わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

どうすれば捨てられるだろう  花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事。コメント欄での読者との問答も最後につけ加えておいた。本文理解に有益です。

 

どうすれば捨てられるだろう

 

質問をいただきました。


愛着、執着、失うことへの恐れ・・・ 
これらをどうやったら捨てられるでしょう? 
これらをあっさりと捨てられるならば、私が現在抱えている問題の80%(ひょっとしたら100%かも)は解消され、
楽に生きられるんだろうな~と思うのです。 
このことで、非常に苦しんでしまうのです。

タバコを止めたくても止められない。
この場合、タバコに依存しているようにも見えますよね。、
リスクはどうあれ、魅力に憑りつかれているから・・・のように見えますよね。

さて、何もかにも捨てて、楽になりたいですよね。
しがらみも、地位も捨てて。
世間の目も気にしないで、捨ててしまいたいですよね。
何も持たない無一物となり、気楽な状態になりたいですよね。

それが逃避でなければ。

では、そのままなら?

そのままなら、たぶん、恐れからの逃避なのでしょう。
だから、何もできません。

どちらにしても、逃避なのです。

何に恐れているのでしょう。
何から逃げたいのでしょう。
まだ来ぬ未来の苦痛に恐れているのです。
まだ来てもいない、しかも有りもしない未来の苦痛と戦ってるのです。

タバコの魅力に依存しているのではなく、次に来る禁断症状への恐れがタバコを止めさせません。

捨てるべきは、愛着、執着ではなく、恐れなのです。
まったく、恐れに憑依されているのです。
恐れさえなければ、何でも自由にできます。

どうしたらいいと思いますか?

それならば、恐れを受け入れるのです。
逃げる必要はありません。
怖くても、受け入れて、その結果を「わたし」と思い為す「わたし」ではなく、
あなたの全てが湧現してくる源泉に任せるのです。

禁断症状の辛さを、受け入れ、症状を無くすために戦わず、まったく辛さを受け入れるのです。
戦ってはいけません。
あえて、苦しみを受け入れるのです。
そうすればタバコは止められます。
禁断症状が出てきたら、・・・お!来た来た!。どんと来い!って受け入れるのです。

スイッチを入れるだけです。

恐れを受け入れるスイッチを、ON側に、入れてください。

そうすれば、もう何も怖くはありません。
もう、逃避に依存する事もありません。
その時、営業マン見習いは、いきなり滑舌になるのです。
自信に満ちてくるのです。
はじめて契約を取る喜びを知るのです。

それが、「捨てる」という事です。

わかりますか?

恐怖から逃げずに、受け入れるのです。
後の結果は、神に委ねればいいのです。

あなたを威圧して、怒鳴る上司に、言いたいことを、いや言うべき事を言いなさい。
間違っていない自信に満ちた意見を言いなさい。
後は、クビになろうがどうであろうが、神が面倒を見てくれます。
それが恐怖を捨てるという事です。

家族を養う必要があるのであれば、そのようになります。
必要なものは与えられます。
欲を言わないのであれば。

受け入れるのです。
受け入れる事が、捨てる事です。
自我の恐怖を信じるのではなく、愛に満ちているあなたの神を受け入れ、任せるのです。

多くを捨てられたら、多くを得られるのです。
恐れがあっても、受け入れる。受け入れきれる。受け入れられる自信がある。

その時、恐れからの自由を手に入れるのです。

問題には、答えがあるから問題として成り立つのです。
答えは、あらかじめ、用意されているから、問題として提供されるのです。
あなたのために用意された問題は、あなたが答えを導き出し、実感しなければいけません。
答えは用意されています。

この喜ばしい体験を味わってください。
実感してください。

スイッチを入れてください。
ただそれだけです。

あなたを、応援しています。

わたしも、あなたの源泉も、あなたを応援しています。
そして、いつも励ましてくれる皆さんも。
みんなその本質は、愛だから。

愛があるから、応援せずにはいられないのです。

 

 

2012-05-04

 

 

 

 

【質問】 
>それが逃避でなければ。 

>では、そのままなら? 

この部分が文章としてよく分からなかったのですが・・・。 

 

 【答え】

> それが逃避でなければ・・・の意味。 

全て捨てたい・・・これは苦から解放されたいという思いです。 
この思いには二つの種類があって、 
一つは苦というものを知って、苦そのものを終焉に導き、二度と苦に従属しない者となりたいという事と、 
いま一つは、苦から逃れて、苦に見つからないように隠れていたいという事と。 

いい例ではないですが、犯罪者が、 
いさぎよく自主して、罪を悔い改めようとするのか、 
ずっと逃亡生活をして、罪そのものを忘れたふりをしていようとするか。 

もしも、後者であるなら、絶対的に何も捨てられないのは、明らかです。 

> ではそのままなら?・・・の意味。 

捨てたいけど、捨てれないの実体です。 
恐れを予想するから、アクションを起こせない。 
恐れからの逃避です。 
そのままでいる事自体、恐れからの逃避なのです。 

> その二つのまとめ。 

全てを捨てて楽になりたいと思う事が、捨てることで苦から逃れられると思うのであれば、苦からの逃避です。 
全てを捨てて楽になりたいけど怖くてできず、そのままでいるなら、恐怖からの逃避です。 

> 解決策。 

逃げても逃げても、追っかけてきます。それならば、あきらめましょう。 
苦も、恐怖も、共に受け入れるのです。 
それらを起こす何もかもさえ受け入れるのです。 
だだこねず、あきらめて、受け入れるのです。 
戦わず、あきらめるのです。 
好きなようにしてくださいって、なるようにさせるのです。 

> 結果的に気づく事。 

結果、なるようになったからとて、なにが問題でしょうか? 
あなたは消えたりしません。 
いつだって存在しています。 
ただ、苦は嫌だ!という我ままに気づけばいいだけです。 
それを苦としているのは、あなた自身です。 
恐怖と捉えているのは、あなた自身です。 
そのようなものが、実在しているのではないのです。 

【質問】

花岡さん、ありがとうございます。 

>あなたを威圧して、怒鳴る上司に、言いたいことを、いや言うべき事を言いなさい。 

「言いたいこと」と「言うべき事」は、どう違いますか? 

それとも単なる表現の問題?

【答え】

いい質問です。 
文字による意味とは別に、文字にはよらない、含んだ意味を読むといのが、必要な場合があります。 
言葉では表しにくい事柄を表現するときには、どうしても、そういう表記になりがちです。 
そうしないと、文章が冗長になる事が多いからです。 

わたしの文章は、それが過剰かも知れませんね。 
わかりにくくて申し訳ないです。 

丁寧に書けば、 

上司に言いたい事を言ってはいけません。 
言いたい事は、感情を含みます。詰りや、蔑みや、罵倒も言いたい時もあるわけです。 
言うべき事は、必要不可欠なもの。求められてる意見や、進言や、建設的ヒントや、業績につながる事など、 
正しいと思われる事らを、臆せず言いなさいという事です。 

これらの意味を、「言いたい事、いや言うべき事を」に集約しています。 

やりすぎかな?