わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

知識は何の役にも立たない 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Sさんが、また、保存されていた記事を送ってくださいました。Sさん、ありがとうございました。

 

 知識は何の役にも立たない

 

悟りたいと思うと、あれやこれや知識をかき集めようとします。
いろんな本を読み、学者さんの講演会に出かけ、なにか徳を積んだような気になるかも知れません。
当然、知識は増えていくでしょう。
宗教学者や、仏教学者に負けないほどになれるかも知れません。

でも、そこに理解があるでしょうか?
学者さん達でさえ、理解してない知識かも知れませんよ?
ところが人は、
理解は無くても、知識さえあれば役に立つと思ってしまいます。

それで悟れるなら、悟った人でいっぱいになってしまいます。

知識は弊害です。
知識を持っているという慢心が、なにかこう、無意識に自分を特別な者とします。
そこで、知識を持たない人の前で、ひけらかしたくなります。

虚栄です。

尊敬されたい、賛美されたい、一目おかれたい。
そんな負の想いが、増幅されていくだけです。

あるいは、悟りたいと思うそれも、負の想い故なのかも知れません。
そういう事にさえ、気づかないでいます。

そういう人は、たぶん、論争が好きな人かも知れません。

論争は、虚栄と虚栄の戦いです。

そのようであるならば、悟りは永遠に無いと言えるでしょう。、

知識で悟るのでは、ありません。
伝承で悟るのでもありません。
作法や、戒律、仏具仏像神像曼荼羅、ご本尊、十字架、祭壇、社寺、
そのようなもので悟れるなら、
なぜ、悟った人に出会えないのでしょうか?
なぜ、自身が悟れないのでしょうか?

そのようなもので悟れるなら、石を投げたら聖者に当たるはずです。

人の発明品では、絶対に悟れないのです。

では、悟りに必要なものって何でしょうか。

何も必要ありません。
何もあってはいけません。
何も無い状態にならなければいけません。

何も無いから、「あるがまま」なんです。
「あるがまま」であるから「あるがまま」に気づけます。

ただ、知識を持たないバカになって、
ただ、知識を知らない幼子になって、

源泉への、清らかな、純粋な憧れだけが必要です。

欲からのそれではなく、純粋な憧れです。
源泉と引き合う、本性からの呼応です。

技術も、修行も、努力もいりません。
それは、あってはいけない物を、手放しません。

自我が作り出したものから、手を引くべきです。

手を引いたなら、

感覚してください。
それは言葉の領域を超越しています。
思考が、自我に引き戻そうとしても、自我の事は自我にまかせておけばいい。
感覚する座を、
その胸に置いてください。

何も無い、「あるがまま」でそこに留まるなら、
「それ」が開きます。

ただ、清らかな、純粋な憧れが必要です。

 

2012-03-13