わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

死んだらどこに行くの? 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。コメント欄での読者とのやりとりが非常に興味深いので付け加えておきました。

 

死んだらどこに行くの?

 

「死んだらどこに行くの?」 時々、こういう直球を投げてくる人がいます。

 

答えは、「どこにも行きません」としか言いようがありません。

 

もともと誰も生まれてなどいません。

誰も死に行く者でもありません。

 

あなたはいつでも、「ここ」にいます。

 

寿命は既に、あなたの物語に書き込まれています。

その時が来れば、老化や病などで身体に変容が起きてくるか、

あるいは、突然の事故などによって身体が機能しなくなってしまうでしょう。

 

それじゃ嫌だと拒否しても、そうなります。

命は、そのように運ばれます。 運命は筋書き通りに流れて行きます。

 

どのような亡くなり方であっても、

だれでも、寿命で亡くなるのです。

 

それでも、あなたの本性、本質はどこにも行きません

無になる事もありません。

そのような事に恐怖を抱かないでください。

 

その時、他の人にはあなたの身体が、動かない物質のように見えるでしょう。

あなたが作り出していた世界と、他の人の世界との意識の交差が絶たれるので、そう見えます。

 

あなたにとっての世界はもう終わっていますが、他の人の世界はまだ続いています。

もしも目に映る世界が真実としてひとつで、70億人に共有されているものであるならば、

あなたにとっての世界が終る時、だれの世界も終わる事でしょう。

それなのに、あなたが死んだとて、他の人たちの世界は、それぞれ存続し続けます。

 

そういうわけで、世界はそれぞれの意識に映し出されている幻だと言うわけです。

世界の中にあなたがいるのではなく、

あなたの中に世界があるのです。

 

あなたは自ら映し出した世界で自ら悩み、楽しみ、苦しみ、愛し合い、人生を学んでいるのです。

そういう物語を、選んで経験しているのです。

 

身体から離れたとて、なにも変わりません。

あなたの本質、実体は、いつだって「ここ」にあります。

その「ここ」が真我です。源泉です。

 

しかしながら、身体を離れたら即、真我に気づくかといえば、そうでもありません。

 

自我意識は、エナジー。 マーヤがそれを支えています。

身体を捨てても、存在しています。

それは、その後も、世界を創り続けようとします。

 

さて、ここから先のお話は、イメージです。

ひとつの考え方のモデルです。

真実かどうかなど、どうでもいいのです。

ただ、考えるための、あくまでもひとつのモデルです。

 

それだから、その自我意識は、身体を離脱しても他の身体をもった意識と交流しようとします。

それで、かつての自分の動かない身体を見るでしょう。

同時に、自分の自我意識が創り出す死後の自分の身体も見るでしょう。

 

その違和感に、自分は死んだのか・・・と知るのでしょう。

それでもなお、自我意識は世界を創りだす癖を止めません。

 

そうして、過去の記憶から、知識を探し出します。

知識の中には、三途の川のようなものがあるかも知れません。

それをみつけた瞬間、あなたは三途の川の岸辺に立ちます。

そこまでしか知識が無い人は、そこでなにかしらに向って導きを求めるかも知れません。

 

あるいは、三途の川には三つの橋があり、生前の行いによってどれかの橋をわたるのだと、

そのような知識をみつけた人は、それを渡るかもしれません。

 

いずれにしても、その川を見るのは、日本人だけです。

外国の人は、それぞれ別の知識を探し出し、それを見るでしょう。

 

自我意識に世界を創る癖が、かつて得た知識のとおり、淡い世界を作り出すのでしょう。

 

そうして、お花畑や、石ころだらけの荒野や、あるいはとんでもない世界を創りだして、

そうやっているうちに、ある時、自我意識に新しい有機体が組織化され、

あなたはそこに入り込むかも知れません。

 

あたらしい物語を選択したのです。

そうやって生まれるという、夢を見始めます。

そういうサイクルは、自我意識とは違う、ほんとうの自分に気づくまで行われるのでしょう。

 

その気づきは、自我意識に身体や、世界が現れていないと、

つまり、この世界に生まれ、生きている状態でないと気づきにくいのです。

この世界だから、自我と真我のくっきりした相違を見て取れるのです。

 

ですから、もしも、あなたが瞑想をするなら、どうぞ眼を開けたまますることです。

自我が見る世界と、真我に気づいている自分と、そのはっきりとした相違を感覚し、

真我にフォーカスしていく事が、大事なのです。

 

世界を失った自我は、好き勝手な世界をあれこれ創り出し、

それはそれで自由なように思えますが、

マーヤの計算され尽くした統率を得難いのでしょう。

 

それで、再びマーヤの導きである新しい物語を、選択させられます。

 

身体をもったまま気づくのであれば、

それは知るべきを知り尽くして、再び物語を選ぶ必要はなくなるでしょう。

 

即身成仏以外に悟る道は難しく、

その完成は極めて希であっても、

いずれは、だれにも訪れます。

 

とてつもなく長い年数がかかる?

大丈夫。 時間は、存在しません。 いつだってあるのは今です。

 

しかも、近年は、そのような人が多く出ています。

これからさらに、気づきの連鎖は進むでしょう。

 

以上は、あくまでも、考え方のモデルですので、

信じる必要はないし、信じたらいけません。

真実は、あなたに源泉自ら知らされます。

 

なんであれ、信じることより、わかることだけが必要です。

 

2012-03-21

 

 

 

 

[読者Y]

どんな死に方でもというのは自殺も含みますか?
 
 

[花岡] Re: タイトルなし

> どんな死に方でもというのは自殺も含みますか? 

Yさん、これ、知りたいですよね。 
でも。 

申し訳ないのですが、この質問には答えられません。 

答えられないのであれば、答えられない理由を知っても意味の無い事かと思われますが、理由だけでも要求されるのであれば、その旨お知らせください。 

「どのような死に方でも」というのは、その中にどのような何が含まれるのかではなく、人は必ず死に至ると言う不思議でもなんでもない当たり前の事として受けれなければならないと言う事を述べているのは、当然ご理解頂いているかと思います。 

どのような質問にも答える事を許されているわけではありません。 
様々な立場の人を考慮して、答えられない質問というのもあるのです。 

 
 

[読者Y]

答えられない理由だけでも教えていただけたらありがたいです。
 
 

[花岡] Re: タイトルなし

人は自殺の意味さえ明確に知ってはいないのです。 

例えば、海難事故で6人が海に投げ出されたとします。 
ある人が7人乗れば確実に沈んでしまう小さな救命ボートで助けに向かいました。 
最後の6人目を救助すればボートは沈んでしまいます。 
そんな中、自分は死んでもいいから最後のあの人を助けてやってくれと海に飛び込んで果てた人がいました。 
この人は自ら命を絶ったのです。 
これは自殺でしょうか、自己犠牲でしょうか。 

例えば、華岡青洲のお母さんは、青洲の麻酔薬が事実効力があるか、どのような副作用があるか、自ら望んで服用してしまいました。 
その結果命を落としてしまいましたが、それにより世界の医学の発展に貢献したのです。 
これは自殺でしょうか、献身でしょうか。 

例えば、虐めのグループの執拗な悪意の攻撃に逃げ場を失った生徒が、虐めをほのめかしたメモを残し、ビルの屋上から飛び降りました。 
これは自殺でしょうか、それとも虐めグループによって殺されたのでしょうか。 

例えば、ドラッグの常習者が、常用を続ければ死に至るのを知っていながら常用を続けたとした場合。 
それにより彼が死に至ったのは自殺でしょうか、事故でしょうか。 

例えば、沖縄の「ひめゆりの塔」にまつわる「自決の壕」というものがあるそうですが、いわゆる集団自決の史実です。 
自決は決して彼女たちの本意ではなかったはずですが、有事に於いて、そのようにするように指令する者がおり、そうしたのでしょう。 
そのように誘導されたのです。 
これは自決でしょうか、押し付けられ止む無くそうしたのでしょうか。 

宗教上の教義により集団自殺に及ぶ者もいれば、マヤ暦が終わったからと世界滅亡という恐怖にかられ自殺しようとした者もいるでしょう。 
これは自殺でしょうか、深刻な妄想による患いでしょうか。 

人により、解釈はまちまちです。 
どのような答えを示しても、勝手に誤解や妄想によって納得し、学びのチャンスをふいにしてしまうかも知れません。 
それぞれの価値基準に従って迷走するかも知れません。 

そうであるなら、この質問への答えは、伝えるわけにはいかないのです。 
このような時のために、恐怖はあるのです。 
恐怖は悪いものではなく、生きていくためのレーダーとかソナーのような働きをしています。 
便利な機能です。 
どうしても生かされるように出来ているのです。 
自分が行為者だと信じて疑う事が無い人たちは、恐怖の示すとおりに危険回避して生きるのがいいでしょう。 
唯一の絶対者が行為者だとわかってしまった人は、恐怖などは無く、自殺も思うことがありません。 
彼は死をも超越しているからです。 

また、自殺が寿命としての区切りの結果であるかどうかなど、たいして重要ではありません。 
記事も決して自殺が寿命の結果であるかどうかなど示唆するものではありません。 

一言でまとめれば、誤解を防ぐために答えられないと言う事です。 



[読者Y]

丁寧に答えていただきありがとうございます。 
 
 

[読者N]

生きてる間に気付かなければ、気付くまで輪廻転生を繰り返すということでしょうか? 
 
 

[花岡] Nさん

「はい・いいえ」で答えるなら、「はい」になってしまいます。 

生きている主体が、それに気づくのですから生きている間にです。 
真実の実体は、最初からわかっている事です。 

何であれ、完全に消滅する存在はありません。 
生きていなければ、生きている所以外の在り方があるわけです。 

また、ほんとうは生きているも死んでいるも、真実ではありません。 
根源から作り出された「わたし」という主体が、幻想による現実を体験したいとするうちは「体験できる」という事です。 

体験に飽きたら、つまり体験し尽くしたら、例えば何度も読んで楽しんだ小説をやっと捨てるように、体験することを終わるという事です。 

輪廻は与えられるものでも、責務でもなく、そのように望むから(世俗への執着)そうなるのです。 

 
 

[読者N]

例えば病気で苦しんでいた人が、最後の瞬間「やっと人生から解放される、 
もう人間はいいかな」と思っても、もう一度生まれてきてしまうのですか?
 

 

[花岡] Re: タイトルなし

身体、現象世界、残して行く人々と彼らとのしがらみ、それらへの心残りや、執着の一かけらさえ無いのであれば、再び母体に宿る事は無いと思います。 

しかし、その時、真実そのように解脱できるかと言えば、本人にすらわからないまま身体を離れるかも知れません。 

確実なのは、身体を持ったまま、あらかじめ執着を離れておけばいいわけです。 
そうであるなら、臨終に於いて、意識は本当の自分である真我へと帰る事でしょう。
 
 

[読者N]

ありがとうございます。では若くして死にたくないと思いながら病気や事故などで亡くなった場合、次も生まれてくることになりますよね。 
その場合性格というか個性はそのまま引き継がれるのでしょうか?(ex臆病、傲慢、怠惰、繊細、短気など) 
 
 

[花岡] Re: タイトルなし

それは引き継がれます。 
それが「わたし」の性質を形成しているのですから。 

しかし、「わたし」を見抜き、解放した分だけ魂は自由になって行く。 
人は、そのような課題を抱えながら、生きる事を体験して行くのです。 

ひとつの生で命が終わるのではなく、それは存在し続ける事の山と谷の連続。 

「わたし」の性質を解放しきるなら、その瞬間「わたし」は真我に溶け込んでいるのです。 

そうなる前の谷の部分では、「わたし」は個我に休み、やがて山の「わたし」を体験して行くでしょう。 
それは、体験しきれないでいるから体験したい、その故であって、決して祝福されない魂という事ではありません。 

ですから、何度も生まれ変わるのも尊く、解脱して真我に帰るのも同じく尊いと言えます。 
どこにも、良い悪い、優れている劣っている、そのような判断すべき理由などありません。 


[読者N]

では何度生まれても成長の見込みのない魂はどうなるのでしょうか?(ex殺人や自殺を繰り返す) 
神によって消滅させられるのでしょうか?
 

[花岡] Re: タイトルなし

成長しない魂など、ありません。 
また、神であっても消滅させる事もできません。 
彼は神から離れてはいないのです。 
また、人が彼を見る彼と、彼が自らに抱える彼は、別のものです。 
しかし、どちらも神の中から現れています。 
人にとっての彼は、人の昇華の成就に必要であり、また、彼にとっての人は彼の昇華の成就に必要です。 
そのように、完全に整合された現れ達なのです。 
なにも間違ってはいません。 
神が現す全ては、完璧です。 
人の世は、ただ現れであり、現れるからそれは無いのだと言えます。 
この事がわかるでしょうか? 
有るということは、それは無い事を意味しているのです。 
それだから有るがごとく、見えるのです。 
この不思議な、この真実を、知る人は希ですが、人の遍歴の終わりには、誰にも知られるでしょう。 


[読者N]

わたしはまだ「気付き」を得ていないので完全に納得することはできませんが、丁寧に答えていただきありがとうございます。 
これからもブログ楽しみにしてます♪ 

 

[読者M] 初めまして

「ラムサ」という本を読んだのですが、ラムサは死を迎えることなく、身体とともに高次元へ昇華したそうです。そういう人間も過去にはいるのではないでしょうか。
 
 

[花岡] Re: 初めまして

初めまして。 

過去にも、今にも、未来にも、「そうではない人」をわたしは知ることがないでしょう。 

死を迎えることなく、身体とともに高次元へ昇華する、その事を洞察してみてください。 
いろんな視点で見て、ひとつの答えを得る事でしょう。