のものであればあるほど、言葉に忠実になろうとします。

わたしは誰か?と問いかける事で、その誰かである「わたし」を見つけようとします。
その誰かである「わたし」は思考を発しているその「わたし」である事は、誰にも明白です。
その「思考者であるわたし」を、一生懸命見つけようとしているのです。

ただそれだけのために、ラマナがそのような事を言うはずはないのです。

しかも、
その行為自体が思考そのものである事に、まったく気づきません。

ここでも、おなじみの、無限ループに陥ります。

誰か?と問い続ける事で、あたかもその、誰かが、見えてくるかのように思ってしまいます。

わたしは誰か?と問いかけ、その誰かである「わたし」を見ているその、
見ている「わたし」に気付きません。

わたしは誰か?と問い、その誰かである「わたし」を見るのではなく、
その誰かである「わたし」を見ている「わたし」を知るのです。

思考者の「わたし」を見ている、観察者の「わたし」です。

見る者は、見られる者である。

そうまで言っても、その誰か?にこだわり続けます。
何がなんでも、誰か?が重要なのだと、信じて疑いません。

わたしは誰か?など、どうでもいいのです。
誰か?と問い、思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたなら、
速やかに、その見ている「わたし」に向き直りなさい!と言う事です。

それが静寂であることを、まず気付かなくてはなりません。

ところが、またまた、誰か?に戻ってしまいます。
すなわち、その静寂に気付いているのは誰か?と言い出すのです。

思考がどうしても、思考に引き戻します。
自我のレベルでは感覚できる事ではありません。
思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたら、
それに向き直り、そこに留まって、あとは一切、言葉を思い浮かべてはいけません。

そこに留まって、無思考でいて、沈黙し、静寂を感覚していなければなりません。

たったこれだけの事なのに、
たったこれだけの事が成し難いのです。

思考の癖とはそういうものです。
自我の巧妙な手口です。

もしも人間に、言葉というものが無かったなら、なんと容易に静寂に落ち着くことが出来たでしょう。
言葉があるから、いろいろなものに、意味づけをしたがります。
定義したがります。
断定してしまいます。

わたしは誰か?と問い続けなさい・・・と言われれば、その事が重要だと断定します。
そうであるなら、問う事など止めるべきです。

真我に気付く方法は、別の方法もあるのですから。

それは、いわゆるサレンダーです。明け渡しです。
至高なる存在、神、あらゆるものの源泉に、全てを明け渡すのです。
ところが、これもできないと言うかもしれません。
独特の「恐れ」を感じるのです。

明け渡したとて、何も不安の素など無いというのに。
恐怖すべき何事も起こらないと言うのに、にも関わらず明け渡せないのです。
明け渡せば、こんなにも楽になれると言うのに。

愛着が、執着が、それを許しません。
失うことへの恐れが、それを許しません。

どちらも、自我の恐るべきちからです。

たったこれだけの事が、なんと成し難いのでしょう。
不思議です。とても不思議です。

ラマナも、自らが真我であるのに、全く真我に気付かなことは、不思議でしょうがないと言います。

この小さな自我に、比べられないくらい大きな真我が太刀打ちできないとは・・・

言葉を捨てなければいけません。
ただ、感覚してください。
言葉で、知識でわかろうとしてはだめなようです。
学問ではないのですから。
また、宗教でもありません。

だから、言葉を覚えていない幼子になりなさいと言っているのです。
言葉がなくても、彼は「わたし」なのです。
しかし、彼は「わたし」を知りません。
そういう自意識がないのです。
そのような幼子の彼は、全く「真実のわたし」によって在る「わたし」なのです。

あなたが、「わたし」と言える「わたし」ではなく、
「わたし」が全くいない、「真実のわたし」の事を言っているのです。

感性にまかせてください。
それを信頼してください。

 

2012-05-03

 

 

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