わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「お金ってなに?」

KPTさんからの質問です。

> 花岡さん、みなさん、ごぶさたしております。
質問したく、コンメントをさせて頂きました。

質問内容は「お金とはいったい、なんなのでしょうか?」 
花岡さんは、お金をどのようにとらえて、いらっしゃいますか? 

私は今まで、生活が出来るだけのお金があればいいと思っていましたので、お金がいったいなんなのか、意識したことはなかったのですが、いく

ら働けど減ることがあっても、増えることがない状況になり、初めてお金とはいったいなんなのか?ふと、疑問に感じました。

消費税の税率アップ、資本主義の象徴である購買意欲を煽る過剰なまでの宣伝広告。
そして、世の中の多くの人がお金で悩み、翻弄されているように見えます。

スピリチュアルを説く(生業にしている)方々のほとんどが、「今、実際に手元にお金がなくても、お金はある。」とおっしゃっていますが、私

にはまるで禅問答で、腑に落ちません。

つたない、質問で恥ずかしいのですが、お答え頂けたら幸いです。



お金ですか・・・。

KPTさん、お久しぶりです。たいへんお待たせ致しました。
お金の問題は、重大です。

お金のために、比べられようも無い大切な尊い命が奪われ、人々の信頼は崩壊し、全てが敵になっているのですから。

ですが、わたしは最早、お金に執着しておりませんので、どうお答えしましょうか。

お金はつまり、ただの道具ですけれど、(物が)欲しいという心が人の中にある時には、それは欲の象徴として絶大な力を有している訳です。
お金は人々の欲から排泄される執念やら怨念やらがまとわり付いていて、真剣に考えるのさえ、汚らわしいという程の存在です。

そのように言えば、きれいごとだと言われるかも知れません。
しかしわたしは、欲を持たない潔い(いさぎよい)人に出逢いました。

わたしは、彼に感化され、自らの薄汚い欲をありありと観る事が出来たのです。
わたしは恥じて、欲を捨て、清らかな者に立ち帰ろうとしました。
その姿勢を崩す事は無かったのです。
そのおかげで、得難いものを得るに至りました。

いつだって必要なものが与えられる。
いつだって必要な起こる事が起こる。

今までは、あるがままの現れに、惨めさや嫉妬など、エゴの意味づけで「あるがまま」を否定し、抵抗し、逃避して、未来に希望や理想を妄想していたのです。

わたしはデパートの玩具売り場で、買ってもらえない事に腹を立て、仰向けになって手足をバタバタさせていた子供だったのです。

今与えられている「あるがまま」を、たったの一度も見る事が無かったのです。

運の無さを否定せず抵抗せず、受け入れて、それが現れるに足る意味を知らない事には、なんのための現れか。
未来に希望を理想を持つ事が大切なのではなく、それは「今のこのあるがまま」にある尊い意味、なぜこれが必要なのかを悟る事無く、希望や理想との隔たりによって、葛藤苦悩を更に深めるだけのブラフだったのです。

わたしは「お金が無い」この現実を、受け入れる選択をしました。

靴が無くても、足は靴に勝る。服が無くても体は服に勝る。
何かを得ようと思い為す事をしない花も、美しく咲く事ができる。
与えられるまま受け入れる鳥は、大空を自由に飛んでいる。

全てイエスの言われるとおりなのだから、受け入れて潔く、流れを否定せず抵抗せず流れて行く事が、神に辿り着く最も近い道なのだと理解したのです。

それでわたしは、自由を得ました。

今わたしは、自由です。

未来からも理想からも希望からも、それによる現実とのギャップからも、それによる葛藤からも、自由です。
受け入れる、現れに任せる、これだけでこんなにも、軽くなれるのです。

後は現すあの方が、どうにかしてくれます。
どうにかなるのです。

人は、どんな時にも、必ず絶対、どうにかなって行くものです。

わたしはすごく貧乏で、無駄遣いとか出来ないのですが、それでも必要な物資はなぜか集まってきます。
それでまあ、このようなネット環境も使わせて頂いている訳で、コーヒーも美味しく頂いております。

今、足りているからそれでいいのです。
また、いつか足りなくなって、飢え死にするのであれば、それもいいし、むしろ楽しみでもあったりします。

全て、現してくださる根源にお任せして、与えられるものだけ頂いて、命を召されるのであれば、差し上げます。
わたしとは、そういう者で居られる事が、幸せなのです。

それで日々、この至福に預かっているだけの、まあチッポケな存在な訳です。
そのようで居る事が、とても嬉しいのです。
なぜなら、命よりもっと尊いものを、有難いものを与えられ、頂いたからです。

スピリチュアル系の先生方が、「手元にお金がなくても、お金はある」と申しておられる事については、わたしはわかりません。
お金自体に縁がございませんので、計り知れない理論です。

それでも、何かしら意味があっての言葉なのでしょう。
先生に直接聞かれるのは、大切です。
言った本人はよくわかっておられる事でしょうから、ぜひ聞いて頂き、わたしにも教えて欲しく思います。

ところで、よく質問されるのが、目覚めた人とお金の関係。
みんな、そのへんが気になっているようです。

単なる金儲けなんじゃないのか?
こんなにお金費やしてるのに、なんで悟れないのだろう。詐欺?

あちらでも、こちらでも、ヒソヒソ話が聞こえて来そうです。

わたしは営業(?)を一切しませんので、どういうつもりでその先生方が会費、参加料、講演料、印税、その他金銭を得ているのかはわかりません。

しかし、人はたとえ、目覚めたとしても生活して行かなければならないのですから、お金は必要でしょう。
先生方も、生きておられるのですから。

セミナー参加者が、例えば期待した程の事が得られなかったとしても、それは期待が膨らみすぎた為のギャップかも知れない。
また、全くの偽先生であったとしても、今後に見る目を養ったと思えば、それなりに得られたのですし。

効果が得られないのは詐欺ではないか?と言いたい気持ちも、真理を商売にしていいのか?という気持ちもよくわかります。

それなら、そもそも、聖なる気づきを、お金で買おうとしたその人は責められる事は無いのでしょうか。

シュリ・ラーマクリシュナは、大勢を前に教えても、帰りの馬車賃5ルピーさえ受け取ろうとはしなかった。

ほんとうは、聖なる教え、尊い悟りは、商売にしてはいけません。
お金の故に真理を汚してはいけないし、教えられるほうもお金で買おうとしてはいけません。

しかし、商売ではないお金のやり取りはあってもいい。
それは時間を割いて労してくれた先生に対してのねぎらい、感謝として布施されるのであれば、構わないのではないでしょうか。
指導者を養い(供養)するのは神への奉仕だからです。

しかしながら、わたしはこうも言います。

真の指導者は、そもそも指導しようなどと思わない。
ただ、求める者に与えられるものを与えるだけだ。
救える者を救いたい、ただそれだけの想いがあるだけだ。
神のみこころと同じ想いが、そこにはあるだけだ。
決してお金を求めたりはしない。
見返りを期待したりはしない。

まあ、双方、商売として考えていないのであれば、それでいいのでしょう。

人々の頭の中は、お金の事でいっぱいで、真理を観る事は無い。
引き寄せの法則は、人々の欲の法則である事を誰が思うだろう。
お金儲けの成功者が納税高を自慢しながら悟りを伝授する異様な風景。
この世界は不思議で満ちている。

ラマナもラーマクリシュナも、ボロ切れ一枚で暮らしていた。
とても貧しく、貧しさを嘆く事もなく、それだから神の愛に満ち溢れて、それは輝くばかりの聖者だった。

そのように生きろとは言わないけれど、欲を持っているうちは絶対悟る事などできはしない。
欲の大きさだけ、悟りは彼方に遠のいて行く。

悟りたいというのも、欲に他ならない。
悟りたいを捨て、ただみこころに身を委ね、運ばれるまま受け入れるなら、それは既に得ているのを知るでしょう。

お金に関して申し上げるのは、とても気持ち悪いです。
いきなり俗世間に、どっぷり浸かっている気分です。

これでどうか勘弁してくださいませ。

お金儲けが悪い訳ではございません。
それで国家経済も廻って行くのですから。

皆様、誤解なさらず、断定せず、裁かず、健やかにお過ごしくださいますよう。

 

2014-04-22

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「真我はハートの向こう」

> はじめまして、TSと言います。

昔から、真理に興味を持っています。
このところ人生、精神的に追い詰められていて、もう明け渡ししかないなと思いました。

すると世界が、まあ宇宙でもいいのですが、隻眼の中に、心の目の中にあったのです。
映像(認識する世界)が、心の丸鏡に反映されて、あります。

コレは凄い!と思いました。

僕は真っ暗な所から、覗き穴を通して世界を観ているようです。
一眼レフカメラのレンズ蓋を、閉めたり、開けたりすると寝たり起きたりしているのかなと思います。

では、なぜ個人が継続するのでしょう??
世界の中の人も、世界の中の僕も、遠くの方へ言ってしまって、僕は何もないところにいる。

安心はするのですが、何もない。あえて認識しようとすれば『真っ暗』な空間を感じます。

ここでラマナ・マハルシの『真我はハートにある』という言葉が出てきました。
でもこの状態の時、ハートには何もないのです。

なぜだ!!
「なぜ、ハートなんだ」と心中叫びました。

僕は覚醒は特別なことではなく、たくさん体験者がいると思っているので、ネットで『真我』について検索してみると、心眼についての、花岡さんの秀逸な記事に出くわしました。
これには、感動しました。

僕は体験的に理解したいのですが、ハートの奥にあるというのは、どのような状態なのでしょう。
また、沈黙してハートの感覚を意識するという瞑想法は、この場合、有効なのでしょうか?

あなたはわたしである。
もしくはわたしはあなたである。
という体験が、どうしても理解できないのです。

わたしはわたししかいない。

これを脱皮しないと、成長できません。どうか、アドバイスをお願いします!




TSさん、はじめまして。よろしくお願いします。

追い詰められて、退避したところは暗い場所。
安心するけど何も無い。

世界の人は遠くに消えて、わたしだけがいる。
なぜ、このわたしという個人は消えずにここにあるのだろう。
詰まるところ、わたししかいないのではないのか?

ということでしょうか?
そこでの安心感は充分楽しめたでしょうか?

そのような場所は、確かにあります。
落ち着いた、いい場所です。
でも、何か限定的に感じませんか?

つまり、それだけの場所、そのような感覚がしませんか?

わたしは伝授する事ができないけれど、質問者の内なる師が活躍してくれるのを期待しております。
わたしは質問者の隻眼を、その師に向ける事ができるでしょうか。
質問にお答えする前に、実験をしてみましょう。

この実験を観念的に過ぎると捉えると、実験は成り立ちません。
澄み渡るような素直さが、天真である事が必要です。

心眼とは、「わかる眼」です。
イメージとして見る目ではありません。

心眼という眼は、見るというより「解く」あるいは「わかる」そのもの。
「わたし」と言う者を泳がせている実体の、その属性として存在しているという事。
「わかる」がわかる事で、それによって、わたしがわかると思い為す事ができるそれの事です。

言い換えたら、強力な察知能力の事です。

それを踏まえて、その落ち着いた暗い場所から、現実の「今」に戻ってみてください。
この瞬間の「今」だけが現実としてある世界を見てください。それ以外は記憶です。

この「今」にある時、何が世界を見ているでしょうか。

「わたし」が見ていると認識しているとして、その「わたし」が、かの暗い場所に行ったとき、やはり暗い場所を見ているのは、「わたし」なのではないでしょうか。

それだから「わたし」はそこでも継続しているのではないでしょうか。

もう一度、現実のこの瞬間の「今」一瞬の世界を見てください。
「わたし」ではなく、「わかる」で見る事ができるでしょうか。

これは重要な取り組みです。
「わかる」にフォーカスして、その「わかる」に世界を見てもらってください。

その時、世界を見ていながら、「わたし」はいません。どこかにすっ飛んでいます。
見ているのは「わかる」であり、「わかる」によって、世界がわかるのです。

その時、世界と「わかる」の双方を気づいているでしょうか。
そうであるならば、世界も「わかる」も、双方気づいている者から離れてはいません。

そしてまた、「わかる」によって世界を見ているなら、「わたし」はいません。
つまり、気づいている者は、「わたし」ではないという事です。

「わかる」が世界を見るのを、辛抱して続けてください。
その時、「わかる」の在り処を(ありかを)、認識できますでしょうか。

そこがハートです。
「ここ」「これ」と言われる場所です。まあ、それ以外に言いようがないのですが。

「わかる」が世界を見ている時、つまり世界をわかっているとき、はじめて気づいている者がわかっている者であると認識できます。

しかしそれは「わたし」ではなく、「わたし」をはるかに超えて大きい存在だと気づけるでしょうか。
それが、わかっている全てに意識を波及しているから、それはとてつもなく大きいのです。
大きさなどという限定の無い、大きさと言う観念を飛び越えて在るのです。

その「わかる」は、先ほどの暗い場所へ行けるでしょうか。
暗い場所は既に、「わかる」によって占有され、暗い場所から、輝ける場所に変わっていないでしょうか?
わかるの大きさの中に、取り込まれてしまってはいないでしょうか。

たぶん、暗い場所は、「わたし」が意味づけてしまった限定された場所なのかも知れません。

そのような事が、全て、見ていた世界も含めて、あなたの中で起きていたのだと知れるでしょうか。

さて、「わかる」そのものに、意識の全てを突入できるでしょうか。
つまり、「わたし」に関わる一切を、預け任せ切る事ができるでしょうか。

そのように見る時、世界のどこにも分離の無いのを、知る事ができるでしょうか。
また、世界の全てが、「わかる」の中に、あるいは「わかる者」「気づく者」の中に在るのを感覚できるでしょうか。

「わたし」というのは、その中の、小さな思考、点でしかありません。

さて、「わかる」が世界を見るように、その見方で世界の限定された部分を見る実験をしてみましょう。

例えば、お子さん。
自分の子でないほうがわかりやすいかも知れません。

その意識がわかりますか?
姿ではなく、意識がありありと、存在感をもって認識できるでしょうか。
彼の、あるいは彼女の意識が、「わかる」に流れ込むと言うか、ジョイントするのを感じられますか?
その時、彼、あるいは彼女も、意識を捉えているのを気づけますか?

誤解されますので、食い入るように見ないでください。

電車に乗って、いろんな世代のいろんな人の意識を感覚してみるのは、とても感覚的に新鮮です。

これは生き物たちが普通にやっている相手への値踏みだったり、意思疎通だったりします。

人との交流の場で、「わたし」ではなく、この「わかる」これで、付き合ってみてください。
人というものが、別の意味で、よ~く見えてきます。

実験はここまでです。

さて質問はこうです。

ハートには何も無いのに、なぜ真我がそこに在るとラマナは言うのか。
ハートの奥とは。
ハートの感覚を意識する瞑想は有効か。
わたしはあなた、あなたはわたし、「わたしにはわたししか居ない」のに、それはどういう事か。

質問者は、「わたし」の立場を崩してはいないのではないでしょうか。
「わたし」をすっ飛ばす事を、していないのです。

「わたし」があるとき、ハートは胸の位置の小さなマーカーです。
しかし、「わたし」を忘れてそれに漂い遊び、浸りきって世界を見る時、世界は世界を超えてしまうのです。

つまり、「わたし」のほうが、小さな点に逆転するのです。

ハートに任せて世界を見るなら、まるで見え方が違ってきます。
愛溢れる世界を見る事ができます。

愛は、あそこからやってきます。
そこに在るそれ、根源がそこに在ります。
それが、わたしに関わってくれているだけです。

世界が有るのは、それが在るからです。

それは形ではなく、言葉でもなく、思考でもなく、時間でもなく、空間でもありません。
表現しようもなく、在るです。

世界として現れるものは、「わたし」「あなた」「彼等」、全部意味づけが「わたし」に許された世界です。
世界は現すものが現すにしても、意味づけて分離したのは「わたし」です。

ほんとうは、「わたし」も「あなた」も「彼等」もなく、全部現れそのものに過ぎません。
それはただ、模様なのです。

それだから、意味づけ、あなたはわたしのイメージ、同じようにあなたもわたしをイメージしています。
結局は同じものであって、ただ現れです。

「わたし」がハートを意識的に瞑想するなら、それはエゴです。
そうではなく、ただ受け入れて感覚する、感受する、それにくつろぐ、漂い遊ぶ、そのようにしてみてください。
ハートを理解してあげるのは、大切です。

困った事に、ラマナはある意味、「ちから技」的な表現をしています。
ぐいぐいっとそこに行け、みたいな手法です。
そうではなく、楽に、ハートを知る、わかるを知覚する、ハートからの愛を味わう、もっともっと楽な姿勢で、享受していいのです。

ちからでどうにかしようというのは、エゴの手法です。
ただ、あるがまま、受け入れ、感受するように、リラックスして入って行くのです。

そうすれば、「わたししかいない」、と言う理解が、「わたしが全てだった」という理解に変わっていませんか?
つまり、わたししかいないのではなく、すべてが在ってそれら全部はわたしなのだという気づきが起こりませんか?
境界などほんとうは無かったのです。
全てあるがまま在って、「わたし」がそうではなく見ていたのだと、気づきませんか?

このような説明では、おわかり頂けないかも知れません。
しかし、そのようにしか言えません。
言葉どころか、思考を超えた、かの世界です。

「わたし」に関わる一切を、それに明け渡して「わたし」がすっ飛ぶのを許可してください。

まず、そこからの言いようの無い、至福に満ちた愛を、味わってほしく思います。

さてそして、日常で胸のハートがうずくような喜びに満たされる事ができるでしょうか。
それさえできれば、いつでもそこへ行けるでしょう。

体験して知るには、まったくそれに、無条件に自分の全てを明け渡して、(もともと無いのに与えられた自分ですから)、自由にわたしを使ってくださいと、それの中に死ぬ「覚悟」を持つ事だと思うのです。

それがつまり、目覚めて悟る、「覚悟」そのものではないかと思うのです。

 

2014-04-20

 

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「境界性人格障害」

Yさん、おひさしぶりです。


> どうしてもお訊ねしたいことがあり、コメントさせていただきます。

それは、ある精神病の類で苦しむ人の症状と、目覚めや悟りというものに向かうプロセスが、とてもよく似ているのではないだろうかということです。普通の自分と感情の起伏が激しく怒りをコントロールできない自分との間を行ったり来たりしています。

ある日、「これは目覚めに向かうための移行期間とかではなく、精神的なものなのではないだろうか」と思い、ネットで調べますと、境界性人格障害という症状ととてもよく似ているのです。

私は現在35歳で、昨年結婚しましたが、それまでは実家暮らしで、怒りが爆発し、コントロールできなくなって、家族を怖がらせたり気を使わせたり、疲れさせていました。でも、なんでもないときはニコニコしていて、楽しく過ごしているのです。

でもあるとき…特に母親に傷つくことを言われたり、妹の方を大事にされたり、自分を雑に扱ったりされたと感じたりすると、もうどうにもならないくらいの怒りと悲しみが同時に湧きあがり、泣き叫んだり、物に八つ当たりしたり、尋常ではない怒り方をしてしまいます。

一番ひどかったのは、20代でした。それは身近な家族に向けられます。特に、やはり母親です。大好きなのに、大嫌いで憎いのです。
書籍やネットなどで調べると、幼いころなどのトラウマが境界性人格障害を引き起こすきっかけとなるようでした。

この、自分の状態は、果たして…名づけるなら目覚めへのプロセスで「魂の試練」というものなのか、人格がうまく形成されなかったための障害としてあるのか、わからなくなってきました。

現在結婚し、幸せなはずなのにどこか虚しいのです。今は怒りを向けてしまう対象が夫になり、心配してくれています。
いつかは赤ちゃんを…と思っていますが、こんな自分に愛せるだろうかと不安です。
今の私はまだ「いつかわたしにもわかる日がくる、あんなに色々頑張ってきたんだから、いつか悟れる。いつか、いつか」と待っています。

今までずっと、自分の状態をスピリチュアルなこととして必要なことだと思い、そういう方面にばかり向かっていましたが、病院に行ったり、あるいはカウンセリングなどを受けて治療した方がいいのでしょうか。
それとも、これもわたしが映している景色としてただ受け入れるのか…。

花岡さんはお医者さんではないし、精神的な症状に詳しいわけではないことは承知していますので、もしお答えできなければ、構いません。
自分の状態をまとめることが出来ず、誰かに聞いてもらいたくて、質問させていただきました。



精神疾患と目覚めや悟りとの間に共通する類似点は何もありません。
精神的特異性があるから、目覚めや悟りに有利に働く事も、絶対ありません。
薬物や特殊なハーブの摂取で、疑似的に境地を体感しても、それが悟りに結びつく事もありません。

おっしゃるとおり、わたしは医者ではないし、カウンセラーでもないので状態について適切な答えは見出せません。
申し訳なく思います。

しかし、人は誰でも多かれ少なかれ、そういう素質を持っていて、顕著に出る人もいれば、ある程度抑止が効いて出にくい人もいるのではないでしょうか。

精神医学から言えば、それは境界性人格障害かも知れません。
だとしても、だから何がどうしたのでしょうか。
程度が違うだけで、誰だってみんなそれなんです。

普通と病気を、どのポイントで分けるのでしょうか。
その分け方は曖昧なのではないでしょうか。

ちょっと扱いにくい個性ではあるけれど、思い悩むのを止めて自分を許してあげてはどうでしょうか。

パーフェクトな人格を備えた人など、どこにいるのでしょうか。
そのような人は自分も含めて、今まで生きてきて、ただの一人も出逢った事がありません。
そういう自分で何も間違ってなどいません。

目覚めへのプロセスとしてそれをお考えのようですが、言ったら目覚めへのプロセスは起こる事全てがそうなのです。
意味のない起こる事など、ありません。
どのような起こる事も、ぞれは最終的には目覚めへと続いて行きます。
ひとつの事だけに限定して見ていたら、見ていないのと同じです。

あなたはあなたでいいのです。
わたしはわたしでいいのです。

そもそも「わたし」などありません。
作ってしまったから、そう捉えているだけです。

自分を責める必要などありません。
同じように、他人を責める事もしないでください。

あなたが幸せを知らないのは、幸せを知る学びを体験している只中にあるからです。
あなたが真実の愛を知らないのは、真実の愛を知るための体験の只中にあるからです。

それだから、あなたは在るのであって、どうしようもなく拒否も肯定もしようもなく、在るしかないから在るのです。

そのような、あなた専用の誂え(あつらえ)、スーパーカスタムメイドとも言うべき尊い「生」を生きているのです。

こうであってはいけない、あるいは、こうあるべきだ、そのような基準などは人の勝手な思い込みであり、意味づけに過ぎません。
自分の思い込みに挫けては(くじけては)いけません。

あなたが、あなたでいる事は、(神によって)許されているから、そうであるのです。
(神にとって)あなたは必要なのです。

必要でないものが、どうして存在し得ましょうか。

この事がわかりますか?

怒りが起こるから自分はだめだとか、愛を知らない、愛せないから自分はだめだとか、馬鹿げた思い込みをしてはいけません。

気質は個性であり、それを基に人は学ぶのです。

感情も、愛も、それは出来事に干渉し、反応するから湧き起るのであって、誰だってそうなのです。
怒りが特別強く出るからといって、おかしいのではありません。
それを制御できないからといって、だめなのではありません。

あなたは毎日、その事で反省するかも知れません。
しかし、反省とは自分を責める事ではないのです。

省みて(かえりみて)真相を明らかにし、対処する事です。

自分でも気づかない惨めさ、劣等感、暴かれたくない何かを、奥底に隠し持っていると言う事があるかも知れません。
他者の言葉や、自分の思い込みや誤解や、受け取り方の歪みによってそれを刺激し、我慢の限界を超えて暴力的人格が筆頭に立つと言う事があるかも知れません。

しかし、平常時のあなたは、穏やかで普通なのです。
平常時のあなたは、何処にいるのでしょう。

それを見つけて下さい。

自分が怒りに燃えているとき、怒っている事に気づいていますか?
怒っている自分と、それに気づいている自分の二つがあるのを気づいていますか?

相手を殺しかねない程怒っていても、「今怒っている自分がその余り事に及ぼうとしている」と冷静に見ている自分があるのです。
それが、胸の位置にいつでも落ち着いていて、穏やかな時は分離せずそこにいるはずです。

それに気づけるでしょうか。

怒りのその時に、その冷静な自分に気づきさえすれば、怒りはそれに下り沈んでしまいます。
怒りとは、怒りと言う気の頭への昇りなのです。
見破る者がいて、見破られているとそれが気づけば、下って沈むしかなくなります。
「気を沈める」とは、そういう事です。

胸にある自分に気づいてください。
それ以外は全て、思考作用なのです。
その自分は「わたし」という意識が及ばないから気づけないだけです。

エゴと呼ばれる自我も、「わたし」という意識も、全て思考なのです。
それは、現れては通り過ぎるものです。

胸にある、冷静な自分だけが、いつも変わらずある自分で、それは通り過ぎるものではなく、いつもそこにあります。
それが、拠るべき真我へと通じているのです。

それに気づけないから、空虚で寂しくて、しょうがなかったのです。
愛に気づけなかったのです。
しあわせに気づけなかったのです。
大好きな人を、独り占めしたくてもできなくて、憎らしかったのです。

いつもそこにいてください。
まずは、そのように訓練してみてください。

ドクターに診察してもらえば、境界性人格障害とか、統合失調症とか診断されるかも知れません。
薬を処方してもらうのもいいでしょう。
だる重い、ボーっとした生活になりますが、激情性は緩和されるでしょう。

しかし、病気と普通とに、大した違いは無く、みんながみんな、そうなのです。
もっと自分に自信を持って暮らして頂きたく思います。

普通の人と、なにも違ってはいません。

また、悟りをそれからの逃避に使ってはいけません。
別な何者かになろうとしてもいけません。

悟りなど無くひとつひとつ気づいて行く毎日の連続があるだけです。

いつか悟ったらどうにかなるなどと、未来に希望を抱いていたら、いつ「今」に帰ってくるのですか。
今起こる事、起こっている事に、学びがあるのだと思い起こしてください。

与えられた自分の人生を否定しないでください。
それを生きて、はじめて与えらるのが、目覚めです。
体験しない事には、知る事ができないからです。

まず、自分の人生を生きない事には、はじまりません。

否定も肯定もなく、受け入れて生きてください。

ご主人もサポートしてくれるでしょうから、赤ちゃんも愛せます。
素敵なママになれます。
自信を持って、胸を張って生きて行きましょう。

 

 2014-04-19

 

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