わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】観る者と観られる者・真実のわたしと思考のわたし

質問を頂いて、簡単に説明できると思ったのが、どうしたらわかってもらえるだろうと書いているうちに、ひょっとして結構これってみんなわからない事なのだろうか?と思い、つい長文になってしまいました。こちらに掲載します。

質問1
> 「思考」と「思考の働き」はどう違いますか?


思考とは、マインドそのもの。
あなたにとっての「わたし」です。
あなたが思考するとき、あなたにとっての「わたし」がそこに居るのです。

思考の働きとは、あなたにとっての「わたし」に思考が引き戻す作用です。
「わたし」は思考する事によって、そこに現れ、思考の働きによって、そこに住まわせられるのです。
思考によって「わたし」を知覚し、思考の働きによって思考に留め置かれるのです。

あなたが思考を止めるなら、「わたし」は消えます。
そうであるなら、ほんとうは「わたし」は無いのです。
思考が作り出す観念です。

思考が無い状態で、「わたし」はどこにもいません。
もしも、「わたし」がいるなら、それは思考しているのです。

思考を止め、「わたし」を消そうとすると、思考の働きは恐怖をあなたに抱かせて「わたし」に引き戻そうとします。
それは「わたし」の死を意味するのだと脅迫するのです。

マインドの思考は、すべて妄想であって、真実ではありません。
現実という、このリアル感も、マインドによる妄想です。
今はそれを実感できないでしょう。
あまりにも現実がリアルなため、そんな事は有り得ないと感じるでしょう。

しかし、明らかに妄想なんです。
真我の側に向き、そこにあって言葉によらない洞察をするなら、(定に入るなら)
そのリアルは造られたものであることがわかります。
リアルさえ、思わせられている妄想なんです。
思考による捏造なのです。

真実の自己側に立つには、簡単な事です。
思考を止めれば「わたし」はどこにも居ません。
一瞬でも「わたし」を思えば、それは思考です。

そうでなければ、「わたし」を放っておいて、それを観ることです。
「わたし」を観ている「観る者」は、思考に住んでいる「わたし」ではありません。
「わたし」を放っておいて、それを観るなら、
「わたし」は観られる者であって、「観る者」が、思考の外に居る事になります。

その観る者の立場に入ればいいだけです。
観る者は、あれやこれや思考しません。
ただ、感覚します。わかる事をわかるだけです。

そのコア(核)が胸にあります。
そのコアがハートです。

思考から離れて、思考を観るとき、人によっては「観る者」は背後に感覚する人もいるかも知れません。
あるいは、全面に感覚する人もいるかも知れません。
しかし、足に感覚する事はないでしょう。
お尻に感覚する事はないでしょう。

胸の中央、その位置の前か後か中央か、その辺にあります。
力む事無く、構えず、普通に、あ、ここか・・・と探ればわかります。

しかし、これは、わかってしまった人が探るから、あ、ここか・・・とわかるのではないか?
と言われれば、そうかも知れません。
でも、やってみるのです。
やってみ続けるのです。
やり続ける事がなければ、それはいつまでもわからないままです。

ちょっとでもそこに何か感覚できたら、とにかく味わうのです。
熱心に味わうのです。
まず、味わう事が思考を離れている事です。
「わたし」ではない、何かを熱心に探る時、「わたし」をつい、忘れているでしょう。
知らず知らずのうちに「わたし」を忘れて、熱心にそれを味わううちに、幸せな感覚、喜びの感覚が現れてきます。
執着によるそれ、欲によるそれではない、真実の愛がその幸せであり喜びなのです。

質問2
> 「胸でわかる」というのは、単なる身体感覚ではないんですよね。


身体の感覚を感覚している者は、だれでしょう。
あなたにとっての「わたし」です。マインドです。

それは思考によって感覚の種類を断定し、「わたし」が感覚していると思考します。
あなたが、あなたにとっての「わたし」に同一化している以上、それは身体感覚です。

ここで、「あなた」と言っているそれは、あなたとしての実存在の事を言っています。
あなたにとっての「わたし」は、あなたの実存在の狭い意味での何かではあっても、
実存在のあなたその物ではありません。

あなたにとっての「わたし」は思い込みの「わたし」でしかありません。
そう植えつけられた思い込みでしかありません。

もしも、赤ん坊のあなたが、他に人がいない世界に独りだけ放り出されて育つとすると、言葉も思考もなく育った事でしょう。

そこには、「わたし」はまったく無い事でしょう。
ただ、何かしら自己としての感覚はある事でしょう。
それは思考せず、ただ直観で身体を動かす事でしょう。
ただ直観で、状況を判断して行く事でしょう。
危険もそのような手法で回避して行くでしょう。

世界にあなただけが在って、言葉など知らなくて、直観感覚だけで世界と関わるなら、ただ在るだけがあなたです。

そのようなわかり方が、胸でわかると言う事です。
それは思考による知恵(ちえ)ではなく、彼方から溢れてくる智慧(ちえ)なのです。

そのような、全くの創られたてのアダムの状態が身体を持った状態での実存在のあなたです。
そうであるならば、身体を失う事は、ただ、世界が変容する事でしかありません。
そのような人がいたとして、そのような人にとっての生死は、ただ見える世界の変容でしかありません。
見える世界が変容するだけで、あなたの実体は、どうにも変化なく、ここに在るのです。

そのような胸でわかるわかり方ができないのは、言葉を得てしまった事によって思考に捕まってしまったからです。

思考でわかろうとするしか、もはやあなたには、わかり方が無いからです。

しかし、無いわけではありません。
思考を捨てればいいのです。
それだけです。

アダムに戻ればいいのです。
知識の実を食べる前の、神に導かれ、神と共に居たアダムに戻ればいいのです。

あなたが言葉による思考という実を食べたから、神を恐れ隠れなければいけないのです。

「わたし」になる必要など、ほんとうは無かったのに、お母さんも、お父さんも、家族みんなが、そして学校、社会が、「わたし」と「あなた」の関係を刷り込んだから、完全に「洗脳」されたのです。

目覚めとは、つまりその「洗脳」から解かれる事なのです。

「わたし」は、ほんとうは無いのであるから、思考は妄想なのです。

思考を止めるか、思考から離れるかすれば、「わたし」が消え、実存在の自己が残るでしょう。

胸に在るハートの向こうに、実存在の実体のあなたが在ります。
ほんとうはそれしか存在してないのです。

ハートには、わかる力、智慧が流れ込んでいます。
同時に、ほんとうの愛、ほんとうの幸せ、ほんとうの歓喜が流れ込んでいます。
思考に騙されて、「わたし」に居るから、わからないのです。

ハートの向こうに、実存在のあなたを見出すのです。
それが、神の正体です。

「神を求めるのなら、人間の中に求めよ。
神は、何よりも、人間の中に明白である。」

そのようにラーマクリシュナが言います。
まったくの事実です。
真実です。

目覚めた者のほんとどが、そう言います。
それが実感できるのです。

「わたし」を、それに差し出して、それを完全に受け入れて、それの言いなりになればいいだけです。
それの召使になればいいだけです。
それの道具になればいいだけです。
どうってことありません。
それというのは、神であっても、あなたそのものである事には違いないのですから。
それしか、あなたでは無いのですから。

 

 

2012-06-11

 

 

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