わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

 移動してるのは世界のほう 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

 

移動してるのは世界のほう

 

我々の眼というのは、対象を逆さまに見ているのに中枢が逆さまではないのだと錯覚して見ている
というのをご存じでしたか?

試みに逆さまに見えるメガネをかけて日常を暮らすと、一週間もすればそのままで普通に見えるようになるそうです。

松果体というのは不思議です。
記憶から取り出した映像やら、妄想の絵やら、マインドが思ったものさえも結構リアルに見せてくれます。

という事は、

見えている物が真実だ、などとどうして断定できるでしょうか。
幻かも知れません。

そうであるならば、聞こえているもの、触れた感触、匂い、味も、そのように錯覚させられている幻かも知れません。

そうであるならば、意識が信じて疑わないもの、例えば、彼や彼女の愛も、・・・どうなのでしょうね。
あの日、命をかけて守ろうと心に誓った嫁さんが、今はお互い嫌悪でいっぱい・・・なんて人いますよね。

仏陀曰く、

名前で呼ばれ、形態を有する物は、全て実体が無いのである。

常に変化し、永遠でないものは真実ではありません。
変わらないから真実であり、消滅しないから真実です。
時間さえ、空間さえ、錯覚にすぎないのです。

という事で、

仏陀がやっていた瞑想法に「そぞろあるき」というのがあります。

ゆっくりと裸足で歩きながら、足裏に感じるものに気づきながら「気づく」という、つまり
足裏に感じるそのものが意識に現れていく現象を観る。
瞑想というよりは、観想でしょうか。

このそぞろあるきを、目で見ている世界を対象にして行うと、
景色が動いていきます。

でも、意識にとっての存在場所は物質にあるのではなく、物質に癒着しているものでもありません。
意識は空間座標上にあるのではなく、それはあるだけです。
自分が身体ではなく、なにものでもない状態で観想するならば、
自分が移動して行くのではなく、景色がこちらに向かって移動して来るのがわかります。

脳や、自我意識は、イリュージョンを判別するのが苦手です。
毎朝会社に向かって歩いているのは、自分のほうに向かって会社が移動してきているのです。

そんなバカな!

事ってあるんですよ。

ほんとうは自我意識に映し出す世界が、そのように時間軸にそって変化しているだけです。
あるいは、その時間さえも本当は幻です。
物質世界のありとあらゆるものは、あなたが意識に創り出した創作物です。

そのような事を、「そぞろあるき」で、瞑想してください。
自分が移動しているのではなく、世界が移動して来るのが、きっとわかるでしょう。

世界はあなたの頭です。
身体は、あなたが世界を見る窓です。

ほんとうは、あなたはもっと内側です。

変化することのない、永久に消えてなくならない真実が、
あなたです。

そして、

我々は、外の世界、つまり宇宙を広大なものと感じています。
であるならば、内側はこの身体の中にあって、狭く小さなものだろうと、

考えていませんか?

真実は全て逆さまです。
内側こそが更に広大であって、
それは広大というより、無辺です。
果てというものが存在しません。

外側は、この宇宙は、はるか向こうには壁、終わりがあります。
たとえ、光の速度で壁が遠のいているのであっても、終わりがあるのでしょう。

内側には、まったく壁や終わりがありません。
どこに行っても、中心にいます。

内側が外側を包んでいるのです。
ほんとうは外側が内側であって、
全体の唯一の中の、どこかそのへんにポチッと現れた点なのでしょう。

2012-03-26