わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】大切な話をします

ほんとうは世界には、あなたしかいません。
とても不思議です。
ほんとうは世界には、何もないのです。
すごく不思議です。

あなたの意識があるだけです。

そこに、物語のデザインに従って、様々な数限りないもの達を、あなたが配置しています。
形と色と、音、臭い、味、感触、関わりの意味、感情、感覚、記憶、思考、判断、断定、価値、ありとあらゆるものを結びつけ、美、醜、幸、哀、恨、憎、苦、楽、穏、怒、執、心、生まれる、生きる、死ぬ、全てを展開し、それらを事実として認識するための「わたし」とするマインドを置きました。

「わたし」が置かれる事で、世界の要素達は、個・個・・・個と分離します。
そのような幻想達が事実のように振る舞って行きます。

ほんとうは、あなたが在るだけです。

それ以外は、あなたの創造です。

あなたは世界を創り、そこに「わたし」として住むから、世界の中に「わたし」が居ると思い為す経験を継続します。

それは、映画の中の主人公に、実際の周囲を忘れてしまうほど、ドップリと感情移入しているのと似ています。
あるいは、夢を見ながら、夢である事に気づく事が無いのと似ています。

実際、世界はあなたが見ている夢なのです。
「わたし」が体験すべきデザインに従って、あなたが一切を創造しているのです。

あなたではない、誰かも、そのように「誰かなり」の世界を創造しています。

しかし、あなたの世界には、あなたによって組成されたもので無いものは、なにも無く、誰かの世界にも、誰かによって現された以外のものはなにも有りはしません。

それぞれの世界が、根本の「ひとつ」に、それはもう数えられないくらい展開されていて、しかも「ひとつ」の中に在るから繋がっています。

そういうわけで、「わたし」の世界に「誰か」の要素が捉えられ、「わたしとあなた」という認識が可能です。
「わたしの物とあなたの物」という認識が可能です。

可能であるけれど、影響されてるように見えて、ほんとうはそれも、あなたが創造している影響です。
「ひとつ」という中で、あなたが見るあなたの世界というあなたの夢も、誰かが見る誰かの世界という誰かの夢も、全部、あなたが見るあなたの世界という夢であり、全部が誰かが見る誰かの世界という誰かの夢です。

「わたし」というものが、それを見ています。

よく見てごらんなさい。

ほんとうは、世界に配置された全部が分かれていません。
分かれているように見えて、分かれてはいません。

例えば、ひとつの絵画に描かれた色の連続であり、形の連続であり、それは絵具の連続という、ひとつです。
もちろん「わたし」も含めてです。
そのような絵画を、あながた創造しているのです。

あなたは真我なのです。
真我が「わたし」に見せている絵画です。

もともと「わたし」は真我の中にあって、真我以外の何者でもありません。

最初から真我であって、この先も永遠に真我です。
生まれていなくて、最初からそうなんです。
死なないんです。
死ぬというのは、「わたし」が夢から覚めて真我へ帰還する事です。

だから、今、この生身の体をもちながら、現世的な意味で生きながら死ぬ事さえ可能です。
それが、気づきです。目覚めです。覚醒です。悟りです。

ほんとうは意識しかないから、意識が気づかないといけません。

掴み取ろうとしても取れないのだという意味がそこにあります。
頑張って、歯を食いしばって勝ち取ろうとしても取れないのだという意味がそこにあります。

まず、あきらめて、真我に通じる事が必要なのです。
そのためには、あなたが意識に置いた「わたし」から離れなければいけません。

「わたし」が世界に住むのをちょっと忘れて、真我に捕まえられてみるのです。
それを、感覚して見てください。
「わたし」が真我に捕えられ、次元移動するのです。
神の意識に抱かれ、包まれてしまうのです。

あっ!。

そう、それが起こります。

どうしても起こらない人の方が、もちろん多いわけです。
どっぷりと世界に住んでいるからです。
拘り、執着、価値観、マインドは「わたし」を世界に縛り付け、それは有るのだ!と頑張るからです。

だから一度死ななければなりません。
つまり、全てをあきらめて、お手上げになって、「わたし」を真我に明け渡すしかないのです。
真我に「わたし」を引き取ってもらうしかないのです。
そうすれば、それが起こります。

それでも明け渡せない人のほうが多いのです。
でも、あなたにはできるかも知れないのです。
そうでないと、どうして言い切れるのでしょう。
まだ物語の途中なのですから。

ほんとうは世界には、なにもありません。
世界さえありません。
真我があるだけです。

真我に捕えられ、通じたなら、その痕跡が残ります。
この胸の「ここ」に。
真我の実体、愛で満たされるから、わかります。

そうなればもう、世界という夢さえ、安心して見ていられるのです。
恐れなど、もうありません。
あるいは、恐れさえ、楽しめてしまうのです。

「わたし」の世界が、ニルヴァーナになってしまうのです。

 

 

2012-05-29

 

 

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