わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

死ぬ必要などない!:質問と答え 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎前記事「死ぬ必要などない!」付属のコメント欄の中で交わされた質問と答えを2つピックアップしてみた。
 
(1)【質問者K】
花岡さん 

お久しぶりです、以前にも何度かコメントや質問をさせていただいたことのある者です。いつも楽しみにブログ拝読させていただいております。 

花岡さんにまた質問させていただきたいことがあるのですが、私には悟りへの道(というようなものがあるとすれば)には大きく分けて2つあるように理解しています(この理解というのは人の話を聞いて私なりの理解ではということです)。 

一つには禅宗などに代表にされるひたすら努力、ひたすら修行するというもの。これは方法論の具体的な内容はともかく、考え方としては私などにも非常にわかりやすく思います。 

そしてもう一つがときに努力を否定しているようにも思える放棄とか明け渡しの道です。 

自分の理解では(なにしろ自分自身ではなにもわからないので理解というか解釈でしかないのですが)花岡さんがこのブログでおっしゃられていることというのはほとんどが明け渡しについてであるように理解しております。 

そこで質問なのですが、花岡さんは努力や修行というものについてはどうお考えでしょうか? 
人によっては必要といったり、不要といったり、さらには妨げになるとまで言う人もいるように思います。
花岡さんは決定的に必要なのは明け渡しだけであって、それさえできれば一切の行や努力は必要ないとお考えでしょうか? 
それともそうはいってもそこまで明け渡すことができるために役に立つような、なにか補助線というか、そこに至るまでのはしごになるような方法はございますでしょうか? 
また与えられた人生を自殺せずに生きていくこと自体私たちにとって意味のある重要な修行だったりするのでしょうか? 

もし、決定的に重要なのは明け渡しだけであったとしても、なにか多少なりと花岡さんがおっしゃられているような愛を感じられるようになる役に立つような方法や、日々を生きていく上での心がけなどがあればぜひ参考にさせていただきたいので教えていただければ大変ありがたく存じます。 

特に努力を不要という人とは対照的に、特定の瞑想などの時間だけでなく、生活している間常に自分自身への不断の注意を心がけるようにとすすめる人もいます。 
また同じように常に公案だったり「この音を聴いているのは誰か?」と自分に問い続ける方法なども聞いたことがあるのですが、こういったことに関しての花岡さんのお考えを聞かせていただければ大変ありがたく存じます。 

お忙しい中誠に恐縮ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
 
 
 
【花岡】
Kさん、おひさしぶりですね。 

この質問から、Kさんは既に、何が真で何が偽であるかを悟っているのがわかります。 
わかるから、このような質問が出るのでしょう。 

わからない人の質問は、もっと支離滅裂です。 

これらの答えは、記事の中に既に記載しております。 
しかし、きのこさんは、他者の書いたものではなく、自らの確信に近い理解を得ているから、こういう質問になったのでしょう。 

答え合わせをする必要などありません。 

あなたが持っているその答えが、全く正当な答えです。 

修行によって、ついには尊い真実に辿り着く。 
しかし、それは結局、最後には明け渡してしまうが故の、真実なのです。 

修行によって、その修行の苦の解放から得る事の出来ない、つまり世俗に務めを持つ者は、世俗の苦の解放によって得る事でしょう。 

修行であれ、世俗の務めであれ、それを行っていると見なしているのはエゴの「わたし」でしかない。 
真実はそれを超えた所にこそ在るのです。 

それを知る為に、感情、思考、欲や虚栄を見つめ、人というものを知らなければなりません。 
またそれらが、「わたし」を護るためのエゴによって現れ来る事を知らなければなりません。 

エゴを捨て去る必要はありません。 
ただ、エゴを諦めればいいだけです。 
そのような仕組みが出来上がっているだけです。 
エゴの言いなりにならないよう、修練の日々を送ればいいのです。 

そのように日常にあっては、エゴを見つめながら暮らし、時々、エゴを見つめる目を内側に向けてやるのです。 

ハートの奥底に。 

エゴが求める一切の見返りを期待する事無く。 
心惹かれるものを所有しようとせず。 
世界はただ在れと、全てを認め許し、求めずとも与えられるものだけで満足するように生活しているなら。 

遅からず、遠からず、愛に気づきます。 

みこころそのものが、愛なのだと気づきます。 

全てが愛により成り立っている事に気づきます。 

いくらちから技で、願望を達成しようとしても、あるいは達成できたとしても、この愛がわからぬ以上、悟りになんの価値もありません。 

公案も、「わたしは誰か?」も、エゴの餌にすぎません。 

「真実のわたし、神と呼ぶそれ、愛そのもので成る真実の実体が、この胸の奥底に在る」と、疑う事無く、それによって与えられるものだけを頂き、感謝する生活をしているだけで、導かれて行きます。 

それだけで、何も持たなくても、幸せなあなたになれるのです。 
必要な時は、与えられて行きます。 
ほんとうは、世界の全てのものが、あなたのために用意されたのです。 

 

【質問者K】
花岡さん 

ご丁寧なお返事下さいまして誠にありがとうございます。心に沁み入りました。 

私は内向的というか内省的な人間で、日々自分のエゴのあり方に醜さを感じて自己嫌悪したり絶望的な気持ちになってしまうのですが、そのことが花岡さんがおっしゃられているような「エゴを見つめながら暮らし、時々、エゴを見つめる目を内側に向けてやる」ということではない気がします。 
なんというか、私のようにエゴが自分(エゴ)を見て自己嫌悪したり絶望したりしても、それも所詮エゴでしかない気がして、自分がどこにも続かない行き止まりにいるような感じがします。 

それでも今回思い切って質問させていただいて、
>この愛がわからぬ以上、悟りになんの価値もありません。 

公案も、「わたしは誰か?」も、エゴの餌にすぎません。 

とはっきりおっしゃっていただけたことで少し気の迷いが晴れたように思います。 

暗雲の立ち込めたような不安だらけの人生ですが、投げ出さずに生きていきたいと思います。 

これからもブログの更新を楽しみにしております。本当にありがとうございました。
 
 
 
 
(2)【質問者B】

 教えてください

明け渡しによる目覚め(卒業)の後は、何をやってもいいのですよね。 
肉体が滅ぶまで、やりたいように好きに生きればいいのですよね。 
と言いましても、もう悪いことはできませんし、基本的にすべてを受け入れてしまってますから、どれほど選択の幅があり得るのかよく分からないところもあるのですが。
 
 
【花岡】
B さん。 

もちろん、何をやってもいいのです。 

しかし、真実を知ったなら、この世の何に興味を抱くでしょうか。 
そのような人は、神を想い、神と共に居る事しか楽しまない。 
神についての話しか、したくなくなる。 

何をすればいいかなど、あまり意味を持たなくなるのです。 
するべき事は神が用意してくれるでしょう。 
神が行為者であり、自分はその道具に過ぎない事を、忘れる事がないのです。 

人の心の救済なり、畑を耕すなり、人と交わらず神とだけ暮すなり、人それぞれに神を楽しむでしょう。
 
 

【質問者B】

ありがとうございます

>しかし、真実を知ったなら、この世の何に興味を抱くでしょうか。 
>そのような人は、神を想い、神と共に居る事しか楽しまない。 
>神についての話しか、したくなくなる。 

やっぱり、そうですか。 
それ以外のことをしようとすると、辛くて辛くてどうしようもないのです。例えば、一番辛いのは仕事です。 
結局のところ、なるようにしかなっていかないという感じなのでしょうかね。 
もちろん、神(これは私自身ですが)を信じていて、すべては常にベストの状態で流れていくことも確信してはいるのですが、流れに身を任せたときに、息子や妻が混乱しそうで、そこが一番辛いのです。 

私が自分で対処していかなければならない課題なのに、ついここに書いてしまいました。 
これも悟後の修行の一種なのでしょうかねぇ(笑)。 
ありがとうございました。