わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】死ぬ必要などない!

かつて、とある宗派では地面に「入定穴」なる穴を掘り、生き身のままそこに埋められ、即身仏となると言う修行が流行したそうです。
命を懸けた究極の最終的苦行です。

籠に結跏趺坐で乗せられ、担ぐ弟子が穴の中に安置し、土を落としていくと、「死にたくない、死にたくない」と、この高僧の絞り出すような声に弟子は幻滅し、「このうえは恥とならぬよう、見事仏となられませ」と言うやりとりを、かなり昔に本で読んだ記憶があります。

死ぬ事が仏になる事だと誤解させたこのような行は、弘法大使の伝説に由来しているのでしょうか。
もちろん、空海にそのような事実は無く、伝承の改ざんによって広められた間違った教義だとしか思えません。

即身仏とは、全くこの身を持っていながら、生活していながら仏と成る人、人を超えた完成者と成る事を言うのであって、生きているか死んだかなどは、全く関係のない事です。

死を超越するとは、死を恐れずにそれに挑む事ではありません。
この惑わす世界と、真実の世界とは別もので、惑わす世界はただの夢だと、どうして気づけないのでしょうか。

この阿闍梨の「死にたくない」は、人として真実の言葉です。

神や仏を悟り得ぬ人は、怯えるエゴが言わせる「死にたくない」が、生きる事を支えていて当然であり普通の事です。
そうでなければならないのです。
なぜなら、「生きる事」には、生まれてきた者にしか無し得ない、尊い学びが有るからです。
みんな、そのために自ら望んで生まれてきているのです。

しかし、我々は人生の中で、様々な耐えがたい苦も味わいます。
そのような時、「死にたい」が現れます。

誰でも、人の心は弱いのです。
「死にたくない」を「死にたい」が超えてしまいそうになる事があるのです。

そのような事も、神の思し召しか?
予定されていた運命か?

そのような事を追究しても意味がありません。

大切な事は、「どんな場面も学びである」という事実です。

「死にたい」は、「このようなわたしは、無くなってしまえばいい」あるいは、「このような自分は無かった事にしてしまおう」という思いです。
そのような「わたし」に対する、否定と逃避の意味づけをしてしまうからそうなります。

ほんとうは、どのような死に方であっても、人は真実死ぬ事はできません。

否定と逃避によるそれは、どうしても学びからの目的を逸しているが故に、再びその学びを味わう事となり逃れられません。
それが単なる、有りもしない刷り込まれた価値観から作られた虚偽であると理解するまでは何度も巡り来るでしょう。

しかし、巡り来るその状態、その現実が、その価値観を放棄するだけで、瞬間に消え去り、目覚めのチャンスとなるのです。

洞察してください。

現れ来る様々な事が、周囲から刷り込まれた価値観によってジャッジされ、苦楽の意味づけをしてしまいます。

放棄すべきは、自我ではなく、その価値観です。

価値観が欲を起動させ、欲によって行動を引き起こす思考が起こります。
その体験、あるいは疑似体験によって、満たされぬ心を満足させようとします。
つまり、思考だけで我慢できる場合と、行動を伴わないと満足しない場合があります。

人はその狭間で揺れるのです。

もしもその価値観を一切手放したら、どうなるでしょう。
世間の常識や当たり前が、刷り込まれた真実の価値では無い事に気づいたなら、何にこだわる事があるでしょう。
であれば、どんな欲にも翻弄されてしまう事もありません。
それに由来する思考も、行動も、もう起こるはずがありません。

そうであるなら、「死にたい」も「死にたくない」も、どちらも意味を成さなくなります。

そうであるなら、残るのは、「死ぬ必要などない」になります。

全く、死ぬ必要などないのです!

それが必要な時は、神がそのようにしてくれます。
自分はそれに任せていれば、あれこれ難儀する事無く、そうなります。
誰でもそうやって、そのようになって行ってるではりませんか。

死など、どうでもいい事です。

そのまま生きて、生き続けましょう。
まだ、学びの途中です。
終わっていません。

まだ卒業できないのです。
今生で卒業できるように、学ばなければなりません。
それとも、また落第して、同じ授業を繰り返しますか?

卒業は神の恩寵です。
ハートに印が現れます。
価値の有るものだと思っていたその無価値な瓦礫、つまり思い込みによるカルマを取り除き捨て去って、恩寵が降りてくる通路を磨き上げるのです。
カルマとは価値観そのものの事です。
それが通路を塞いでいるのです。

掃除し、浄められた通路を通って、そのハートから恩寵が現れます。

それは全く、安らぎと喜びで満ちていて、愛と慈悲を伴ってやって来るでしょう。

あなたは絶対、歓喜の中で泣くでしょう。

そのような真実の幸せのために、あなたは苦を味わっているのです。

ジャッジする価値観を捨てて、思考を波紋のない水面のように穏やかにし、「わたし」の全てを、あの絶対者、神に委ねるのです。

結局はゴータマもシャンカラチャリアも、みんなそのようにして、あの高みに昇ったのですから。

味わってください。

この味に、酔ってください。

愛と歓喜と感謝の中で、安らいでください。

 

 

2013-04-01

 

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