わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)

釈迦が母マヤから生まれて、その直後、すっくと立ち、
右の人差し指を上に、左の人差し指を下に示した。(ん?逆だったかな?)
そして、こう言ったそうな。

天にも地にも、唯一わたしだけが尊い存在なのだ・・・と。

ありえねぇ~

と、思うでしょう?

生まれたばかりの赤ちゃんが、そんなことありえないのだけど、
生まれたのは、新しい釈迦。

苦行の末、苦行という極に偏った、ちからづくの修行では悟れない事を知り、
一切を放棄して中道という「ありのまま」に気づいたとき、
彼の真実の実体、本性が目覚めたんだよ。

「わたし」というこの者の実体は、現象世界のこの者ではなく、
それは、この根本の「これ」に在ったのだ。
全てはこの「これ」、すなわち「在る」によって投映されている現象を、
曲げて偏向させた小さな自我意識に現した「わたし」という偽物が見ていたのだ。

それに気づけば、
なんだ、わたしの世界は、他になにも無い。
ただ、この「在る」である源泉と、「わたし」という感覚だけじゃないか。
すべて「わたし」が作った幻想だ。

であるならば、天上(宇宙)に於いても、地上(人間社会)に於いても、
わたしと源泉の関係以外に無いじゃないか。
そうであるなら、「わたし」さえ無い。
全ては、「そこ」からたち現われている幻なのだから。
その源泉こそが、「わたし」だ。

どこに視点を移そうが、「わたしの源泉」それ以外に、在るものは無い。

みんながそうだよ。
誰もが、天上天下唯我独尊だ。

みんな、「それ」だもの。

ニサルガダッタが言うとおり、そして彼の師匠が疑うなと言うとおり、
「 I am That ! 」
「わたしはそれだ」
これを、別の言い方にすれば、
「わたしは在る」になる。

きっと、ニサルガダッタの「わたしは在る」の意味を捉えられない人はいたかも知れない。

これは、「わたしは”在る”、その”ただ在る”の、それだ!」と言う意味として、
洞察してみてほしい。
きっとわかる。

言葉で何から何まで表現するならば、それは価値の無い哲学になってしまう。
ただ、うるさい言葉羅列の、おいしくない自我一色になってしまう。

感覚以外に、センス以外に、それをわかるセンサーは無いんだよ。

シックスセンス、セブンスセンスで、観照してみるのがいい。
自我を、ちょっとわきに放っておいて、
思考を、止めて、
そうそう、

その静寂の中に、

在るがある。

源泉はそれだ。
神はそれだ。
あなたはそれだ。
わたしもそれだ。

命もつ全てに、幸あれ。

 

 

2012-03-07

 

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