わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

東日本大震災追悼 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

東日本大震災追悼

 

あれから1年。
東日本大震災で亡くなられた多くの御霊に、心からご冥福をお祈りいたします。


マーヤ(幻想)というのは、自我意識に働き、世界を現す作用を持つちから。
見る事も感じる事も出来ない、超自然のエナジー
源泉(神)の属性としての位置づけで、宇宙も自分の身体も、自我そのものさえも、
この夢の世界、リーラ(神の戯れ)の世界は、それによって次々創造され、次々破壊されていく。

言ったら、物語の筋書やら、脚色やら、ありとあらゆるプログラムのソースコードだ。

そのマーヤが、日常に於いても自我意識に働き、起こす事、起こっている事を表現し,我々の表面受容器がそれを拾い、松果体やら中枢に認識させる・・・という錯覚が起こる。
それによってマインドが様々な思考や想念のリアクションを起こす。

昨日参照しようとした大涅槃経から、どこを拾おうとしたかと言えば、
お!っと・・・また「あれ」に入り込んでしまうといけないので、記憶から引き出して言いましょう。

大雑把にハショッて言えば、死期が近づいた仏陀はアーナンダに、こう言ったんだよ。

「アーナンダよ。いかなる人であろうとも、悟りを完成した者は(長いので縮めました)もしも望むなら、
寿命のある限りこの世に留まるし、あるいはもっと長く留まる事もできる」
つまり、アーナンダが「仏陀よ、どうか人々を憐れむのであれば、出来うる限りこの世に留まっていてください」と、
懇願するなら、そうしましょう・・・と言ってる訳だけど、

その時、アーナンダは、呆けて(ほうけて)いた。全く意識が飛んでいた。
三度、仏陀は同じ事を繰り返し、三度ともアーナンダは呆けていたため、懇願する事は無かった。
それで、仏陀は、呆けていたあなたの罪により、わたしは死を受け入れる事にした・・・みたいな。

それは、呆けさせられていたんだよ。 マーヤのちからによって。
みこころが完璧に成就されるために。
言ったら、神との約束を破棄しようとした仏陀の冗談を食い止めるために。
それでも、そのやり取りさえも、既に決まっていた出来事だけど。

マーヤは世界を現す材料でもあり、定めを運ぶちからでもある。

そして、あの日、
忘れようにも忘れられない歴史に残る大惨事が。

多くの尊い命が津波に呑まれ、2万人近い人々が犠牲になった。

わたしが住むこの県でも、ほぼ6千人の人が先にいってしまった。
今でも思い出す度に、悲しく辛く、涙が流れてしょうがない。

あの日、なにが人々の判断を誤らせたのだろう。

石巻の小学校では、すぐ裏山に逃げれば助かったはずの74人。
なぜ、どういう訳で逃げもせずに、ああでも無いこうでも無いと、先生が呆けていたのか。
すぐ、裏に高台があるにも関わらず。
なぜ生徒たちは、危険を察知していながら、裏山に走らなかったのか。

そして宮古市田老の皆さん。
ここは、昔から大津波の被害にあいながら、
その恐怖を体験していながら、
しかも、かつてのそれとは比べ物にならない程の大きな地震だと判っていながら、
ああ・・・あろうことか、
津波を見物するためにわざわざ防波堤に多くの人が並んだとは・・・

なぜ? どうしてそうなる?
考えたら、わかるはずなのに。

人には、世界には、宇宙には、ある日人知では計り知れない事が起こる。
それに原因を探しても意味がない。
起こることは、起こるように仕組まれている。

だけど、どのような起こる事にも「成就されなければならない結果」という理由はある。
その理由のために起こる事が起こる。
原因のために起こるのではない。

あの時、人々を覆った、大いなるマーヤが、
その目的のためには、どうしても必要だったのだと、わたしは受け取っている。
失い、残った人々は深い深い悲しみの中にあるのだけれど、
先にいかれたあの大勢の御霊には、偉大な輝かしい目的が用意されているからそうなった。
そうでなければ、そうでなければ、やりきれない。

この先、多くの人々の意識に変革が起こって行くかもしれない。
それは、より高次な意識への上昇。昇華。
超ひも理論で言うところの、六つ目の次元を超えて、高みに昇るだろう。

より、平和で、幸せな世界を創るための、
次代のリーダーとなるために、
彼らは再び生まれてくるのだろう。

わたしはそう思う。

輝かしい使命を、彼らは与えられるだろう。

みててごらん。
だれも生まれ来た者でもなく、
だれも死に行く者でもなく、
すべては真実の自己に気づくための学びの生を繰り返している事が証されるだろう。
だれもが分離したものではなく、
ただひとつの、その中に、いつだって在る事を証されるだろう。

 

2012-03-15

ハートが開く【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、2015-10-21掲載の同名の記事の完全版になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、一部抜け落ちている部分があることがわかった。Hさんから頂いた記事です。

 

ハートが開く

 

あの瞬間。

サバイバルを放棄し、自我という牢獄に存在するあらゆるものを手放し、
内なる神、源泉、真我にシフトした時現れた、この胸のハートの振動。

第四のチャクラが、
この聖なる場所が開いた時に溢れ出した例えようのない至福と解放感。
知る事のなかった、真実の愛に満たされた喜び。
暖かな安らぎの、まあるいオーヴのような・・・

それは、内なる神を絶対的に信頼しきり、自分の全てを明け渡した結果起こった事。

自我の暗示にかかり、かたくなに掴んでいた虚偽の価値観が溶け出す。

それは、いわゆる「こころ」と言うものとは違う。
「変化しない永遠」につながる場所。

「こころ」というのは、受容器官が受ける刺激情報や、周りから押し付けられた価値観で、様々に変化していく。
向上心、天心、真心、あるいは、下心、疑心、虚栄心など、文字でも現される。
プラスとマイナスにカテゴライズできるように、常に変化する。

この胸の、この場所から溢れ出るものは、「ただ在るもの」で、変化することはない。
それには理由も、条件もない。

ここから溢れ出る愛は、まったく理由などいらない。
見返りなど、一切望む事がない。
親子だから、夫婦だから、恋人だから、好きだから・・・そのような条件がいらない。
ただ愛であって、それ以外ではない。

知る事のなかった真実の愛。
それがハートに目覚める。

あらゆる過去の自分を許し、過去の誰をも許し、過去の罪の一切を浄化させてくれる。

その時、わかってしまう。

なんという事だろう。
神は愛そのものだった。
真実在るのは、ただそれのみだった。

わたしはその、愛である神のエレメントだった。
だれもが、それの要素であって、
だれ一人欠けても、それは在ることができない。
全部でひとつだから、なにひとつ欠けても、それは存在できない。
そして、その唯一が無いことには、わたしも、誰も、無い。

それこそ本当の自分、真我であって、
神とわたしは、離れてはいない。
誰も離れたものではない。

ただ1があるだけで、あらゆる存在は、その1の中の、数限りない1だった。
我々は数を数えることができる。
しかし、どのように多くの数を数えようが、
それは、1の中の1を数えてるに過ぎない。

38591という数を数えても、
それは、38591に仮想分解した1を数えているにすぎない。
どのように考えようが、1から抜け出す事はできない。

(この表現は判りにくいかも知れない。もともと言葉では表せないのだから)

「わたし」という個の存在は、錯覚だった。
自分という主体も、世界という客体も、すべては幻だった。
しかし、同時に、その幻の大きな存在理由も知る事ができる。
それは愛ゆえの表現だった。

ああ、じつに、
その幻さえも、神の臨在による現れだった。
しかも、わかっていく事が次から次と、・・・
溢れてくる。

パニアパラミタ・・・内在された偉大なる智慧

これの事だろうか・・・。

 

 

2012-03-01

「わたし」と母の関係 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのある読者との問答をつけ加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

「わたし」と母の関係

 

「わたし」に対する「わたし」の理解は立場によって異なります。

「わたし」に完全に陥り、そこで「わたし」を観察する理解。
その「わたし」とは何処か違う立場で「わたし」を観察する理解。

この二つの観察の違いがわかるでしょうか。

慣れ親しんできた自我の中の「わたし」と、そこから立場を変えた場所にある「わたし」と。
その違いを知ってください。

工業製品に、発泡スチロールというものがあります。
衝撃を吸収する緩衝材として梱包などに利用されたり、熱伝導が極端に悪いために断熱材として使用されたりします。

発泡スチロールを水の中に沈めて手を放すと、それは水面に浮いてきます。
しかしこれは、発泡スチロールに浮力が有るのではありません。
水の分子が、発泡スチロールの下に沈んで行くから水に押し上げられているに過ぎません。

水の方が質量が大きい(単に重さと考えてもいい)ためにそう見えてしまうだけです。

質量が大きい方が、より下に沈む。
そうであれば地球のコアは、そのような質量の大きな物質で出来ているのでしょう。
きっと金やプラチナ、未知の物質があるかも知れません。

発泡スチロールの立場で見るから浮力があるように感じる訳です。
水の立場で見るなら、発泡スチロールを押し上げていると見るでしょう。
地球のコアの立場で見るなら、全て質量比で平等に引き寄せていると見るでしょう。

発泡スチロールは自我の「わたし」で、形あるわたしです。
水は「わたし」を別の立場から見る、その立ち位にあって、形無く遍満するわたしです。
地球のコアを神とするなら、つまり諸現象の根源とするなら、ちからが現象を作り出す作用は、マーハーマーヤです。

立場を変えて見る事により、真実が見えてくるという事です。

マーヤが生み出す現象を、我々は「わたし」の立場で見るから現実として感じ、その中だけで判断し、思います。
全くの幻ですが、幻である事に気づかないから執着します。

幻であるから我々は騙されているのだと言う事ではありません。
神が在ろうが、マーヤがどうであろうが、その幻の物語を、現実として生きていく事が意味のある事だという事です。

意味があるから現れているのです。
生きにくい世界を、苦労しながら、悲しみや喜びを味わいながら生きていく。
そのような尊い体験を、我々はしているのです。
これこそ奇跡そのものです。

人生を体験するのは、神を見出す事より、ずっと大切で意味のある事です。
苦労して生きていく先には、必ず愛と慈悲への気づきが待っているのです。

そしてやがて誰もが神を知るに至ります。

マーヤは神の属性であり、生み出す作用であり、生み出す力です。
同時にそれは、破壊でもあり、消滅でもあります。

我々の誰もが、生きとし生けるもの全てが、このマーヤによって生み出されました。
「わたし」と思い為すこの主体さえマーヤによって作り出されています。

ミクロからマクロまで、その法則さえマーヤです。

マーヤは全ての母なのです。

それだから、翻弄されているとしても、それは何であれ、母の愛、無償の愛から出来ているのです。

それだから、我々の本質は愛だと言えるのです。

そして愛が湧き起る源泉、それを神と言っているのです。

現実は幻想だけど、それは愛の表れであり、また真実存在する実体は、神しかないのだと言う事です。

だから気づきが起こり神を受け入れて生きるのも、神を全く知らずに生きるのも、どちらも間違っていません。
発泡スチロールが「わたし」だという立場でも、ぜんぜんいいのです。

どちらにしても、神とマーヤの愛の中で、我々は生きています。

マーヤは母の愛。

マーよ(母よ)と、呼びかけてごらんなさい。

マーは、我子に呼ばれる事がどんなにか嬉しいかわかるでしょうか。
愛によって抱きしめずにはおれません。

呼びかけてごらんなさい。
きっと、あなたのハートに、何かが起こるかも知れません。
心から呼びかけるのであればきっと。

根源、神はハートの向こう側。

でも、マー(母)は、この現象界に現れています。
そのようにして、神の臨在を届けているのです。

 

2012-12-15

 

 

【読者MMM】幻の物語

花岡さん、皆様、おはようございます。 

>幻の物語を、現実として生きていく事が意味のある事だという事です。 

生活の中で、「幻の物語」に翻弄されているMMMです(笑)。 

さて、母の愛として、物事は、起こるべくして起こっており、それを経験し味わうことが大切である旨、ご教示いただきありがとうございました。 

さて、またまた質問なのですが、 

この体験をするときに、受け身の姿勢で、何が起こるのだろうと待って経験する立場と、とりあえず(何が起こってくるのか分からないので)、こちらから何かの行動を起こし、積極的に起こるものなら起こってみろと働きかけるような姿勢では、違いがあるのでしょうか? 

私は今、起こってくることにどんなメッセージがあるのか(うまく読みとれてはいませんが)、ある出来事や人に会うということが起これば、それを拒否せず「受け入れて」「行う」という立場でいます。 
やり方としては、「受け身ー肯定」という立場。 

その他のやり方としては、「受け身ー否定」:起こってくるのを待ち、それにかかわらないようにする立場。 

「能動ー肯定」:とりあえず何か行動を起こし、そこで起こることをすべて引き受ける。 

「能動-否定」:積極的に行い、何が起こっても、気にせずにガンガン進む立場? 

このような出来事に対する個人の姿勢というものは、私たちにとって、こうした方がよい・・・というものがあるのでしょうか? 

(たぶん、その姿勢も、「決まっています」かもしれませんけど) 

【読者MMM】ちょっと補足を

先ほどの質問で、すこし補足しておくことが・・・。 

私は、いま「受け身ー肯定」という立場でいると書いてますが、それは、自分を制御してその立場にいると思います。 

会社員の癖で、絶えず動いていないと、自分が怠け者のような気がしてしまう自分が実際には、自分の中にいまして、「「能動」をした方がいいんじゃない?」と絶えず問いかけているようで・・・。 

ただ、「能動」を始めると、出来事に気付くという肝心かなめのことが疎かになり、出来事自体に囚われ(マインド主導)になってしまうと思ってます。 

それで、受け身でいることを自分で肯定したり批判したり・・・どうするのがよいのだろうと思ったり・・・。 

という自分の中での堂々巡りに対しての質問でした。 

以上質問の意図について、補足です。

【読者MMM】 あ痛たたた・・・補足2

花岡さん、何度もすみません。 

どうも私は、「より良い方法(より効率的な方法)がある」という信念に凝り固まっているようですね。 

ようく自分を観察すると、焦り?効率的であること?良い方法?といった、「いま」から離れた場所で、くるくる回っているようです(笑)。 

妙な質問で済みませんでした。

【花岡】 Re: あ痛たたた・・・補足2

MMMさん、こんばんは。 

確かに焦っているようですね。 
効率を考えるのは、目覚めたいという現れなのでしょう。 

さて、どうである姿勢が好ましいか?というのが思考であり、マインドの働きなわけです。 
起こる事は起こってしまいます。 
どうしようがあるでしょうか? 

日常では、こうしたい・・・と思った事に肯定も否定もする必要はありません。 
肯定しようが否定しようが、物事は起こり、変化は進んでいきます。 

しかし肯定しても否定しても間違いではありません。 
質問の二者を、状況に合わせて使い分けてもそれでもいいのです。 

考える事が始まると、あっという間にループに引き込まれます。 
我々は起こる事柄に思考を以って定義しよう、意味づけようとしているだけです。 
その思考をほっといて、真実を見てみましょう、と言うのが、いつも言っている事です。 

何者が行動しているでしょうか? 
「わたし」が行動していると思ってしまう、そう思わせるマーヤ、そしてそうさせる指令(みこころ)を出す存在。 
真実行動しているのは、その三者の誰でしょうか? 

知識としてそれを覚えるのではなく、実際にそれをわかるのであれば、思考のループに捕まることはありません。 
真実の行動者と同じように、「わたし」もその行動を楽しめるようになるのです。 

花岡修平の言う事を全て捨ててください。 
そして、自分で探り当ててください。 
それしか、「わかる」は現れないのです。 

ただ、真っ正直であるべきです。 
そうすれば、気づきに必要な「起こる事」が起こってしまうでしょう。 
それは苦脳を伴う出来事であるかも知れないし、そうでないかも知れません。 

どちらにしろ、その時はじめて、「完全に受け入れる」立場が必要になるのです。 
 

【読者MMM】ありがとうございました

花岡さん、おはようございます。 
お返事ありがとうございました。 

ループから抜けたと思うとループにまたはまる・・・。 
われながら、おもろい奴っと言う感じです。 

素直に経験し、正直に自分を見て、自分で「わかる」ように探ります。 
神様を日常に感じられるように。 

本当にありがとうございました。