わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

風来坊さんへの返信:期待・予期/「明け渡し」を手放す/「わたし」の正体 etc

風来坊さんという方から下記の記事に次のようなコメントをいただきました。

shikoutoshi.hatenablog.jp

風来坊

 >みなさん。
>いい加減、このマインドの罠に気づいてください。

とりあえず『気づく』とこまではできてるんですよね〜。
その先がなかなか(-_-;)

色々なことにめちゃくちゃ期待してる自分がいるんですよね。
それは、何も大きな夢や希望の話だけじゃなくて、例えば『◯◯時までにXXに到着して、△△をやっていたい』こんなことも一種の希望や期待ですよね。
それに『◯◯さんにこんなレスポンスをしてほしい』とかもある種の期待。
そして、私が今このコメントをタイプしているのも何らか期待を抱えた自我が成せる技なのでしょう…

って、エンドレス(笑)

 

追記:
『わたしの終わり』ってとても素敵なタイトルですね。
まさに、こういった期待や希望のメッキがすべてが剥がれ落ちたとき、わたしの終わりがやって来るんだろうなって感じてます。

 いろいろと考えさせられるコメントで、返信を書いているうちに大分長くなってしまい、記事という形で返信することにしました。

 

 

 >風来坊さんへ

 
どうも、お久しぶりです。
 
風来坊さんのコメントに触発されて、私が思ったことを書いてみます。
 
1)花岡さんの記事を読んで、「期待」しないことは不可能と言っていいと思います。
たとえば、この記事「あなたへのメッセージ」について言えば、
 
わたしは、同じ事を、何度も言い続けています。
耳を傾けてください。
 
自我も、マインドも、一切の期待も手放し、あなたの源泉に明け渡してください。
それはあなたを裏切りません。
けっして突き放したりはしません。
 
ただ、期待も一緒に明け渡してください。
全て、その御心に任せ、与えられるものだけを頂いてください。
 
 
 
 
と言いながら、直後に、
 
そうするなら、この大きな愛と共に、全てが与えられるでしょう。
そして次第に、智慧による理解が起こっていくでしょう。
そうなってしまうんです。
 
 
 
と言い、期待させてしまっています。
つまり、花岡さんの記事は矛盾しているのです。
(このことは、私の記事「birdieさんへの返信」でも書いています。)
 
このような「矛盾」は、花岡さんの他の「明け渡し」関係の記事にも見られ、読者をワナにかけてしまいす。
 
2)花岡さん自身は期待しないですみました。なぜならば、そのようなことが起こることを知らずにいたからです。
しかし、彼の記事を読む読者は違います。
読者は彼の体験を知っています。記事「目覚め」や「あの日の夜」をすでに読んでいるのです。
 
そして、その彼の体験に強い興味を持ったからこそ、彼のブログの読者になったのです。彼と同じような体験を得たいから、彼の記事を読んでいるのです。
(このことに花岡さんは気づいていないように見受けられます。)
 
したがって、構造的に「期待」しないことは不可能です。
 
3)ではどうするか?
この点については、以前に風来坊さんからコメントをいただいたときにも申し上げたことですが、私の記事「birdieさんへの返信」と「花岡さんの記事を読むことの難しさ」を読んでいただければと思います。
 
【上記の2つの記事の要点】
花岡さん自身の体験に基づいた「宣言方式」による「明け渡し」は、他の人が試みても成功しないだろう。
それよりも「自己観察」に徹する方が時間はかかっても、成功する可能性が高い。
 
 
4)期待や予期一般について
期待や予期することなく生きていくことは不可能です。逆に言えば、「生活」は予期や期待によって成立しています。
たとえば、家を出て仕事場に向かうという一事を考えてみても、予期や期待なくしては不可能です。
したがって、風来坊さんのおっしゃったこと:
 
「色々なことにめちゃくちゃ期待してる自分がいるんですよね。

それは、何も大きな夢や希望の話だけじゃなくて、例えば『◯◯時までにXXに到着して、△△をやっていたい』こんなことも一種の希望や期待ですよね。
それに『◯◯さんにこんなレスポンスをしてほしい』とかもある種の期待。

そして、私が今このコメントをタイプしているのも何らか期待を抱えた自我が成せる技なのでしょう…」
 
は、生きて生活している人間にとって当然のことであり、なくすべきことではなく、また、なくそうと思ってなくなるものでもありません。
風来坊さんは、花岡さんの言葉のトラップにはまり、「期待しないこと」を極度に一般化して考えているように見受けられます。
 
 
5)「明け渡し」を手放す
「明け渡し」を手放すことをおすすめします。花岡さんの言うとおりの形で実践しようとして、「できない部分」にとどまっているよりは、「できている部分」の方向に進むのです。
風来坊さんは、次のようにおっしゃっています:
 
「>みなさん。

>いい加減、このマインドの罠に気づいてください。

とりあえず『気づく』とこまではできてるんですよね〜。」
 
 
 「気づく」とは、「観る」ことです。
自分のマインド=感情や思考 の動きを「観る」ことができている。
この「観る」=「自己観察」という作業を徹底してみてください。
 
「期待」を「観ている」者=「気づいている」者。
その者は、「期待」しているでしょうか?
 
まあ、これは、「3)ではどうするか?」 と同じことですが。。。
 
 
6)「わたしの終わり」に込められた意味
このブログを開始する時、どういう名前を付けようかいろいろ考えました。
花岡さんの記事を収集する目的のブログだったので、彼のブログ名「真我が目覚めるとき」にちなんだものにしようと思いました。
 
「真我が目覚める」という表現を反対の方向から見たらどうなるか?
「真我」は目覚めるのではない。それはいつもある。ただ、「わたし」という一枚の膜が破れた時、あるいは、消滅した時、あたかも「目覚めた」ように感じられるだけだ。
つまり、「真我の目覚め」=「わたしの終わり」。
 
とまあ、そんなふうに考えて、「わたしの終わり」という名前にしました。
 
 
7)「わたし」の正体
さて、では、この一枚の膜のように自と他を分離している「わたし」の正体はいったい何なのでしょうか?
 
私自身は、14歳くらいの頃から「この一枚の膜」を強く意識してきましたが、わたしの記事「それ、純粋に観ること、一瞥体験」に書いたように、それは、「オレンジ色に輝く直径数十センチの球体」として、その外から観察されました。
 
ラーマナ・マハルシは、それは、「わたしは身体であるという思考」だと言っています。
 
また、ラーマジという人は、ラーマナ・マハルシの知見に基づき自らも覚醒し、次のように言っています。
「『わたし』とは、一種の思考であり、思考のキングである。『わたしは身体であるというこの思考』は、大きな透明な袋のようなものであり、他の思考や感情は、この袋の中で生起し、消滅する。
この思考のキングは、我々が眠っているときは、ラーマナの言う『ハート』に生息しているが、我々が目覚めると同時に、そこから立ち上がり、我々の脳髄を支配する。」
 
*ちなみに、「ラーマナの言う『ハート』」とは、胸部の中心から約1インチ右にずれた箇所を指します。
 
悟ったと言われる人々の中には、「『わたし』は、思考が生じたときに同時に生じる。思考のないときには、『わたし』も生じない。」という人がけっこういるのですが(不思議なことに花岡さんもある記事で同じことを言っています。)、わたしは、この見解には同意できません。
それは、私自身の体験とラーマナ・マハルシやラーマジの見解によるものです。
思考がなくても『わたし』は存在します。それは、『わたし』と『それ以外のもの=他』という感覚が残っていることからも明らかだと思います。
 
 
8)壺の中の水と川の水
古くからある「悟り」や「解放」あるいは「覚醒」のたとえとして、「壺の中の水と川の水」があります。
「壺」が「わたし」、「その中の水」が「純粋意識・気づき」、「川の水」が「真我=アートマンあるいはブラフマン」です。
通常の「わたし」の中にある「純粋意識・気づき」も「真我」なのですが、「わたし」の外にあるそれは、無限に巨大な量をもって流れているのです。
その川の流れと合流することが「悟り・解放・覚醒」ということになり、
そのために必要なことが、「壺を割ること」になります。
従って、「悟り・覚醒」とは、原理的には非常にシンプルな出来事なのです。
 
 
(ブログ管理人より)