【時系列 花岡修平】やばい!来てしまった
さて、今日はブログの話題を何にしようかと考えて、
そうだ、あれにしよう・・・なんて思うのだけれど、
いざ、それについてキーボードを叩いていると、
なぜか、違う事を綴っている。
今日こそは絶対これを書くぞって思って書いていると、
途中で、
ん? 変だ・・・浮かんで来ない。 まとまらない。
結局、別の話題が降りてきて、自然にまかせながら書いてしまう。
わたしのブログの記事は、そうやって書かれています。
今日もすでに、お題は決まっていて、「マーヤについて」でしたけど、
マーヤについて、仏陀のお話から例を載せましょうって思い、
「仏陀最後の旅」(大涅槃経=マーハー・パリニッバーナ・スッタンタ)を開いて、
さてと、あれはどのあたりに記されていたかなぁ~って、探しつつ、
途中途中読んでいたら、
ああ、大変な事になりました。
仏陀の慈悲に溢れる言葉に、このハートの「ここ」が完全に「やられて」しまって、
熱く熱くこみあげてきて、どうにもならない。
涙・・・ボロボロで
・・・よ・・・読めない。
ちょと数行読んだだけなのに、
まだハートが開いていなかった頃は、普通に読めていたのに、
ただなんとなく、完成された偉大な人の言葉は、やっぱり違うなぁ~、ぐらいに見てたのに。
ああ、もう書けない。
その見事に説かれた言葉のゆえに、
若き弟子、アーナンダへの深い深い慈しみのゆえに、
「ここ」が「それ」に入ってしまって、
本を開いたまま、開いたページを胸に押し付けて、
そのまま、泣き続けてしまいました。
こんなにも「ここ」が呼応する。
ハートが開いてしまうと、こうなってしまう。
こんなにも真実の愛に共鳴してしまう。
「ここ」? 「それ」? 読む人がいたら、なんだよそれ・・・って思うだろう。
言葉の領域を超えてる事は、どうしても、言葉では言い表すことは難しい。
ピッタリ来る表現は、「ここ」、「それ」、しか思い浮かばない。
それを表現するために、自我に戻る気もない。
さて、もしも、仏陀を崇拝することが信仰であるならば、
わたしには信仰がない。信心がない。
何であれ、対象を置いて崇拝するなら、偶像崇拝であると内側から知らされた。
それだから、わたしは何も崇拝しない。
わたしには、宗教など無い。
わたしの経典や聖書の捉え方は、宗教ではなく、真実の言葉という位置づけだ。
これについて詳しく言うと、いろいろ浮上する問題があるので言わないけれど。
とにかく、この真実の愛に反応し、源泉からの至福を頂けるのは、
ただ、「わかった」から、でしかない。
わかったから、信じなくてもいい。
かつての常識、あたりまえは、もうない。
わかった事だけが、わたしの中では「あたりまえ」として存在する。
それだけが、価値あるもの。
今日は、これでいいや・・・書けないから。
はやく、宇宙の塵で出来たこの身体を、宇宙にお返ししたい。
ニルヴァーナ
わたしのふるさと
はやく帰れたらいいな。
2012-03-14
*何気ない文章に思えるが、花岡さんの記事に見られる多くの矛盾・不整合の原因がここに書かれていると思う。
さて、今日はブログの話題を何にしようかと考えて、
そうだ、あれにしよう・・・なんて思うのだけれど、
いざ、それについてキーボードを叩いていると、
なぜか、違う事を綴っている。
今日こそは絶対これを書くぞって思って書いていると、
途中で、
ん? 変だ・・・浮かんで来ない。 まとまらない。
結局、別の話題が降りてきて、自然にまかせながら書いてしまう。
わたしのブログの記事は、そうやって書かれています。
花岡さんは、自分の思考を首尾一貫したものにしようする意識的努力をせず、その時、「降りてきた」思考を綴っているのだ。
したがって、以前に書いたことと矛盾することを書いているケースがしばしば見られる。ときには、一つの記事の中でさえ論旨がずれ、最初の部分と最後の部分が矛盾している場合もある。
これでは、真面目に花岡さんの記事をすべて読み、彼の世界を知ろうとする者を困惑させてしまうだろう。
読者は、この点に注意しなければならない。このシリーズを開始するときに、読者は自分の批判的思考能力を用いて花岡さんの記事を読むべきだと私が言った理由がここにある。
(ブログ管理人より)