わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】「わたし」という笹舟

なんて言いますか、自分で書いていて思うのですが。

しかも、書いている途中で思うのですが。

わたしのブログは、ちょっと説教じみているなあ・・・って。

これって読み手にしてみれば、反感をかうのかも知れないなあって。

読まれる方には申し訳なく思うのですが、これは誰か他の人に向けて書いている訳ではないのです。
かつての自分に向けて記録を残しているのです。
あるいは、今の自分に確認のために記しています。

今までわたしは、真理とか本当の自分とかに全く無知で、恐れと虚栄の従者として生きていました。
自分を護るために平気で嘘をつき、誰も見ていないからと、してはいけない多くの過ちを繰り返していました。
それなのに人に向かっては正義とか、協調とか、綺麗ごとばかり並べて自分を主張していました。

このブログは、かつてのこのような自分に言い聞かせるために、内側から教えられる事を、浮上してくる事を綴っているだけです。

自分以外の誰かや、ある種類の人々に向けて書いている訳ではないので、読まれる方には周知していて頂きたく思います。

内側に入ってわかって行く理解は、もちろん言葉での理解ではありません。
何かについて理解する時、それが湧いて来れば、ただわかる理解です。
また、何かについて理解しようとしている訳でもなく、それは浮上してきます。

なにかこう、内側から「これをわかれ!」と自我の「わたし」に対して教示している感じです。
それはあえて思考にしないでもいいし、理論的に辻褄が合うように並べ替えて言語にする必要もないのですが、自我がある以上、自我もそれをわかりたいと欲します。

自我はどうしても、馴染みのある「言葉」を使って思考によってそれを理解したがります。
そういう訳で言語化する習慣に従って言葉に変換し、自我の「わたし」がそれを理解しようとしているだけです。

内側には、言葉として表現していない実に多くの「わかっている事」があります。
また、「わかっている部分」「わかっている事のデータベース」「わかっているシンクタンク」そのようなものがあります。

それは自我の「わたし」から見たら、まったくこの世界とは異質な、ある意味カオスでもあり、究極の規則正しい結束でもあります。
しかし、落ち着いてよくよく観てみれば、在るでしかありません。

それは有でもなく、無でもなく、在るです。
+1でも、-1でもなく、1です。
正義でも悪でもありません。
天使でも悪魔でもなく、神です。
肯定でも否定でもなく、それは在るです。

自我の世界に現れるのは、そこからの断片たちです。
それは有でもなく、無でもなく、現れです。
+1でも、-1でもなく、断片たちです。
正義でも悪でもありません。
天使でも悪魔でもなく、二元です。
肯定でも否定でもなく、それは現れです。

「わたし」は、それらいちいちに、意味づけていたのです。
意味づけによって、他を非難します。
意味づけによって、他を肯定します。
自我の「わたし」とは、そういうものだったのです。

そのようにして、わたしは世界を創り、それを実体であり真実であると思い為し、物語を演じてきました。

今、思いもかけなかった事を、わたしは理解しつつあります。
内側から教えられて理解しつつあります。

目から鱗が・・・」という言葉がありますが、なにかこう、薄幕で半透明な鱗が落ちるというよりは、限りなく薄くなって行って

、向こうが透けてきたように、それらを理解していきます。
内側に向いている「わかる眼」の、鱗が薄らいで来ているのです。

誰のためでもなく、ただ、この自我を、この「わたし」を救済するためにそれが起こっているのです。

真のグル、サット・グルがこの内側に存在しているのです。

そういう訳で、このブログは全く個人的に書かれていると、以前から言っている訳です。

ですが、偶然(というものは無く、全て組み立て済みの必然ですが)このブログに立ち寄った方が、同じように内なるサット・グルに出会えるなら、それはとても喜ばしい事だとも思ってもいます。

そういう事ですので、なるべく厳しさを排除しようと思いながらも、ついつい自分に叱咤するような表現になってしまいます。

でも、このような内側からの教示は、わたしにとっての喜びでもあります。

わたしは、激流を流れゆく笹舟です。
まんま流されていれば、大海に流れ着きます。
有りもしない価値観が、思考が、妄想が、岸辺の草を掴もうとしていました。
あるいは、上流に向かって流れようと無理なエネルギーを使い、疲れ果て、妄想のうちに病んでいました。
流れを受け入れた今、もはや大海に辿り着くのをただ待ち望むだけの、わたしという笹舟です。

その軽やかさ、捉われのない安心感、流れにまかせる解放感。

そして今、喜ばしい事に、その大海が確実に在るのだという事を確信できました。
全ては循環です。
大海から愛という太陽が水蒸気を昇らせ、雨となって山野に降り注ぎ、名も無い小川から、ちょっとばかり魚が住む川になり、流れの速い川に注がれ、激流の河に合流し、あの河口から大海に導かれるのです。
長い長い輪廻のように思われても、それは全く今起こっている事です。

ただひとつの在るが循環を構築しているのです。

神は褒むべき。
なんとすばらしい組み立て。
マーヤのありがたさ。
崩壊と構築の中で、全てが循環しています。

わかる人が居て、それでいいのです。
わからない人が居て、それも尊いのです。
なにも間違っていなかった。
いずれみんな、大海に、ニルヴァーナに辿り着いてしまいます。

そして、新たな上昇気流が起こり、雨を降らせます。

 

 2012-10-30

 

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