わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

わかる・・・の現れ方【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した同名の記事(2015-11-05掲載)の完全版。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。Hさんから頂いた記事は、オリジナルのコピーであり、コメント欄も付属しているため、完全版として再掲することにした。コメント欄からは、有益と思われるものをいくつかピックアップした。また、一部の誤変換と思われる語句は、私の判断で修正しておいた。

 

わかる・・・の現れ方

 

ひと度この内側に気付き、これを忘れないでいるなら、あるいは忘れる事が度々あるとしても、都度すぐに内側に向き直るよう努め、日常を送るなら。

木々の梢の間から、ちらちらと木漏れさす朝日のように、智慧、明知が、時折現れ来る。

ふっとした瞬間、何気ない動作の途中で内側から知らされる事がある。

食器を洗い、布巾で拭いている動作の中で、あるいは車を運転している時に、身体が自動的にそれら為すべきことを成し、「気付く力」が内側にしっかりと落ち着いているならば。

あっ!・・・このようなわかり方をするのです。

この世界の事はこの世界にまかせ、身体の事は身体にまかせて、「気付く力」が内も外も同時に気付いている、そのような状態の時。

高名な聖者賢者のように、とてつもない情報量ではないにしろ、わずかずつではあっても、そのような事が起こるのです。

サーマディは境地であり識別活動ではないから、むしろ日常でそれが現れるのです。

導通です。

時空次元を超え、そこに入り込みながらも、この世界の身体は活動を続けている。
そのような事が起こったりします。

まったく不思議です。

世界には何も無い事を見せられました。
というより、世界そのものが無かったのです。
見えているけど無いのだと、思い知る状態に入るのです。

自我の時間にして、ほんの数秒の事です。
それも自我がこの世界の何事かに熱中している時にそれが起こります。
危険度の少ない何かに、ただ集中し「わたし」そのものを意識していない時に、自我の中の「わたし」以外の者が、それを体験してしまいます。
そして、「気付く力」が、「彼」から「わたし」に戻り、「ああ、そうなのか」と納得するのです。

このようなわかり方でのわかった事は、言葉には明確に翻訳できません。
このような事を言っても「あなた、それ病気ですよ」と返されるのが落ちかも知れませんね。

しかも、言葉によらないため、思考がそれをアナライズするという事もありません。
そうであるから、さほど感動のないわかり方です。

もうひとつのわかり方。

言葉に翻訳できるような理解は、内側で「わかる」が起こり、順次「わたし」に送られ、その過程で言葉に翻訳されて行きます。
それが、泉のようにこんこんと湧いてくるのです。
リアルタイムに「わたし」がそれを理解して行くので、その真理の有難さに涙が溢れてきます。
それは全く、「教えられる、知らされる」というわかり方です。

そうではあっても、何をどのようにわかったからと言って、それがどうしたと言ってしまえばそのとおりです。
これは神を理解し、その無償の愛を、その喜びをわかる事に比べたら、ほんとうにどうでもいい事です。
言ったら、神を知り得たとき、もれなく付いてくるオマケのようなものです。

悟りと言うのは、世界の現れ方とか、システムとか、そのようなものを悟るのが重要なのではなく、この神、この源泉、そしてこの愛、この至福、伴うこの喜びと、それに対しての湧き起る感謝、ひれ伏して泣き続けたくなるような懐かしさ、それを悟る事だと思うのです。

それも疑いようもなく、はっきりとした確信を持ってです。

神をわかるだけの、真我と自我との間の透明さ、純粋さ、天真に立ち返るなら、それはそうなってしまうというだけです。

そのようになるために、欲を手放しなさいと賢者たちは言うのです。

欲を手放すというのは、欲と戦い押さえ込み克服する事ではありません。
欲は悪い事でも善い事でも無く、ただ欲という心をかき乱すようなものがあるというだけです。

戦わずして離れてやるのです。
欲を遠目に眺められるようになればいいのです。

欲と戦っているのは、欲に翻弄されている証拠です。
死にたくないと言って、死と戦っているのと同じです。
そこに苦悩を作り出すのです。

ただ、神がそうさせる事に従う姿勢を持てばいいのです。
神が現すものと、「わたし」が意味づける事、の違いを知らなければいけません。

それを洞察するのです。

「気を付けておれ」と仏陀が言うように、内側に気づいていなければなりません。
「謹んでおれ」と仏陀が言うように、自我が暴れ出すのを睨み付けていなければなりません。

善行を為すにも、誰にも見られずそれを行うように。
人に、あるいは他の命に優しくするにも、賛美をなるべくされぬように。
人前で神に祈るような事をせず。
受け取る一切は、勝ち取るのではなく、神から与えられるように。
そのように努めればいいのです。
賞賛や、賛美は、明らかに見返りです。
それを受け取ってはいけません。

実際褒められたらどうする?
彼は幻という事象に対して評価しているだけで、思い違いをしているのだと明らかに知るなら、受け取ってはいないのです。

勤労の報酬は?
それは神から与えられたのです。

そのような行為の積み重ねを、徳を積むと言うのです。
それは、考えようによっては、やがて何かを得るためのクーポンのようにも思えるかも知れませんが、徳そのものも、積もうと思い為す事もせず、ただそうであるのだと、頓着してはいけません。

ただ神の現す事だけを見て、その流れにみこころを見て、ただ受け取り、ただ味わい、感謝を捧げる日々を送るなら、いつの日にか自分というものが洗い流され、真我と自我の狭間にはびこる欲の汚れの堆積した壁が、煙が消え去るように無くなって行くでしょう。

そのように日常を生きるのです。

仏陀は家の前に立ち、食を乞い、差し出される粥に、その家主に純粋な供養を見て受け取りました。
教えを請われ、請われるまま教えを述べた後に差し出される食べ物は、「わたしは教えの代償として、それを受け取るわけにはいかないのです」と受け取りませんでした。
これは仏陀からの家主に対しての供養だからです。

無条件に与える。
無条件に頂く。

それが愛の行為です。

全てを知り尽くし、完成された偉大な方がそうであるならば、わずかこれだけをやっと知り得た我々は、尚更それに習うよう努めるのがいいでしょう。

欲を捨て去るのは困難であっても、そのように日常を努めるのは、いい事です。

内側から毒素が消えるように、純粋になって行きます。

明らかに以前の自分とは違うと認識されるようになります。

やがて。

天使を目撃するでしょう。
 
2012-12-04
 
 
 
◎花岡さんの「わかる」の意味範囲はけっこう広いと思われる。基本的な「わかる」は、『「わかる」について:あなたにもあります般若波羅蜜智慧』(2019-04-30掲載)で述べられている日常的な理解の背後にある閃く直観知だが、この記事で述べられいるのは、「神の知への導通」のようなものだ。
 
(by ブログ管理人)
 
 

 

[読者MMM] みこころ
すべてがみこころで起こっているのであれば、私がしたことは何もない・・・のかな。 
良いことと思うこともみこころに従って、わたしが行っただけ。 
褒められたとしても、それは私ではなく、みこころがしてくださったことなので、わたしが受け取るものではない。 
そのようなことを「私がしたこと」と思うことで、自分の自我が強化される。 
見返りを受け取るということは、「私がしたんだ」という思いを強化していく。 

自分がしたことではないと理解して、「みこころ」を意識していると自我が小さくなる・・・これが徳を積むということなのかな。・・・そして、自分が洗い流されていく。
 

[花岡] Re: みこころ

おおむね、そのような理解でいいと思います。 

わかりにくい表現を、よく理解して頂きました。 

あ、「自我が小さくなる=執着から離れていく」という意味合いならそういう事です。 
徳を積む事に執着する事無く、結果的に徳を積んでしまうのでなければ、徳にはなっていないという事です。 

神は何でも気づいていて、何でもお見通しです。 
恩寵を与えるべき人を、知っています。 

 

[読者IK] 一瞬だけ

一瞬だけ、ほんの一瞬だけありました。 
一週間ほど前本を読んでいる時に、 
「今、ここにあったんだ。 
色々な事に探したのに、追い求めたのに、真実はいつも一緒にあったんだ」 
でもほんの一瞬だけです。すごく心地の良い感覚でした。 
 
 

[読者H] 思考を超える

花岡さん、こんにちは。 
以前、コメント欄にて相談させて頂いたHです。 
その節は、ありがとうございました。 

あれからも、毎回ブログを拝見しておりました。 

そして、昨日、腰を抜かして大笑いする程の 
気づきが訪れました。 

一瞬にしてパッと開け、世界がグルンとひっくり返りました。 
「思考を超える」の意味が分かりました。 
いかに思考に支配された日々を送っていたのかに 
深く気づく事が出来ました。 

今は、なんだか嬉しくて可笑しくて、ワクワクするし 
驚きと衝撃でヘラヘラしたり、興奮してグルグルしています。 

気づきを促して下さった花岡さんに 
お礼を言いたくてコメント致しました。 

ありがとうございました。
 
 

[花岡] Re: 思考を超える

Hさん、こんにちは。 

わかっちゃったようですね。 

もう自由です。 
思考から自由になったのです。 

嬉しいですね。 
ワクワク、ヘラヘラ、味わってください。 

例えば食事の後に食器を洗うのが嫌だ、やりたくない・・・などと思う事があります。 
嫌な理由を思考して意味づけ、もう囚われてしまうからです。 

でも、もう食器を洗うのは思考が介在しません。 
ただ洗う・・・ようになるでしょう。 

たとえ思考がそれに何かしら意味づけても、ただその思考を別の位置から見ていられるでしょう。 

世界がひっくり返る。 
そうですよね。 

その驚きを、心ゆくまで味わってください。 


[読者KKA] はじめまして、質問です~♪

花岡さん、はじめまして 

私はハートの至福について、同じような快感を体験している者です。 

先ほど、この至福・快感は意識を向けた所に起こることに気づきました。(例えば右手親指と言うと右手親指にも至福・快感がおこる) 

この至福・快感は、通常の人間の機能で、私が今まで知らなかっただけなのかな?みんなにとっては生まれつき当たり前なのかも?なんて疑問に思っていました。 

こういう事を解釈した前例は無いのか?なんて探したがる思考がでてきますね(^^;) 

この至福が、気づきに気づいているよー☆っていうサインだと嬉しいのですが、どう思われますか? 
 
 

[花岡] Re: はじめまして、質問です~♪

KKAさん、コメントありがとうございます。 
質問を頂きましたので、短めに(ごめんなさいね)お答え致します。 


> 私はハートの至福について、同じような快感を体験している者です。 


とても喜ばしい事です。 
このような方が、ひとりふたりと見つかる度に、神に感謝したい衝動が湧いてきます。 
これは人に与えられた、この上ない宝物です。 
自分の事のように嬉しく思います。 


> 先ほど、この至福・快感は意識を向けた所に起こることに気づきました。(例えば右手親指と言うと右手親指にも至福・快感がおこる) 
この至福・快感は、通常の人間の機能で、私が今まで知らなかっただけなのかな?みんなにとっては生まれつき当たり前なのかも?なんて疑問に思っていました。 
こういう事を解釈した前例は無いのか?なんて探したがる思考がでてきますね(^^;) 


意識がそれで満たされているので、意識を集中した部分がジワジワと反応します。 
ほんとうは身体のひな形は、意識エネルギーが重なっているのですからそうなります。 
ハートから出でて全身に、また、身体を通り抜け空間に、世界にさえ放射されます。 
色で見える人?にはたぶん、オーラのように見えるのでしょうね。 
わたしにはオーラは色としては見えませんが、エネルギーとして波動として感じて取ります。 
色で見える状態はわかりませんが、たぶん至福で満たされている人は金色に見えるのかも知れませんね。 

ですから、例えば、指ではなく、 
あの落ち込んでいる人に、ナイショで、そっと、伝搬させようと思えばできてしまう事も・・・あるかもです。 

通常の機能?・・・機能っていうか、そういうものだというだけで。 
生まれつき?・・・もちろん生まれつきであって、みなさんが誰もが生まれつき、この様であるわけです。
ところが生まれた瞬間から親御さんは言葉を思考を押し付けたくなるわけです。 
わたしがママよ!からはじまって、赤ちゃんは起きているうちは常に言葉を植えつけられ、思考する訓練をさせられる訳で、そうやって価値観が伝承されていくから至福の伝搬経路に遮閉層が出来上がってしまいます。 
言葉が悪い訳じゃないけれど、誰もがこの至福を忘れてしまっているから生まれつきのそれを大事にする事はなくなります。 


> この至福が、気づきに気づいているよー☆っていうサインだと嬉しいのですが、どう思われますか? 


気づいているのは何が何に気づいているのでしょう。 
またその事に気づいているのは誰でしょう。 
そして、その逆方向性についても気づいているでしょうか? 

気づきに気づく、これは人によって解釈が様々かも知れません。 
最初に言った人は、いったいどのような意味で言ったのでしょうね。 
おもしろいテーマですので、後ほど記事に書かせてくださいね。 

今後ともよろしくお願い致します。 


[読者KKA] お返事ありがとうございます

こんばんは、お返事ありがとうございます 

気づきに気づくは 
気づき(である私)が感覚や思考に巻き込まれていない 
気づき優勢の状態にあるという感じを言おうとしました 

気づきは感覚、思考、感情を最初に感知していて 
その状態にあるときは思考はとても遅く感じます 


ハートの至福が無い時 
遊びでハートの波動砲をいろんな人に飛ばしてます。テロです❤ 
ただ、「私から〇〇へ」と言うだけでも飛びます。 
相手は有名な聖者とか自宅の猫とか・・・ 
それで相手がどうなるかは知りません(^^;) 
今度、花岡さんにも飛ばしてもいいですか? 

ハートに呼応が起こると、楽しいです。
 
 
[読者RG] 初めまして!
 
花岡さん、初めまして! 今日、偶然花岡さんのブログにたどり着きました。とてもためになる記事の数々で、素敵なブログに出会えたと感謝です。 

私は今年に入り、心身ともに絶望的な状況になってから、突然認識の変化が起こり、それからは恩寵を感じるようなことが度々起こるようになっています。自我の明け渡しを体験したりもしますが、一定期間を過ぎるとまた「普通」の自我状態に戻ります。 

また、日常生活の中で、「あれ?勝手に体が動いている!!??」と感じることが時々あり、明らかに「自分」ではない何かによって体が的確に動かされているのに気づき、驚きとともに非常に奇妙な感覚でもあります。 

花岡さんの書かれていた 
>この神、この源泉、そしてこの愛、この至福、伴うこの喜びと、それに対しての湧き起る感謝、ひれ伏して泣き続けたくなるような懐かしさ・・・ 

まさにこれです!!これを、今年に入ってから感じ続けているのです・・・。でも周囲に言っても誰も理解してくれず、私がおかしくなったのではないか?なんて思いもありました。でも同時に、これが自分の本心であり、やっと家にたどり着きつつある・・・そんな溢れんばかりの思いでいっぱいです・・・ 

幸い、最近では良い先生にめぐり合え、時々教えを頂くことが出来るようになったのですが・・・。 

独り言のようになってしまいましたが、このような素晴らしいブログに出会えて幸せです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 

良い一日をお過ごしください!
 
 

[花岡] Re: 初めまして!

RGさん、はじめまして。 

とてもわかりやすく、今どうであるかを紹介して頂きました。 
みなさんの参考になったのは、確実です。 

完成まで、もう薄皮一枚分って感じですね。 
読んでいて、我事のように嬉しく思いました。 

これからもシェアできるなら、コメントお寄せくださいね。 
ありがとうございました。