わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします「お金ってなに?」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

お答えします「お金ってなに?」

 

KPTさんからの質問です。

> 花岡さん、みなさん、ごぶさたしております。
質問したく、コンメントをさせて頂きました。

質問内容は「お金とはいったい、なんなのでしょうか?」 
花岡さんは、お金をどのようにとらえて、いらっしゃいますか? 

私は今まで、生活が出来るだけのお金があればいいと思っていましたので、お金がいったいなんなのか、意識したことはなかったのですが、いくら働けど減ることがあっても、増えることがない状況になり、初めてお金とはいったいなんなのか?ふと、疑問に感じました。

消費税の税率アップ、資本主義の象徴である購買意欲を煽る過剰なまでの宣伝広告。
そして、世の中の多くの人がお金で悩み、翻弄されているように見えます。

スピリチュアルを説く(生業にしている)方々のほとんどが、「今、実際に手元にお金がなくても、お金はある。」とおっしゃっていますが、私にはまるで禅問答で、腑に落ちません。

つたない、質問で恥ずかしいのですが、お答え頂けたら幸いです。


お金ですか・・・。

KPTさん、お久しぶりです。たいへんお待たせ致しました。
お金の問題は、重大です。

お金のために、比べられようも無い大切な尊い命が奪われ、人々の信頼は崩壊し、全てが敵になっているのですから。

ですが、わたしは最早、お金に執着しておりませんので、どうお答えしましょうか。

お金はつまり、ただの道具ですけれど、(物が)欲しいという心が人の中にある時には、それは欲の象徴として絶大な力を有している訳です。
お金は人々の欲から排泄される執念やら怨念やらがまとわり付いていて、真剣に考えるのさえ、汚らわしいという程の存在です。

そのように言えば、きれいごとだと言われるかも知れません。
しかしわたしは、欲を持たない潔い(いさぎよい)人に出逢いました。

わたしは、彼に感化され、自らの薄汚い欲をありありと観る事が出来たのです。
わたしは恥じて、欲を捨て、清らかな者に立ち帰ろうとしました。
その姿勢を崩す事は無かったのです。
そのおかげで、得難いものを得るに至りました。

いつだって必要なものが与えられる。
いつだって必要な起こる事が起こる。

今までは、あるがままの現れに、惨めさや嫉妬など、エゴの意味づけで「あるがまま」を否定し、抵抗し、逃避して、未来に希望や理想を妄想していたのです。

わたしはデパートの玩具売り場で、買ってもらえない事に腹を立て、仰向けになって手足をバタバタさせていた子供だったのです。

今与えられている「あるがまま」を、たったの一度も見る事が無かったのです。

運の無さを否定せず抵抗せず、受け入れて、それが現れるに足る意味を知らない事には、なんのための現れか。
未来に希望を理想を持つ事が大切なのではなく、それは「今のこのあるがまま」にある尊い意味、なぜこれが必要なのかを悟る事無く、希望や理想との隔たりによって、葛藤苦悩を更に深めるだけのブラフだったのです。

わたしは「お金が無い」この現実を、受け入れる選択をしました。

靴が無くても、足は靴に勝る。服が無くても体は服に勝る。
何かを得ようと思い為す事をしない花も、美しく咲く事ができる。
与えられるまま受け入れる鳥は、大空を自由に飛んでいる。

全てイエスの言われるとおりなのだから、受け入れて潔く、流れを否定せず抵抗せず流れて行く事が、神に辿り着く最も近い道なのだと理解したのです。

それでわたしは、自由を得ました。

今わたしは、自由です。

未来からも理想からも希望からも、それによる現実とのギャップからも、それによる葛藤からも、自由です。
受け入れる、現れに任せる、これだけでこんなにも、軽くなれるのです。

後は現すあの方が、どうにかしてくれます。
どうにかなるのです。

人は、どんな時にも、必ず絶対、どうにかなって行くものです。

わたしはすごく貧乏で、無駄遣いとか出来ないのですが、それでも必要な物資はなぜか集まってきます。
それでまあ、このようなネット環境も使わせて頂いている訳で、コーヒーも美味しく頂いております。

今、足りているからそれでいいのです。
また、いつか足りなくなって、飢え死にするのであれば、それもいいし、むしろ楽しみでもあったりします。

全て、現してくださる根源にお任せして、与えられるものだけ頂いて、命を召されるのであれば、差し上げます。
わたしとは、そういう者で居られる事が、幸せなのです。

それで日々、この至福に預かっているだけの、まあチッポケな存在な訳です。
そのようで居る事が、とても嬉しいのです。
なぜなら、命よりもっと尊いものを、有難いものを与えられ、頂いたからです。

スピリチュアル系の先生方が、「手元にお金がなくても、お金はある」と申しておられる事については、わたしはわかりません。
お金自体に縁がございませんので、計り知れない理論です。

それでも、何かしら意味があっての言葉なのでしょう。
先生に直接聞かれるのは、大切です。
言った本人はよくわかっておられる事でしょうから、ぜひ聞いて頂き、わたしにも教えて欲しく思います。

ところで、よく質問されるのが、目覚めた人とお金の関係。
みんな、そのへんが気になっているようです。

単なる金儲けなんじゃないのか?
こんなにお金費やしてるのに、なんで悟れないのだろう。詐欺?

あちらでも、こちらでも、ヒソヒソ話が聞こえて来そうです。

わたしは営業(?)を一切しませんので、どういうつもりでその先生方が会費、参加料、講演料、印税、その他金銭を得ているのかはわかりません。

しかし、人はたとえ、目覚めたとしても生活して行かなければならないのですから、お金は必要でしょう。
先生方も、生きておられるのですから。

セミナー参加者が、例えば期待した程の事が得られなかったとしても、それは期待が膨らみすぎた為のギャップかも知れない。
また、全くの偽先生であったとしても、今後に見る目を養ったと思えば、それなりに得られたのですし。

効果が得られないのは詐欺ではないか?と言いたい気持ちも、真理を商売にしていいのか?という気持ちもよくわかります。

それなら、そもそも、聖なる気づきを、お金で買おうとしたその人は責められる事は無いのでしょうか。

シュリ・ラーマクリシュナは、大勢を前に教えても、帰りの馬車賃5ルピーさえ受け取ろうとはしなかった。

ほんとうは、聖なる教え、尊い悟りは、商売にしてはいけません。
お金の故に真理を汚してはいけないし、教えられるほうもお金で買おうとしてはいけません。

しかし、商売ではないお金のやり取りはあってもいい。
それは時間を割いて労してくれた先生に対してのねぎらい、感謝として布施されるのであれば、構わないのではないでしょうか。
指導者を養い(供養)するのは神への奉仕だからです。

しかしながら、わたしはこうも言います。

真の指導者は、そもそも指導しようなどと思わない。
ただ、求める者に与えられるものを与えるだけだ。
救える者を救いたい、ただそれだけの想いがあるだけだ。
神のみこころと同じ想いが、そこにはあるだけだ。
決してお金を求めたりはしない。
見返りを期待したりはしない。

まあ、双方、商売として考えていないのであれば、それでいいのでしょう。

人々の頭の中は、お金の事でいっぱいで、真理を観る事は無い。
引き寄せの法則は、人々の欲の法則である事を誰が思うだろう。
お金儲けの成功者が納税高を自慢しながら悟りを伝授する異様な風景。
この世界は不思議で満ちている。

ラマナもラーマクリシュナも、ボロ切れ一枚で暮らしていた。
とても貧しく、貧しさを嘆く事もなく、それだから神の愛に満ち溢れて、それは輝くばかりの聖者だった。

そのように生きろとは言わないけれど、欲を持っているうちは絶対悟る事などできはしない。
欲の大きさだけ、悟りは彼方に遠のいて行く。

悟りたいというのも、欲に他ならない。
悟りたいを捨て、ただみこころに身を委ね、運ばれるまま受け入れるなら、それは既に得ているのを知るでしょう。

お金に関して申し上げるのは、とても気持ち悪いです。
いきなり俗世間に、どっぷり浸かっている気分です。

これでどうか勘弁してくださいませ。

お金儲けが悪い訳ではございません。
それで国家経済も廻って行くのですから。

皆様、誤解なさらず、断定せず、裁かず、健やかにお過ごしくださいますよう。

 

 2014-04-22

 

 

 

[質問者KPT]お答えを頂きありがとうございます

花岡さん、こんにちは 
ご返答を頂きありがとうございます。 

残念ながら、スピリチュアルの先生方に質問をすると「お金があるとはどういうことか?知りたいなら有料セミナーに来て下さい」 
と言われます。 
ビジネスなので、知りたいことはお金と引き換えですよと、言われます。 

私もお金には執着はありません。 
なので、お金=道具であり商品券などと同じ感覚でしか捉えられません。 
もう少し言うと、日本銀行券と印刷された紙でただの、引き換え券と言う感覚です。 

それに、翻弄されている人達が不思議でならず、今回は質問をさせて頂きました。 
ここからみたら、それはとても不思議で奇妙なことでした。 

花岡さんに、不快な思いをさせて申し訳ありません。ですが、同時に花岡さんのお答えと私の感じていたことが違わず、とても安堵いたしました。 

最後に花岡さんやこちらの読者の方々のお陰で、得たことを、コメントさせて頂きます。 
何かを求めているのは常に自我だけです。 
例えば、明け渡したいと言っているのは、思っているのは誰でしょう? 
常に道を迷わせているのは誰でしょう? 
それに気がついた時、私は大笑いをしていました。 
いつだって、ここに居たのに。そこにいこうとしていたことが、滑稽でなりませんでした。 
そして、花岡さんが過去のブログでおっしゃっていたことが、すべて、腑に落ちました。 

花岡さんそして読者の皆さんに、感謝の気持ちで、いっぱいです。 

一度では、コメントをしきれないほどの、気づきをえましたので、また機会がありましたら、コメントをさせて頂きたく思います。 

ありがとうございました。

 

[読者匿名]はじめまして、こんにちは。 

>お金に関して申し上げるのは、とても気持ち悪いです。 
>いきなり俗世間に、どっぷり浸かっている気分です。 

俗世間で生きている人たちと私は違うと 
思ってらっしゃるのでしょうか。 
まるで俗世間にどっぷりつかった人のような発言ですね。

 

[読者HN]え。

「お金はただの道具」なのに「汚い気持ち悪い俗世間の悪しき物」ってレッテル貼りまくるんですか?

 

[読者TN]バランスをとる

私はこういう考え方をしています。こじつけかもしれませんが。 

お金(その他物的なもの)を稼ぐために努力はするけど、それが手に入らなくてもなんともない。 

結果にこだわらないという屁理屈のようなものなのですけど。 

欲がなくなることはないんですけど、そこに気づきを入れればスッと消えていったりします。

 

 

お答えします「賢者が授けるもの」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉を最後に付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

お答えします「賢者が授けるもの」

 

非公開さんから頂いた質問です。
順番に掲載していたら、とんでもなく遅くなってしまいました。
ごめんなさいね。


> はじめまして、深い言葉をいつも楽しく読ませて頂いております。

以前から気になっているのですが…
私は、パパジやムージの動画が好きで、よく観ています。
それらを観ておりますと、何かを得て笑い出す人たちが結構います。
この方達には、何が起こっているのでしょうか?
一時的な体験なのでしょうか?
目覚めのはじまりなのでしょうか?
完全に目覚めたのでしょうか?

それから、もうひとつ不思議に思うのは、
私の知る限り、サットサンの同じ場所で、同じ話を聞いている周りの人たちが、
何かを得て笑い出すようなことが無いように思われます。
覚者が、直接話をする人に対して、
なにか共鳴(共振?伝染?)のようなことを起こしたりすることが可能なのでしょうか?
それが恩寵と呼ばれるものなのでしょうか?

お忙しいかと思いますが、もし機会がありましたら花岡様のお話をお聞かせください。
公開していただいも結構です。


動画のいくつかを見てみましたが、そのような場面はありましたね。
ですが、実際にその場に居合わせた事も、直接パパジやムージとお話をした事もございませんので、よくわかりません。

わからない事をわかったふりをして語るのもどうかと思いますので、ほんとうはこの質問は辞退致したく思いましたが、せっかく質問頂きましたので、あくまでも推測ですが、たぶんそうではないだろうか?というところを言ってみます。

例えば、小学校の教室。
悪ふざけが過ぎた児童を、先生がたしなめる光景。

先生は正しい事を伝えようと、その子の眼を見て話します。
お説教されてる児童は、自分のした事だから、とりあえず受け止めるでしょう。

そのとき、他にも児童が大勢いるにも関わらず、そこは二人の特別なフィールドになっている事でしょう。

他の児童は、あくまでも観衆であり、自分は関わっていない、つまり当事者の立場ではないと思っているでしょう。
他人事(ひとごと)として見ているのです。

しかし、先生とその子には、1対1の空間。

先生は言葉と意識の多くを、その子のために伝えようとします。
その子は、この場面はバツが悪いと思いながらも、真剣に聞かざるを得ません。

このシチュエーションが、とても大事だと思うのです。

周りに何人居ようが、1対1なのです。

同じパパジの話を聞いていても、周囲の人と、向き合って聞いている人は受け方が違うのでしょう。

その人のために、師は意識を言葉に乗せて、誠意を以て説いているのです。
向き合って聞く人は、自分のために説いてくださる、のであれば、一言も聞き漏らすまいと真剣になるでしょう。

講演会などで話を聞いても、あまりよくわからない場合が多いと思います。
CDとかで聴いてるのと、大差ないほどかも知れません。

師が弟子に伝える時は、1対1でなければならないと思うのです。
それは、どうしても真剣でなければならないからです。
その時、言葉に乗せた意識も受け取れると思うのです。

そうであれば、説かれる話の途中で、それはまるで一瞬の閃きのように、「あっ!そうか」が現れます。
「わかるちから」が働く瞬間があるのです。

あの突然の笑いは、その時の感動やら驚きによる笑いのような気がします。

パパジが、「あなたはどこにいますか?」と言えば、自我とは違う、思考や想念とは違う、それから離れた静寂な場所に気づいてしまう瞬間が現れるのでしょう。

わかっている者が、このわかっている意識を乗せて、言葉を送るから受け取れるのではないでしょうか。

わかっていない者が、同じ事を言っても、たぶん「う~む・・?」となるのではないでしょうか。

確信というパワーの差かもしれません。

意識の輻射、それが1対1の場合、指向性が強くなり、送り手と受け手は意識で繋がりやすいと思われます。

しかし、それはその時何かがわかったとしても、時間が経つにつれ、マーヤにかき消されて行くかも知れません。
あの時のあの感覚は何だったのだろう、みたいになって思い出そうとする程にマーヤの干渉を受けていくでしょう。
なぜなら、自我に住んでいる「わたし」の立場を離れない限り、そこはマーヤでしかないのです。

目覚めたのではなく、揺すられた、状態であり、それが恩寵なのではありません。

共鳴とか共振とか言えるかどうかは、わたしにはわかりません。
そのような言葉を使う方がいらっしゃいますが、わたしには何を言っているのか実はわからないのです。

わたしの見解は、そんな事は全く関係なく、伝えられるし受け取れるのでしょう、と言う事です。
互いの意識の同化、あるいは同一化のような、現象と言いますか作用が働く、言ったら意識同士が握手したような感じです。

恩寵は外の師から与えられるのではなく、内なる師、内なる真我によって、自身の在り方、変容の状態によって受け取れる状態になった時、与えられるものです。

またそれは、欲しいから与えらるのではなく、いらなくても与えられてしまいます。
そしてまた、欲しい人にはどうしても欲しいを捨てない限り、与えられません。

小さな利己的な欠片も残さず、浄化され、純粋な者、真っ直ぐな者、天真な者、許せる者である事が必要です。

また恩寵の喜びは、もっと違うと思います。
喜びと感謝に、ハートが震えて、泣き出さずにはおれなくなるし、笑わずにはおれなくなります。

「ここ」がわかるし、「ここ」にいつでも居たくなります。
身体の事は身体にまかせ、自我の事は自我にまかせ、自分は「ここ」に居る。

身体を失って後も、自分は「ここ」に居る。
ここが在る。
在るここに、いつも居る。

「ここ」に居て、世間を見ると、自我たちの日常、その見え方がまるで違うような感覚です。

それはまるで、違う生き物になったような気さえします。
というか、あらゆる生き物を、人間とか犬とか鳥とか虫とか分けて考える事が無く、自分もそれらも同じように命を生きる生き物として、分け隔てなく思ってしまい、尊敬さえできます。

名前を付けてラベリングするのが、とても不思議な行為に思えるのです。

どんな命達も、愛おしく思えるのです。

恩寵、それはやっぱり、明け渡してしまわない限り、頂く事は出来ないのだと思います。
別に言えば、明け渡しができさえすれば、誰だって恩寵が頂けるのだ、と言う事です。

また、やがてはそうしてしまう場面に、出くわしてしまうでしょう。
そういう流れになっているのでしょう。

だから、結局は、誰だっていつかは真我に帰るのです。

いつかは、です。

でも、確かです。

 

2014-04-26

 

 

 

[質問者]ご返答いただいき、ありがとうございます。 


「二人の特別なフィールド」 
「1対1の空間」 

まさに、これは確かにそう感じられます。 
まわりの人たちも、自分の”もの”にしようと聞いているとは思われますが、 
やっぱり、全然違うのでしょう。 


「わかっている者が、このわかっている意識を乗せて、言葉を送るから受け取れるのではないでしょうか。」 

これも本当にそう思われます。 
ムージが、動画の中で、目覚めを体験した人からの手紙を読んで、 
「この手紙と同じ文章は書けても、この”香り”は出せない」 
と言っていたのを思い出しました。 



「明け渡し」 

正直、今の私にとって、この「明け渡し」という言葉は、理解できない抽象的な言葉として終わってしまいます。 
「ゆだねる」といった言葉に対しても同じです。 

「思考」「感情」から離れる感覚は掴めたものの… 
そこには、解放感や静けさはありますが、喜びのようなものは感じられません。 
そして、やはり、自我の”意思”、”コントロール欲”のようなものは残ります。 

長くなってしまいましたが、改めてお礼申し上げます。 
花岡様の文章が、私に良い影響を与えてくださっているのは確かです。 
本当にありがとうございます。 


最後に笑いの起こる動画について… 
質問の時に記載すべきURLでした、本当に申し訳ありません。(^ ^; 

ムージ動画(日本語字幕表示できます。) 

http://www.youtube.com/watch?v=ddGv3woCogM 


パパジ動画(日本語字幕表示できます。) 
 

 

人を苦悩に陥れるものは 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのやりとりも付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。
 
人を苦悩に陥れるものは
 
幼子には無くて、おとなには有るものはなんでしょう。

常識です。当たり前と言われる価値観です。道徳です。規律です。

幼子は、そのようなルールがないから、無心で、無邪気で、天心で、嬉々としています。
それだから、体験であらゆる事を学べます。
しかし、成長に伴い、言葉を覚えると、親は自分の価値観を刷り込もうとします。
親もそのようにして、価値観を刷り込まれて来たからです。

だれも、自分で体験して得た価値観ではありません。
それなのに、それを当たり前として、自分で知ったがごとく、人にも強要します。

その価値観で、相手を評価し、ジャッジし、断定します。
価値基準に合わないと、無視し、嫌悪し、阻害し、排他しようとします。
その価値観で、自分が評価され、ジャッジされ、断定されます。
価値基準に合わないと、無視され、嫌われ、罵倒され、受け入れられません。

人は、まったく、自分に都合の悪いものを否定し、都合のよいものを肯定する、
エゴな価値基準を、代々継承し、押し付け、刷り込んで来たのです。
苦悩というのは、その価値基準、価値判断、そこから現れてきます。

価値観が、人を裁きます。
価値観が、自分を追い込みます。
価値観が、相手を許しません。
価値観によって、自分が苦しみ、悲しみに暮れているにも関わらず、それに全く気づきません。

苦悩の元なら、手放せばいいのに。
それが自分を支えているがごとく、握ったまま離そうとしません。

本来、人は自由なのです。
自由に生きて、なおかつ、教えられなくても体験から知り、善悪の判断はできます。
助け合い、支え合う事に誰でも喜びを感じます。
愛し合うことに幸せを感じます。
本来人は、自由に生きて、助け合って生きていけるのです。

そうであるなら、ほんとうは国という囲いもいりません。
政府もいりません。
まったく税金など納める必要は、ほんとうは無いのです。

しかし、エゴが価値観をつくりだしました。
価値観が争いの元です。価値観が苦悩の元です。
法律が必要なのは、価値観で相手を判断し、受け入れられないものを排他しようとするから必要になります。
価値観とは、そういうエゴから生まれ、価値観に対抗するために、また価値観を持ち出します。
まったく道徳が価値観です。規律が価値観です。
本来必要のないものであって、価値観が価値判断するから、道徳という価値観で価値観を見張らなければならないのです。

価値観が、人は誰でも同等で平等で上下なく優劣もないという、極当たり前の事を見えなくし、誰をも悲しみと苦悩に陥らせます。

親と子は、人として同等であり優劣がないのに、親を敬え、従え、感謝しろ、養え、と価値観が言い張ります。
ひとりで大きくなったわけじゃないだろうと恩着せがましく言っても、子を養う責任と義務を負うべきなのは親なのです。
子にあるのは、ただ権利だけだという事を、親はどうして気づかないのでしょう。だから親子は対立するのです。
企業主は対価を払い、社員は労働力を提供し、同等であるのに、上下関係があるのだと言い張ります。
その価値観が、労使関係を悪化させます。
夫婦は、お互いを支え合い、苦楽を共にするべきなのに、主従関係があるがごとく言い張ります。
その価値観に違和感があるから言い争います。

あらゆる苦悩が、ありもしない価値観から生まれてくるのです。

価値観が、自分自身を苛(さいなみ)ます。

これはいけない事だ。これはやらなければならない。善だ、悪だ。優だ、劣だ。
そのような基準はないにも関わらず、マインドが価値観をもって自分も他も非難します。

やりたいなら、やればいい。
やりたくないなら、やらなければいい。
それが、自分の内側から出てくる衝動なら、それでいいのです。
なにが間違っているというのでしょうか?
ありのままの自分なら、なにも間違っていません。
ありのまを、歪曲して見る基準が、価値基準です。固定観念です。
ありのままを、ありのままに見るなら、そこにどんな判断も、断定もありません。

全ての苦悩は、マインドのレベルで思考する、価値基準、価値判断という、価値観にあるのです。

そうであるなら、今すぐ手放せばいいのです。
なんと見え方が違ってくる事でしょう。

価値観、常識、当たり前という固定観念ももっている限り、それに支配され、自我の牢獄の中で、不幸な自分でいなければなりません。
そこに絶対的に悟りは無いのです。

もし、本当の自分、真我に気づきたいのであれば、代々受け継がれてきた価値観をまず、手放さなければなりません。
それは悟りを遠ざける自我の鎧です。
それを捨て去れば、もう争いも、非難も、悲しみにくれる事もありません。
普通の事を普通に受け入れられます。
なんと自由な解放感を得られるでしょう。

人は気づけば、だれでも幸せなのです。
こうすれば幸せになれるという、様々な手法を提言する人がいますが、それは価値観で捉える幸せです。
ほんとうの幸せは、だれでも今、ありのままで幸せだという、この幸せです。
取りに行く、手に入れる、そのような幸せは、不幸も共に手に入れてしまうのです。
紙の表だけ手に入れる事はできません。裏も一緒に、そこにあるのです。
ほんとうの幸せには、理由も条件もありません。
ただただ、ほんとうに幸せなのです。
その幸せが、ここ、ハートから溢れてきます。
源泉から、溢れてくるのです。
ジャッジする価値観、断定する価値観を、捨てるだけでいいのです。
幼子に、それを学んでください。
 
 

2012-05-20

 

 

 

[読者T]花岡さん、みなさんこんにちは。 

この幼子ように信頼し、明け渡すが多分みんなの最後のピースなような気がします。 

みなさん、自分の問題は人はそうでも自分は違うと思いがちですよね。 

私だってまだまだ問題山ずみですよー。 

でもね、自我にはまりそうになるけど、今は前とは違うのは自覚しています。 

一人で背負ってるような、孤独感もないし、私の中に居る私を頼りに、問題(幻想)と向き合ってます。 

私たちはみんな、より良い暮らし、願望実現、幸せになるために、戦って、神経擦り減らし、ひとつ願いが叶えばまた次の願いを…と際限がありませんよね。 

でも幸せは探さなくても今ここにあります。 

願望を叶えるためにエゴと戦い、苦しみながら叶えなくても、エゴを手放せば、全てはここにあります。 

このエゴを手放すのが、できなくて、またエゴにはまり苦しむんですよね。 
みんなこれができなくて苦しむんですよね。 

全てを失うような、裏切られたような、不安や恐れが邪魔してすすめないんです。 

私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 
諦めず、何度でも、やります。 

途中、自分を卑下するような言葉も浮かびますが、それも受け入れただ気付いてそのままにしておきます。 

時間は問題じゃありません、すると、必ず安堵感でいっぱいになる時があります。たとえ僅かでも、かいま見えたら後は、続けて行けば、段々自分がエゴにコントロールされなくなります。 

全てがここにあるとわかった時、向こうから、問題解決がやって来ます。 

願望も自然と叶うんだと思います。エゴに惑わされて願望実現しようとすると、実現しないか、叶っても不幸と抱き合わせだったりする気がします。 

私たちの本来の目的は、神のシナリオ通り、神じゃないものを経験しながら、神に還る、幻想の中を旅してるんだと私は思ってます。 

だから本当はどこかでわかってるのかもしれないですね。 
本当は全て叶ってる事を。だから、目覚めると不思議と願望が無くなるんですよね。 

幼子は全てわかってるんですよね、見てるとわかります。 

私もずいぶんと子供たちに自分の理想を押し付けてしまいました(反省) 

私も幼子のようになって明け渡します。 

源泉かけながし露天風呂でみなさんと一緒に。

みなさん、いつもコメントありがとう。 



[花岡]Tさん。 
この力強い、確信に満ちた文章に、感動しております。 

これは、わかってしまった人でないと、言えない言葉です。 

すばらしい事です。 

目覚めが、みなさんにも波及し、連鎖していきますように。 

これからも、サポートよろしくお願いしますね。 

みなさんも、他人事じゃありません。 
ぜったい、目覚めていきます。 
ハートのチャクラが開き、溢れる愛を、至福を味わうことになります。 
焦って取りにいかず、ただ、あるがまま受け入れて、自分の全てを明け渡す。 
それだけで、それは向こうからやってきます。 

Tさんのように、なってしまうんです。 

 

*この「読者T」は、以下の記事で取り上げられた人。コメント欄の常連の一人だ。

shikoutoshi.hatenablog.jp

(ブログ管理人より)

 

[読者A]Tさん、みなさん 

先日はいろいろとアドバイスありがとうございました。 

でも、私が苦しいと思うのは、やりたいことではない(あるいは、あとで後悔する)のに止められない。 
反対に、やりたいと思っている(あるいは、やらないと後々不都合が生じるであろうから、やらなきゃと思っている)ことが出来ない。 
だから、≪苦しい≫ということなのです。 

最近は、ごく簡単なことさえ出来ないことが多いです。 
例えば、外に散歩に行くとか。 
あるいは、夜寝ようと思っても、なかなか布団に入れない。 
それで、とても不健康な生活になってしまいます。 

ところで、Tさん 

>私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 

「起こるがまま」というのは、「思考が起こるがまま」ということでしょうか? 

ここでは「出来事が起こるがまま」という意味ではないですよね。

 

[読者T]こんにちは。 

思考も出来事も両方ですよ。 

出来事をそのままにして問題になる事って本当にあるのか、可能性はひとつじゃないのではないか、起こる事なんて、誰にも予測出来ない事だから、だから、あるがまま受け入れるのです。 

どんなことが起ころうと、私はあるがまま受け入れる。と決意すればいいんです。 

Aさん、言葉は単なる記号です、ラベルと同じですから、あんまり深く考えず、その後ろにある意図を感じてみてね。 

しなければならない、こうあるべき…などAさんを縛ってるエゴに気付いて、どんな小さな事でも、絶望的な大きな事でも同じです。 

あるがままにして、感じてみて下さいね。 

エゴ(思考)に抵抗するから苦しいんです。 
だから信頼し、起こるがままに受け入れ、そして自分の一切合財明け渡すんです。 

やらなければ、わからないまま、同じ所をぐるぐるですから、やってみて初めて、「なーんだ、何にも悪い事なんて起きやしなかったわ」ってなると思いますよ。

私たちの生活自体が明け渡しの生活で大丈夫なんですよ~。

 

[読者A]Tさん 

ありがとうございます。 

ただ、「言葉にとらわれるな」と言われても、 
ここでは言葉(文字)を介してのコミニュケーションしかしてないのですから、 
私にとっては「無理な話」という感じなのです 
(でも、直接会って話しても大して変わらないかもしれませんが・・・)。 

「あるがまま受け入れる」 
出来事に関しては、これが難しいですね。 

自然現象ならば、「仕方ない」と、だいたい受け入れられると思うのですが、難しいのが、他人のやったこと。 

あとから、「ああすれば防げた」と後悔します。 
それから、もう一つ大きいと思うのが「恨み」の感情です。 

この「恨み」が、ふとしたときに顔を出し、いつの間にか恨んでいる自分になっている。 
そんなことが、一日に何度も起こっているように思います。 

「思ったことができない」というのも、この他人(特に家族)に対する恨みとか、感情のわだかまりが消えないために、スムースに行動することができないという部分があるように感じます。 

それから、たとえばPCのゲームにはまってしまう、というのも、そういう自分の心を見つめたくないので、逃避のためにしてしまっているのでは、とさっきふと思いました。

 

[読者T]Aさん 

その気持ちよくわかりますよ。 

でも、どんな気持ちも、ちゃんと感じてる事に気付いてるじゃない? 

起きてる事や、沸き起こる思考がどんな事かは、問題じゃないんですよ。 

その時のAさんの気付く気持ちが大切なんじゃないかしら。 

気付いて感じる事は出来てるのだから、後は抵抗しなければいいと思うの。 

何にも恐れる事なんてないですから、花岡さんが、言ってるように、源泉に明け渡すと、本当にちゃんと面倒見てくれますよ。 

夢や幻やまやかしじゃなくて、こっちが唯一のリアルな世界なんですよ。 

エゴが幻想だと気付くのは、今までのものを全部ひっくり返す、否定する 
事だから、なかなか出来ないかも知れないけど、 
何度でも、やってれば、必ず、愛や意識が拡がっていきますよ。 

源泉を説明する言葉って難しいですね。 
意味付けは個人でそれぞれが考えていい自由も与えてくれたんですね。 

自由に楽しんでやりましょうね、お互いに。

 

[読者A]Tさん 

ありがとうございます。 

以前「『自分には来ない』と思ってると、本当に来ない」と教えていただきましたが、 
それでもやっぱり「自分には来ない」とどこかで思ってる自分がいます。 

極端に言えば、「私以外の世界中の人たち全員が目覚めたとしても、私だけには起こらない」みたいな・・・。 
そういうふうにさっき思ったんだけど、今こうして書いてみると、そこまではひどくないかな~と思ったりして。 

でも、何だかとにかく、 
「私以外の世界中の人たち全員が幸せだったとしても、私だけは不幸だ」みたいな思いがどっかにある感じがします。 

今、自分が、ある状況に閉じ込められている、縛り付けられているように感じる。 
そこから抜け出したい。幸せになりたい。 
でも抜け出せない、動けない、みたいな。

 

[読者T]花岡さん、みなさんおはようございます。 

Aさん 

私もまったく同じく、自分だけには幸せは来ない、目覚めなんて遥かな夢だと思ってました。 
でも、これこそ幻想ですよ。 

「自分には来ない」と言う思いも全て受け入れ、感じて下さい。 
感じて、感じて、それでもまだ苦しい、何にも変わらない… 
一生懸命感じても、自分にはやっぱり来ないんだと思いますよね。 
もう限界だ…もう嫌だ…どうにかしてくれ…となったら明け渡す時です。 

自然と出来ますよ。やろうと思っても出来ないので、とことん苦しみを感じ、もうダメだ!となるまで味わい尽くして、感じると、不思議な事が起きますよ。 

何だか魔法みたいでしょ? 

焦らずに…今苦しみの真っ只中に居ても、意識をずらすとちゃんと幸せな自分が居ます。 
それじゃなかったら、私達は今ここには居ませんから。 

身体に力が入って肩が上がってませんか? 
リラックスしてねぇ。