わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「境界性人格障害・2」

Kさんからの質問です。

> 久しぶりに質問させていただきたいのですが、
以前にもお話させていただきましたが私は境界性人格障害です。

慢性的な虚無感や自殺念慮、無力感に支配され、働きもせずに借金を重ねながら毎日をだらだらと過ごすだけの日々を長いこと送っています。
仕事や人間関係も続かず、苦しくなって裏切るように一方的に絶縁してしまった人たちのことを思ってまた苦しくなったりします、自分でも本当にバカだと思いますが。

昔は自分をこんな人間にしたのは自分を虐待した両親だと思い、怨みに思う気持ちが強かったのですが、最近ようやく昔と比べればずっと許せるようになってきて、関係もかなり良好になってきました。
それでもいまだに父親に踏みつけられたり母親に裏切られる夢を頻繁に見て目覚めたりするので、やっぱり意識の深いところではまだ許せていないししこりがあるんだろうなーとも思います。

また、本当に幼稚でお恥ずかしいのですが、日頃ひとりで暮らしていてもちょっとパソコンの調子が悪くなったり思い通りにいかないことがあると、すぐに激しい怒りが込み上げてきて口汚い罵詈雑言を吐き捨てながらパソコンをぶっ叩いたりしてしまいます。

自分に奥さんや子供がいたりしたら絶対怒鳴ったり罵ったり暴力を振るってしまうんだろうなと思うと本当にぞっとします。
もちろんなので誰とも親密になる気はありませんが。
そのくせ毎日寂しくてどうにもならなくなったりもします。われながら本当にどうしようもないやつだなと思います。

私にはしあわせがわかりません。もちろんおいしいものを食べたときや、面白いテレビを見て笑っているときなど、悪い気はしないしその程度のしあわせであれば感じることもあるのですが、人生のしあわせというのはこんなものなんだろうか?と思ってしまう気持ちもあります。

いつまでもこんな借金生活で死んだみたいな毎日が続くはずもなく、お金を稼がなければと思うのですが、いまいち生きること自体にモチベーションがわかず、どうしてもめんどくささや怠け心に負けてお金を稼ぐことにも真剣になれません。
本当にお金があればしあわせになれるんだろうか?とか考えてしまいます。

下手に昔から悟りに憧れが強かったせいで、「本当のしあわせはこんなものじゃないはずだ」という幻想を強めてしまい、今あるしあわせを十分に認められなくなってしまっているのかもしれません。

しかしそれにしても、花岡さんが常々おっしゃられているような愛が私にはわかりません。
それさえわかれば私もしあわせになれるのではないか、と思っているのですが、そんなのは現実逃避的な幻想でしかないのでしょうか。

私にそれがわからないのは私はまだその段階になく、まずは自分のだらしない生活を立て直す必要があるのでしょうか。
そもそもこんな自分が本当にしあわせになれるんだろうか、自分はしあわせを感じる心が根本的に壊れてしまっているのではないか?という感覚が昔からあります。
自分になにかを愛したり愛を感じたりすることが十分にできるのか自信がありません。
こんな私でも本当にしあわせになれるのでしょうか。花岡さんがおっしゃられているような愛に気づける日が来るのでしょうか。
とりとめのないひどい乱筆乱文になってしまい誠に恐縮ですが、なにか忌憚のないアドバイスやお言葉をいただければ大変ありがたく存じます。



Kさん、お久しぶりです。

こんな私でも本当にしあわせになれるのでしょうか?

だれだってその事の為に、日々を生きているではないですか。
言い直せば、誰だって幸せになれるから、存在しているのではないでしょうか。
生きているのは、その為です。
幸せになれないはずなど、無いんです。

そうでなければ、存在理由などありません。

人が究極にみつけて、これ以上のものなど必要では無いと確信できるもの、それが「しあわせ」であり「愛」なのです。

みんな、それをみつけるために悩み、苦しんで生きています。
ところが、その悩み、苦しみを知らない事には、幸せや愛など、ほんとうに知るには至らないのです。

幸せや愛は、そこらここらに、ゴロゴロと転がっています。
でも我々は、それを見る事ができないのです。

なぜなら、知らないからです。
わたしがここで、何度も何度も、学ぶ事、知る事、それが大事だと言っているのは、その為なんです。

幸せってなんだろう、愛ってなんだろう。
知った人は知ったなりに、その魅力について語るでしょう。

でも知らない人にとっては、それはもう、夢のような事に思えてきます。

しかし我々は、潜在的にそれを知っているのです。
それがこの「わたし」、自我のレベルまで届いていないだけなのです。

どうすれば、自我のレベルまでそれを知る事ができるでしょう。

それを知る為に、逆の事が事が起こってきます。
我々は、逆の事から真実に気づくように出来ています。

悲惨な戦争を体験するから、平和の尊さが知れるのです。
誰かに心を傷つけらて痛みを知るから、人を傷つける事の罪深さを知ります。
災害でライフラインが止まるから、普段気にも留めない水の有難さを思い知るのです。

あなたはご両親の虐待によって、暴力を知り、憎しみを知り、悲しみを知り、痛みを知り、怒りを知り、そしてまた、あなたもそのような事をしたかも知れません。

しかし、あなたがそうしたのは、あなたの訴えだったのではないでしょうか。
暴力を受けるという事は、こんなに辛い事なんだぞ!と訴えるために、暴力を発動したのではないでしょうか。

一度発動した暴力は、怒りによって容易に再現されてしまいます。

肉体的暴力に対してだけではなく、言葉や態度による暴力、理不尽な事への訴えとして、それを使ってしまいます。

それは、受ける辛さの他に、加える辛さをも思い知る事になります。
受ける辛さを知っていながら、加えてしまうその辛さ。

そこであなたは、気づけたでしょうか。

あなたが欲していたのは暴力ではなく、人としての優しさ、思い遣り、ご両親の愛情、温かさ、穏やかな日々、笑いあえる日々、そのような事。

ほんとうはご両親も、自分達が幼い時から望んでいたのは、そのような事だったはずです。

ご両親とあなたは、同じ辛さ、痛みを持っているのです。
そしてまた、ほんとうに望むものも、同じです。
虐待しながらも、ほんとうは心の底では、申し訳なく思っていたんだと思います。
声に出さずとも、何度も何度も、あなたに謝っていたに違いないのです。

あなたはご自身の辛さを味わった。
そうであるなら、ご両親の辛さも、わかってやれるはずです。

あなたは、「許す」という事に言及していました。
許したから、関係が改善されたと言っています。

許すというのは、受け入れるという事です。

自分がそうして欲しい事を、相手にもしてあげる。
与えるものが、受け取るものだからです。
あなたが許すなら、あなたも許される。

また、許すというのは、こころのわだかまりが溶解してしまう事でもあります。

怒りを抑えるというのは難しいかも知れないけれど、人とはそういうものだから許してあげようと思うなら、怒りもどっかへ行ってしまいます。

許す事は、自分を平常に連れ戻す事なのです。

許せるなら、落ち着いた自分で居られます。
落ち着いた自分で居るなら、どうでしょうか、自分の中に思い遣りや優しさや、謙虚さや、いろんな素晴らしいもので満たされているのを見つけられるのではないでしょうか。

許せる喜びを知る事ができるなら、それは愛を持っているという事です。

許す事は、愛なのです。
許すとき、なんとも言えない喜びや、小さくても満足感や安定感が湧いてくるのを感じないでしょうか。
それはあなたの中にある、愛が振動しているからです。

それだから、許すという事は大事です。
自我の、へこみの部分を、ふくらましてくれる魔法です。
出っ張った部分を、平らにしてくれる魔法です。

許す事ができる自分、それは自信をもたらします。
もう怒る必要がありません。
許せるからです。

今、あなたは、「許せない事」を味わい知って、逆の「許す事」の尊さを学び知ったのです。

そうであるなら、自分をも許してください。
あなたは間違っていない。
みんな気づくまではそうなのです。

あなたは、許せるという、素晴らしい愛を持っているのです。
およそ愛のうちで、最も尊い愛は、許せるという事です。

それに喜ばなければなりません。
自分のハートが、そのようなもので出来ている事に、気づかなければなりません。
ほんとうは、あなたは愛そのもので出来ている事にきづかなければなりません。

それは欲や執着による愛、すなわち所有とは違う、尊い愛です。
真実の愛です。

そこから幸せというものも知って行きます。

おっしゃるようにお金があるから幸せなのではありません。
もう気づいているかと思いますが、真実の愛を知る事こそが幸せなのです。

それは買えるものではなく、気づくものです。
何かの見返りに使えるものではなく、それはもともと、あなたの中にあったのです。

「許す愛」、これがあなたに発動されました。
この事を、大切に大切に思ってください。
忘れる事無く、それを拠り所としてください。

やがて、全てを愛する者となるでしょう。

あなたがそうするなら、わたしは、あなた以上にそれについて喜びます。


(何も出来ない事について)

何も出来なくても、大丈夫です。
みんな、ほんとうは何もしたくないんです。
それは当たり前の事です。
人は基本的に、めんどくさがるものです。
だから出来なくても自分を責める必要はありません。

それでもみんな、出来るのは、「やりたくない」を思わずやるからです。
「やりたくない」を思わずやって、出来る楽しさを味わうからです。
出来る楽しさによって「やりたい」が出てくるのです。
それだから、達成感や充実感も味わえるのではないでしょうか。

仕事をするなら、なにも思わず、やってしまう事がコツです。
やってしまえば出来てしまいます。

「やりたくない」を我慢して、その思いを持ったまま仕事するから続かないのでしょう。
それはストレスにならないはずがありません。
思わないで、ただやれば出来るんです。

思わないでやる。
これを、実験してみてください。


あまり役に立つ事は言えなかったと思いますが、勘弁してくださいね。

 

 2014-04-29

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「賢者が授けるもの」

非公開さんから頂いた質問です。
順番に掲載していたら、とんでもなく遅くなってしまいました。
ごめんなさいね。


> はじめまして、深い言葉をいつも楽しく読ませて頂いております。

以前から気になっているのですが…
私は、パパジやムージの動画が好きで、よく観ています。
それらを観ておりますと、何かを得て笑い出す人たちが結構います。
この方達には、何が起こっているのでしょうか?
一時的な体験なのでしょうか?
目覚めのはじまりなのでしょうか?
完全に目覚めたのでしょうか?

それから、もうひとつ不思議に思うのは、
私の知る限り、サットサンの同じ場所で、同じ話を聞いている周りの人たちが、
何かを得て笑い出すようなことが無いように思われます。
覚者が、直接話をする人に対して、
なにか共鳴(共振?伝染?)のようなことを起こしたりすることが可能なのでしょうか?
それが恩寵と呼ばれるものなのでしょうか?

お忙しいかと思いますが、もし機会がありましたら花岡様のお話をお聞かせください。
公開していただいも結構です。



動画のいくつかを見てみましたが、そのような場面はありましたね。
ですが、実際にその場に居合わせた事も、直接パパジやムージとお話をした事もございませんので、よくわかりません。

わからない事をわかったふりをして語るのもどうかと思いますので、ほんとうはこの質問は辞退致したく思いましたが、せっかく質問頂きましたので、あくまでも推測ですが、たぶんそうではないだろうか?というところを言ってみます。

例えば、小学校の教室。
悪ふざけが過ぎた児童を、先生がたしなめる光景。

先生は正しい事を伝えようと、その子の眼を見て話します。
お説教されてる児童は、自分のした事だから、とりあえず受け止めるでしょう。

そのとき、他にも児童が大勢いるにも関わらず、そこは二人の特別なフィールドになっている事でしょう。

他の児童は、あくまでも観衆であり、自分は関わっていない、つまり当事者の立場ではないと思っているでしょう。
他人事(ひとごと)として見ているのです。

しかし、先生とその子には、1対1の空間。

先生は言葉と意識の多くを、その子のために伝えようとします。
その子は、この場面はバツが悪いと思いながらも、真剣に聞かざるを得ません。

このシチュエーションが、とても大事だと思うのです。

周りに何人居ようが、1対1なのです。

同じパパジの話を聞いていても、周囲の人と、向き合って聞いている人は受け方が違うのでしょう。

その人のために、師は意識を言葉に乗せて、誠意を以て説いているのです。
向き合って聞く人は、自分のために説いてくださる、のであれば、一言も聞き漏らすまいと真剣になるでしょう。

講演会などで話を聞いても、あまりよくわからない場合が多いと思います。
CDとかで聴いてるのと、大差ないほどかも知れません。

師が弟子に伝える時は、1対1でなければならないと思うのです。
それは、どうしても真剣でなければならないからです。
その時、言葉に乗せた意識も受け取れると思うのです。

そうであれば、説かれる話の途中で、それはまるで一瞬の閃きのように、「あっ!そうか」が現れます。
「わかるちから」が働く瞬間があるのです。

あの突然の笑いは、その時の感動やら驚きによる笑いのような気がします。

パパジが、「あなたはどこにいますか?」と言えば、自我とは違う、思考や想念とは違う、それから離れた静寂な場所に気づいてしまう瞬間が現れるのでしょう。

わかっている者が、このわかっている意識を乗せて、言葉を送るから受け取れるのではないでしょうか。

わかっていない者が、同じ事を言っても、たぶん「う~む・・?」となるのではないでしょうか。

確信というパワーの差かもしれません。

意識の輻射、それが1対1の場合、指向性が強くなり、送り手と受け手は意識で繋がりやすいと思われます。

しかし、それはその時何かがわかったとしても、時間が経つにつれ、マーヤにかき消されて行くかも知れません。
あの時のあの感覚は何だったのだろう、みたいになって思い出そうとする程にマーヤの干渉を受けていくでしょう。
なぜなら、自我に住んでいる「わたし」の立場を離れない限り、そこはマーヤでしかないのです。

目覚めたのではなく、揺すられた、状態であり、それが恩寵なのではありません。

共鳴とか共振とか言えるかどうかは、わたしにはわかりません。
そのような言葉を使う方がいらっしゃいますが、わたしには何を言っているのか実はわからないのです。

わたしの見解は、そんな事は全く関係なく、伝えられるし受け取れるのでしょう、と言う事です。
互いの意識の同化、あるいは同一化のような、現象と言いますか作用が働く、言ったら意識同士が握手したような感じです。

恩寵は外の師から与えられるのではなく、内なる師、内なる真我によって、自身の在り方、変容の状態によって受け取れる状態になった時、与えられるものです。

またそれは、欲しいから与えらるのではなく、いらなくても与えられてしまいます。
そしてまた、欲しい人にはどうしても欲しいを捨てない限り、与えられません。

小さな利己的な欠片も残さず、浄化され、純粋な者、真っ直ぐな者、天真な者、許せる者である事が必要です。

また恩寵の喜びは、もっと違うと思います。
喜びと感謝に、ハートが震えて、泣き出さずにはおれなくなるし、笑わずにはおれなくなります。

「ここ」がわかるし、「ここ」にいつでも居たくなります。
身体の事は身体にまかせ、自我の事は自我にまかせ、自分は「ここ」に居る。

身体を失って後も、自分は「ここ」に居る。
ここが在る。
在るここに、いつも居る。

「ここ」に居て、世間を見ると、自我たちの日常、その見え方がまるで違うような感覚です。

それはまるで、違う生き物になったような気さえします。
というか、あらゆる生き物を、人間とか犬とか鳥とか虫とか分けて考える事が無く、自分もそれらも同じように命を生きる生き物として、分け隔てなく思ってしまい、尊敬さえできます。

名前を付けてラベリングするのが、とても不思議な行為に思えるのです。

どんな命達も、愛おしく思えるのです。

恩寵、それはやっぱり、明け渡してしまわない限り、頂く事は出来ないのだと思います。
別に言えば、明け渡しができさえすれば、誰だって恩寵が頂けるのだ、と言う事です。

また、やがてはそうしてしまう場面に、出くわしてしまうでしょう。
そういう流れになっているのでしょう。

だから、結局は、誰だっていつかは真我に帰るのです。

いつかは、です。

でも、確かです。

 

 2014-04-26

 

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「人生に意味はあるか

> 花岡さん、こんばんは。
私の場合はーただ見るーということは把握しています。
それはただ見るということで、ただあるということだけです。
ラベル貼りを止めて静かになれば誰にでも分かることだと思います。
たまに自我の中に本当に突入してしまうと、それはこの前のように愚痴のオンパレードになってしまいますが、やっと完全に抜け出して来ました。
来るに任せ行くに任せですね。
最近はただ生きていれば良いんだという心境になって来ました。
私の質問は「自我のこの人生って、本当に意味があるの?」っていうことです。
必要だから与えられてるってことみたいなんだけど、やっぱりどうして?、またいつまでこんなことしているんだろうって思ってしまいます。
早く自由になりたい気持ちです。


Pさん、お久しぶりです。

早く自由になりたい、その自由と言うのは、自我からの自由でしょうか。
人生からの自由でしょうか。

自由になる方法は知ってるけれど、できないんですよね。
今、できる事だけど、まだ手放せない。

喩えて言うなら、物を捨てられずゴミ屋敷化してしまった住人、彼は捨てるにも未練があり、かといって役に立つあても無かったり、という状態でしょうか。

断捨離とか、ときめく片付けの魔法とかが、ブームになっていますが、そのようなちょっとした視点の変え方もあっていいかも知れません。

早く自由になりたいというのは、「自由ではないから」なんですね。

自我、人生、に不自由を感じていて、つまり、日々起こる事に反応し、嫌だとか、しんどいとか、思考や思いが起こってしまう。

こうであったらいけない、ああであったほうがいい、という理想を思い描いてはいないでしょうか。
その時、絶対「今」にはおらず、思考の夢にはまっています。

明日への理想は、今日の否定です。
未来への希望は、今への不満です。

あなたの中に、「今、不満がある」事を気づいているでしょうか。

満たされていないのです。

それは、喜びが見いだせないからではないでしょうか。

喜びが見いだせないにも関わらず、「ただ生きていれば良いんだ」というのは、事実納得しておられるでしょうか。

「ただ生きていれば良いんだ」というのは、究極的に事実です。
しかし、それはそのように、絶対的な確信を持てる「理解」が起こる時にはじめて、そう言えるのです。

言葉は鵜呑みであってはいけません。
ほんとうにそのとおりだったと言う、内側からの否定しようの無い納得があって、やっとその真実に辿り着くのです。

言葉の暗示にかかる必要はありません。

こうだから不満に思っている、ああだから今が嫌いだ。

こうだから、ああだから、という理由は、真実正当な理由でしょうか。
それは、自我の思い込み、尺度、いつの間にか刷り込まれた価値観で判断してはいないでしょうか。

起こってしまった事、起こりくる事、今起こっている事、それにどんな間違いがあるのでしょうか。
間違いだとする根拠は、利己的なものでは無いと言い切れるでしょうか。
間違っている事を、我らの根源は、示されるのでしょうか。

間違っていないから、他の事が、他の人の事が、森羅万象が、間違いなくそれに準じて整合されて全部が動いて行くのではないでしょうか。

自我は確かに、それらを嫌がっている。
別の代替を欲しがっている。

自我とはそういうものです。
それも間違っていると断定しないでください。

自我はそのようにして、嫌いながら、欲しながら、好きになりながら、所有したがり、蔑視したがり、意味づけたがり、断定したがり、裁きたがって、それでその役目をしているのです。

人生とは、まさに自我の活躍する自我の世界なのです。
そのように、我らの根源は、組み立てられました。

しかし、真実のわたしと言う者は、自我ではありません。

それはそれは、愛溢れる、慈しみに満ちた、輝く存在です。

自我は、なんだかんだ言っても、しっかりと自分の役目をしていて、神に忠実であるとさえ言えます。

さて、いつもその自我に気づいているでしょうか。
人生をけん引しているのは、彼です。
彼あっての人生です。

彼がある意味、汚れ役を担ってくれて、我々は学び知る事が出来ているのです。

そうであるなら、あなたは、あなたの自我を愛おしいと思えないはずがありません。

そういう自我であっても、否定も嫌悪も無しに認め許してあげてください。

本来、悪いも善いも、解釈は意味づけであり、思い込みであり、それによる断定です。
チャチャッとラベルに書き込んで、ペタッと貼っているだけです。

自我であるあなたの中の「わたし」でさえ、根源の意図した組み立てのとおり、逆らわず役目をこなしているのですから、ましてや本性のあなたは根源の意図を汲み取れないはずが無いではありませんか。

根源は自我の織り成していく幻を見せる事で、あなたが自我から本性に気づく事を、「愛のまなざし」「慈悲のまなざし」で見ているのです。
体験して知って行く、その知る喜びと、知らなかった真実の愛を知る喜びと、わたしとはほんとうは強い慈しみを持つ者だったのだと知る喜びと、全てが何も間違っていなかったと気づく喜びと、いろいろな喜びを、あなたが味わってくれる事を辛抱強く待っています。

もちろんこれは、この世的な言い回し、つまり方便ではあります。
でも、言葉を使うなら、こうしか言えないのです。

言葉の及ばない世界の事です。
あなたに内在している高次な感性で汲み取ってください。

そして質問は。

> 「自我のこの人生って、本当に意味があるの?」っていうことです。
必要だから与えられてるってことみたいなんだけど、やっぱりどうして?、またいつまでこんなことしているんだろうって思ってしまいます。


意味のない事が、在る理由はあるでしょうか。
意味のない事が、起こり得るでしょうか。
意味こそが、原因です。
意味が現れたとき、意味が成就されるべき現象が起こり出すのです。
(ここは、深く洞察してみてください)

我々は勉強する為に学校へ行ったはずです。
学校へ行ったから勉強するはめになったのではありません。

我々はコンサートを楽しみたいから会場へ行ったのです。
会場へ行ったからコンサートに出逢ったのではありません。

我々は、有意義な大意の故に、人生を体験する意思(自我)を持ったのです。

大意とは、我々の共通の、あの根源の「みこころ」

現れるまま、あるがまま、それは大意にとっても我々にとっても必要だから現れ来るのではないでしょうか。
我々の活動が、そのまま根源の活動なのではないでしょうか。

その活動源は、「真実の愛」。

我々が、それに気づき、それ自体である事に気づきさえすれば、「みこころ」は成就されたのです。

我々は有機体ではなく、物理現象でもなく「それ」であるけれど、あの「在る」と「同じ在り方」をする同じ「在る」であるけれど、「在るが在るで在る事」によって、「我々も在るも在るたらしめる事のために」、この活動(人生という夢見)をしているのではないでしょうか。

いつまでという事もなく。
わかってしまえば、いつまでという事もなく。

それは突然、そうなります。

どうすればそうなるか、それはどうしたって、全部根源にお返しする覚悟しかないのです。
恐れる事無く、明け渡して、根源に面倒みてもらってなんとかなるしかないのです。

これが、なんとかなってしまうから、喜びが湧いてくるのです。
それだから、感謝でいっぱいになるのです。
この根源、神の愛ってほんとうに素晴らしいなって、強く納得できてしまうのです。

それを味わっているうちに、わかってしまいます。
わたしなんかが、このようにうだうだ言うのを読む必要も無く、わかってしまいます。

なんとかなる。
なんとかならずに、死んでしまってもいいと思わないといけません。
死んでしまってもいいから、それに全部明け渡すのだと、覚悟して、そうしないといけません。

言ったら、なんとかなるという思いさえ起こさず、根源の中に死んでください。

それが、完全にそう成されているのであれば、恩寵が降ります。

ここまで来れたのですから、もうすぐです。

みなさんも、もうすぐなんです。

わたしはとても、楽しみにしています。

「全部明け渡す」これだけです。

これだけで、「それ」に逢えるんです。

それでも、まだ、そうしたくない。

未練が残る。

それはまだ、「体験しなさい」と、根源が言っておられるのです。

 

2014-04-24

 

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