わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】自由意志はあると思ってもいい、しかし

自由意志について過去に質問がございましたので、重複しますが置いておきます。

自由意志は、「わたし」の立場で言われる事です。
そのように感覚するようにできているというだけの事です。
そうであるから、事実、「わたし」の自由意志はあるのです。

常識に従うのも自由意志です。
常識なんて世間の勝手な理屈だとして好きなようにやるのも自由意志です。

我々は、人生の中で様々な選択をしなければいけません。
迷い迷ったあげく、いくつかの選択肢からひとつを選びます。
これでいいのだろうか?間違ってはいないだろうか?と不安になりながらも歩き始めます。
そして、自分で選んだのだから進むしかないとか思うわけです。

しかしながら、過去を振り返り、現在までの流れを見てください。
それらは「自由意志」で選択して来たと言えるでしょうか?

あの時ああすればよかったとか、あんな事しなければよかったとか思う事もあるでしょう。

過去の苦しみも、悲しみも、自由意志による選択だったのでしょうか?
今の苦しみ、悲しみは自由意志による選択の結果なのでしょうか?
それともそれは、選択の誤りだったのでしょうか?

偶然とか、確率とか、我々は言葉にします。
しかし、現象が現れたという、はっきりとした事実が表面化したなら、それらはただ妄想です。
未来を妄想して、雨が降る確率10%・・・などとは言えます。
しかし、実際、降るか降らないかしかなく、降ったという現実の今に於いては、それは100%を示しているのです。

つまり、そうなるのだという事です。
そうなる事がそうなった・・・そういう事です。

自分の行動にあてはめて考えると、意思、思考、感情が、行動を左右するともとれます。
その条件によって、行動を決定しているように思えます。

しかし、誰もが自由意思で行動するのであれば、世界は整合がとれないのではないでしょうか。
命がいくつあっても足りません。
それは瞬間にカオス世界となるでしょう。

誰かが自由意志で行動しているとすると、別の誰かは激突を回避するように行動しなければいけません。
二人以上の人がこの時空の同じ座標を占める事はできないのです。

自分の意志で選択していると思い為しながら、そのように選択させられる力に我々は気づきません。
そのような流れの力があるのです。
そうする事に意味が現れていきます。
そうして結果的に、流れは間違っていなかったと後で知るのです。
あるいは、今は間違っていたと後悔しているにしても、後にそれを覆す意味が現れるのです。

その流れ、その意味を、「みこころ」と言うのです。

流れに運ばれて行きながら、意味が成就されて行くのです。

では、ほんとうにちっちゃな、どうでもいい行動については、それは自由意志ではないのか?と思うでしょう。
ちょっとタバコを一服・・・これも、大意に組み込まれた小さなエッセンスです。
小さな行動には小さな意味があり、その小さな意味が大きな大意を組み上げているという事です。
欠けてはいけないのです。

結局「自由意志は、自由意志と思わされ」、そのように思う事で流れが成就して行くという事です。
そうだから、「わたし」の立場では自由意思はあると言えるのです。
みこころが「わたし」に作用して、そのように思うのであり、思うから成り立つという事です。

そうでありながら、立場を「わたし」から離れて、神も含めて考えるなら、それはそのようにさせられていると言えます。

しかしながら、自由意志についてあれこれ思い為す事よりも、体験そのものに意味があるのだとも言えます。
自分の意志で行動しているかどうかより、体験で何を知り、何を学ぶかという事です。

これは、自由意志で行動している、あるいは自由意志で選択しているという思いが無ければ、成り立たないのです。
それがあるから、体験が成り立つのです。
自由意志だという離れられない思いがあるから、辛さ悲しさ、楽しさを味わうのでしょう。

オートマチックだと思うなら、そんなものは無意味となります。

「自由意志」が無ければ、自分の意志でやっているのではない、自分のせいではない、自分に責任はない、となってしまいます。
なんでもやれてしまいます。
ものすごく危険な、やってはいけない事をやってしまうかも知れません。
大量虐殺なんて、へっちゃらでやってのけるでしょう。

だから。

最初から自由意志はないのだという思いは、決して為さないように、できているのです。
選択で迷うように出来ているのです。
これは無くてはならない思いなのです。

ほんとうは自由意志ではなく、そのようになる事が既に図られています。
それがみこころです。
しかし、それは、そのための意味が明確に現れてから言える事です。

意味が現れ、過去を振り向いた時、はじめてわかる事です。
そうでなければならないのです。

神はそのように、間違いがないように仕組んでいます。
我々は、間違いだろうか?間違っていないだろうか?と迷い、選択し、行動に移し、苦楽を味わい、結果が成就するという一連の経験をするからこそ、知り、学べるのです。

最終的に神のみこころを知るから、救われるのです。
最初から、これもみこころ、あれもみこころ、いいのいいの、みこころなんだから何やっても・・・じゃ、成り立ちません。

だから言うのです。
今、苦悩にあるのは、輝かしい神の栄光を浴びるために経験しなければならない尊い課題の故だと。
誰でも既に救われていて、真実の愛によって護られているのだと。
神はいつも共に在って、あなたが在るのは神が在る証明なのだと。

この事をわかって、わかりつつ自分で選ぶ「自由意思」で行動して行きましょう。

何も間違っていない。
しかしながら、迷ってもそれも尊い

なんと、すごいシステムなのでしょう。
人間には考え付かない事です。

 

2012-11-29

 

 

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