わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】自由になって「ここ」に来てください

「わたし」は無い・・・というのは、「そのような心境になる」という事ではありません。
また、そのように思いこむ事でもありません。

「わたし」が有ろうが無かろうが、そのような事とは関係無く、「わたし」ではない真実実体に委ねてしまう事で「わかってしまう」理解があるのです。
「わたし」に縛られず、自由な存在になるなら、どんなに解放された喜びを味わう事でしょう。

自由な世界。解放された世界。

すごく単純な事です。

ほんとうは、「そのようなひとつ」しかありません。
不可分の真実実体です。

方法は、全く浄らかな、この上ない純粋な、思考を持たない赤ちゃんになればいいのです。

赤ちゃんが、初めて世界を見たその時、これは世界だ!などと思ったでしょうか?

ただ見ていただけです。

見えるものが見えた、それだけです。

それは思考の始まりです。
見たからには見た誰かが対になっているのです。
何か、行為者のようなものが、見るという行為をし、見えるという思考をしている。

ところが、

あかちゃんは、その一連の流れさえ、ただ見ているのです。

赤ちゃんの自己は、その行為者ではありません。
行為者である「わたし」は、行為と共に、その思考の中にいるのです。

その彼、つまり行為者である「わたし」は、有機体とともに自発的に現れた自我意識であって、赤ちゃんはその活動をただ見ているだけです。

余りにも彼の周囲がうるさいので、つまり、パパやママやそのような者達が、それぞれに「わたし」を主張し、「あなた」を押し付けるものだから、彼は事の最初から暗示をかけられてしまいます。

結局、彼は「生まれてしまう」のです。
そして、「死んでしまう」まで、「生き続け」ます。

そのような思考の流れの中で、彼は本質の自己を忘れきっているのです。

それは間違いではありません。
人は映画を、その主人公になりきって、あたかも体験するごとく見る事で、より深く映画の伝えたい意味を汲み取ります。

そのような思考の流れ(物語)が、意味も無く流れるはずは無く、そうであるから現れ来るのです。

それは知るべき体験であって、それが真実実体である本来の自己を、より豊かにしてくれるのです。

しかし、ある種類の人には、その思考物語を手放し、本来の自己に立ち戻り、その尊い滋養を真実実体の愛に還元しなくてはなりません。
それだから、真実を知りたいという、奥底からの激しいゆさぶり、衝動が起こるのです。

思考の行為者は誰なのか?

その問いは、行為者から離れなければ出ては来ません。

思考する行為者の立場を退き、行為について、思考について検証が始まります。

その時、「行為者から離れている立場」に気づいたなら、そのままでいてはいけません。
いつまでも思考、行為について検証しているから思考から逃れられないのです。

もう、放っておきなさい。

真実実体の存在に、そのまま混ざってしまうのです。

霧が薄まり、次第に辺りがその姿を現すように、二元を超えなさい。

赤ちゃんが、初めて世界を見ていながら、ただ見ていたように、見ている世界に頓着せず、ただ存在でありなさい。

気づけますか?

この喜びに。

愛に。

満たされていく、至福に。

解き放されて、自由になった喜びを、味わえますか?

わたしが知って欲しいのは、ただ「これ」です。

人が「これ」を知るなら、あらゆるものは幻であった事を悟ります。
すばらしい幻です。
意味のある幻です。
それは、結局、「これ」と同じもので現れる現象であった事を悟ります。

「これ」は不可分であり、ただ「これ」しかない事を悟ります。

「わたし」は無い。
ただ、思考があるだけです。

「これ」は神です。
「これ」はあなたです。
「これ」はわたしです。

気づきましたか?

現象界の身体の胸が、うずきますか?
快い、うずきを味わう事ができてますか?

それも「これ」です。

「これ」は不可分であって、「これ」しかなく、「これ」は「これ」で全部です。

だけど、このような事を、言葉ではどうしても伝えられない。

あなたが「これ」の、つまり「ここ」に来る以外、手段は無いのです。

わたしが言う「ここ」とは、つまり「これ」の事です。

「ここ」に来てください。

「ここ」です。

 

 

2013-03-21

 

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