わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

道・その尊さについて 花岡修平 「真我が目覚める時」

道・その尊さについて

 

誰であろうと、自分が歩いているその道が自分の道であって、

それ以外の道があるのではありません。

 

気づかないかも知れないけれど、その自分の道こそが、神の道であり、

仏の道なのです。

 

自分の道は間違っている、自分は道に迷っている、

そのように思うかも知れない。

 

それでも歩くべきが、その道であるから、歩いているのです。

 

その道以外に道は無く、どのような道を思い浮かべたとて、

別の道は見えては来ない。

 

その道は、道の態さえ成してはおらず、険しく、またぬかるんで、

歩くのには難儀を強いられる、耐えがたい道かも知れない。

 

それでも、それは自分の道であり、その道を歩くように

定められているのです。

 

時には択一を迫られる。

 

二差路、三叉路、多岐路、そこで歩みを止めて、どれかを選ぶ。

 

選んだ結果に、落胆するかも知れない。

 

それでも、その選択しかできなかったのだと、

知らなければいけないのです。

 

それは、自ら選択したと言うだろうけれど、

どの選択であろうが、導かれたのです。

 

その体験が必要だから、そのように導かれたのであって、

それはそうなるようにしか準備されていなかったのです。

 

どの道を選んでも、苦しく、辛く、悲しい道。

 

他の人の道を見ては、そのなだらかな、綺麗に舗装された道に見えて、

自分の運命を呪い、嘆き悲しむかも知れない。

 

しかしそれは、ただそう見ているに過ぎないのです。

 

真実彼の道が、平坦で、楽に歩けて、苦しみの無い道であるなら、

彼は何も体験していないのです。

 

そうであるなら、何も知る事も無く、無駄に生を費やしているのです。

 

険しい自分の道を、嘆き悲しむ事を止めて、よく観て見なければいけない。

 

それは、知る事が出来る道なのです。

 

楽を楽しんでいて、どうして知る事ができましょうか。

 

どうして目的地に辿り着けましょうか。

 

険しいその道を、受け入れるのです。

 

分岐で選んだ道を、受け入れるのです。

 

苦を苦としているその、価値基準を、尺度を、思い込みを、

意味づけを、見直すのです。

 

苦を苦としているのは、自分の都合に合致しないという、

葛藤が作り出している事に気づかなければいけません。

 

自分のエゴによる理想が、利己的な自己保存が、

それを生み出している事に気づかなければなりません。

 

足りているのに不満を言うエゴが、他者より蓄えたいと言う貪りが、

それを主張しているのです。

 

倉に蓄えられる宝は、心の中に蓄えられる宝ではない。

倉に蓄えられる宝は、朽ち果て、自分のものとはならない。

心の中に蓄えられる宝だけが、あの目的地まで持って行ける自分の宝なのです。

 

一切の我欲、利己的な保身を離れて、自分の道をよく観るのです。

 

今まで苦としていたその苦は、エゴが定義した誤った意味づけ

である事に気づくのです。

 

今、自分の道を、これでいいのだと気づく事が、自分に自分が課した

第一の気づきです。

 

足りていればそれでいい。

 

利己的な貪欲を離れた時、それがわかる。

 

それを気づくための、自分の道なのです。

 

それがわかったとき、振り返ってごらんなさい。

なんと、この道が、慈愛に溢れた有難い道であったかを知るでしょう。

 

誰もが、自分の道とは、そういうものです。

 

受難の道が、イエスの道。

裏切りの道が、ユダの道。

 

それでも、どちらも、それぞれがそれぞれの道を歩んだ結果が、

あのようにそれぞれの成就を見たのです。

 

つまり、ユダの裏切りは、イエスの誓願を成就するための

不可欠の道だったのです。

そうであるから、ユダはイエスと共に、並び称されて当然なのです。

ユダは神によって救われたに違いありません。

それはユダがその事によって、イエスの成就を救ったからであり、

それが自らを救うための道に他ならなかったからと言えます。

 

これを知る事の無い人は、ユダを忌み嫌うでしょう。

それは、自分の道を肯定しない人であり、全ての道は神によって用意された

という真実を受け入れられない人なのです。

 

誰も、自分も、何も、咎める(とがめる)事なく、裁く事なく、

大きな器で、あるいは小さな器でも、その器の中を、条件の無い愛

と慈悲で満たすなら、その先の道は真実平坦な、歩きやすい道となるのです。

 

この理(ことわり)を知っておきなさい。

 

やがてまた、分岐が現れます。

 

その先に、光明が見えてくる事でしょう。

 

自分が自分の道を歩いていて、何も間違いはない。

自分が歩けるのは、自分の道だからであり、自分の道以外は、

歩きようがないのです。

 

それだから自分の道(探究の道と関わってくる日常)を歩き、

他の道(世俗、関わっていない日常)に、

自ら関わるのは控えたほうがいいのです。

そうでなければ、自分の道を観るのを、忘れてしまうでしょう。

 

あなたにはわからなくても、神はいつでもあなたと共にいます。

それは、あなたが在るからです。

 

自分の道を嘆き悲しむのではなく、苦とするのではなく、

その苦を楽しみながら歩けるように、しっかりと観るのです。

道の傍らに、中央に、ここにも向こうにも、愛が溢れ、

神の臨在が満ちているのを観るでしょう。

 

あなたは、真実、神の子なのです。