わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】瞑想について・その2

瞑想について、人の理解は様々です。
手法や、境地も、自分なりに捉えているでしょうし、他の人と同じかどうかなどわかりはしません。
どうであれば間違いで、どうであれば正しいとも言切れません。
ですから、自分の考え方を押し付ける事はしませんが、ただ、今となっては以前とは明らかに違った理解がわたしの中にあります。

ハートを知る前のわたしにとっての瞑想は、何か、この今いる世界とは別の世界と通じ、それを見る事だと思っていました。

眼を閉じ、呼吸を整え、静かな心に落ち着いて、見えざる何かを見る事だと思っていました。
それは、真言宗のメソッドに、眉間前方に月輪(がちりん)を観ぜよ・・・とあったからです。
それだから集中して月輪を見ようとしました。眉間に集中して念のビームを向けていたのです。
何度やっても、月輪は見えませんでした。

ある日、眼を閉じて闇の中を見つめていると、小さな光る点が現れました。
それはクルクルとあちこち動き回り、しっかり見ようとしても、あっという間にどこかに逃げて行きます。

しかし、やっているうちに、それを眉間の向こうに固定する事ができました。
それを凝視していると、突然その小さな光が、ガッ!っと広がり、見た事も無い風景を見ていたのです。

鮮やかな群青の空にくっきりと広がる険しい山並み。
雪を頂いた山々を向こうに見ながら、だらんと長い腕を下げたようなヒマラヤ杉の巨木たち。
風がその枝を、葉を、ゆさゆさと揺らしていました。
突然そのようなものが見えて驚き、ここは何処だ?この清涼な空気は現実か?疑問が次々現れて、そして消えてしまいました。

またある日、公園で赤ちゃんをあやしている父親らしき人を見ました。
両手で抱え上げ、高い高いをしている微笑ましい光景です。
そこへ自転車にのった少年が通りかかり、止まって、その親子を眺めていました。
その少年がふと、こちらを向いたのです。
少年はわたしに気づき、わたしと眼と眼があいました。
瞬間その少年の顔が驚きをあからさまにしたのです。
わたしと少年は、お互いにお互いを見てしまい、お互いにびっくりしてしまったのです。

しかし、そのようなものは瞑想ではありません。
瞑想は意識次元を移行し、精妙な、安らいだ世界に入って行かなければ、その境地を感覚できません。
全くの空に漂い、そこに寛がなければ、その何も無い研ぎ澄まされた、穏やかな境地は得られません。

何かを見るのであれば、それは視覚野、松果体にそれを見ているのです。
実際に物を見るのと同じ、松果体の働きです。
つまり、自我の範疇を超えてはいないのです。
サーマディは、見ることではなく、空に在る実感です。

それは人知の理解を超えた、感覚知を得るための準備としてとても役立ちます。
真実を知る、わかる、真実そのものになる前段階として役に立ちます。

そして突然、「これ」が起こるのです。
あるいは、次第次第に、少しずつそれが現れてくるかも知れません。

今まで味わう事のなかった、本物の愛です。
この愛による喜びは、かつて経験したそれらとは、まったく別格です。
神聖であり、清らかであり、存在するあらゆるものにそれを感じることができます。
なんと世界は喜びに満たされているのでしょう。

しかし、今でも時折、何かしら見えるものを見てしまします。
それは瞑想の時ではなく、何気ない普通の時間を過ごしている時に、突然現れます。
なにかしらのメッセージとして、日常とは別の世界から現れてしまう事があります。

ある日、トウモロコシの種をポリポットに仕込む作業をしていると、突然白い髪、白い無精髭だらけの外国人が現れました。
まるで、目の前に透明スクリーンを置いたようにその70代と思われる男性が見えたのです。
頭に丸いお椀のような小さな帽子をかぶり、チロリアンな、民族衣装のような出で立ちで、微笑んでわたしを見ていたのです。
顔は、血色よく、とても元気そうで、そして何より幸せそうな人でした。

なぜこんなものが見えるのだろうか、これはわたしの想像が見ているのだろうかと思い、意識的に何か別のものを脳裏に想像してみました。
そうしたら、普段我々が場面や情景を想像して脳裏に描けるように、普通に想像映像を見る事が出来たのです。

なんと、わたしは、現実のトウモロコシを仕込んでいるその映像と、目の前に見える彼と、そして脳裏に見る想像の情景と、三つのビジョンを同時に見ていたのです。

後でよく考えて思い出してみると、それはダグラス・ハーディング氏だったのです。
彼の「頭のない方法」というアプローチはとても参考になり、内側を理解するのに役立ちます。
それを解説したサイトがありますので、検索してご覧になってください。

頭にのせていたお椀のような帽子は、教会の方がよくかぶっている、あの帽子(帽子っていうのだろうか?あれは)だったのです。
見ているときは、その不思議な帽子が印象的で、よく覚えています。
彼は既にこの世界を終えて、永遠の世界に住んでいます。
彼のそのにこやかな、穏やかな表情から、我々は、どの世界に居ようが、お互い「ひとつ」の世界に在って離れてはいないのだと教えられている気がするのです。

そして今、わたしには何の恐怖もなく、現れるこの一瞬一瞬を、そのまま受け入れて、ただ在る幸せに浸り毎日を過ごしています。
もう、この実感する神と離れることは無いと、確信しています。
神に明け渡せない?自分に明け渡す事なのにできない?
大丈夫。まだその時が現れていなだけで、それは絶対そうなります。

 

2012-06-01

 

 

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