わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

本当の愛 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

本当の愛

 

今まで本当の愛を知らないでいた。

そう、今までは間違っていたんだよ。
特定の何か、特定の誰かを、自分と同じよう大切に思う事が愛だと思っていた。

たとえば、恋人、親子、兄弟、友達、お気に入りの物、
なにか、心ときめかせるもの。
ふるさとや、住んでいる地域、ペットや、・・・フフ、お金。

でも、それらは全部、条件が指定されている。
愛する理由が存在している。

だからそれらの愛っていうのは、行き着く所は・・・悲しみや、苦しみだ。

失ったら、拒否されたら、一方通行だったら、嫌われたら、
・・・悲しみや苦しみが待っている。
それは愛ではなく、所有であって、執着にすぎない。
挙式で永遠の愛を誓った二人が、ハネムーンから帰ると他人同士になったりする。

自我の世界は、二元性の世界なんだよ。
自分(主体)と、対象(客体)の関係は、感情さえも二元性だ。

喜びと悲しみ、愛と憎しみ、それらは、紙の表と裏のように、
片方を所有するなら、もう片方も、もれ無く付いてくる。

だから喜びを喪失したら悲しい。
愛を拒否されたら憎しみが顔を出す。

今まで思っていた自由というものも、
実は自分勝手な我ままだったかも知れない。
今まで思っていた幸せというものも、
くだらない欲望を満たす一時的なものだったかも知れない。

このように自我を明け渡して初めて本当の事が見えてきたんだ。

自我を明け渡して、自我の束縛から自由になる事こそ本当の自由なんだ。
自我を明け渡して、本当の愛を知る事こそ、満たされた幸せなんだ。

本当の愛は、条件が必要ない。
本当の愛は、理由がない。
それだから、その先に悲しみも苦しみもない。
何かを対象にしないから、拒否も喪失も恐れるものではない。

誰も訪れる事の無い山奥の深い谷間で、
菊咲一花(きくざきいちげ)がひっそりと咲いていた。
誰に見られようとか、賛美されようとか、そのような作為なく、
ただ、純粋な命を咲かせていた。
おそらく、散るまで、誰にも見られる事はないだろう。
誰にも、ああ綺麗だねって、褒められる事などないだろう。

本当の愛は、そのように、
誰にも、見えない谷間に、ひっそりと咲いている。

それを、ある日突然与えられる。
これは、自我とは全く別の次元で感覚するものだ。
この本当の愛の対極は無い。
ただ、愛だ。 ただ、咲いている。

それから感覚する幸せも、理由の無い対極の無い幸せだ。
これを超える至福はもう、考えられない。
誰にも、ひとり残らず、これを味わってもらいたい。
分け与えられるものなら、分けてあげたい。

でも、これはそれぞれの内側から与えられるものなんだ。
本物は、自分の内側に咲いている。

自我を明け渡したら、もう何もいらないんだよ。
何もいらない、その無欲に、愛が呼応する。
真実の愛が、花開く。
しかしながら、手放したくないなどとは思わない。
思わないから、それはいつでも共に在る。
もしも、この愛を失いたくないと思うならば、喪失も共にあるだろう。
思わないから、いつでも共にある。

持たないものは、持つようになるであろう。

神と共にある事を、こんなにも実感できるとは。
わたしの中が、勝手に感謝を始める。

 

2012-03-10