わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

探求者の次の一歩 花岡修平 「真我が目覚める時」

*これも読者の質問に答えたもの。

 

探求者の次の一歩

 

あなたに現れたもの(事業の失敗、葛藤)が、なぜあなたに現れたの

でしょうか。

なぜに、あなたなのでしょうか。

それをあなたが求めなかったとしても、
あなたに必要だったから現れたのだとは思えないでしょうか。
与えられる事になっていた必要な事象が、

与えられてしまったのではないでしょうか。

その事で何を味わったのでしょうか。
焦りと苦悩、事態を何とかしようとする戦いと、何のために?

と言う葛藤と、最後に、もうどうにもならないという絶望。
その絶望を充分に味わい、それに学ばれましたでしょうか。

プラクティス。
そのようなめったに無い、素晴らしいプラクティスが、あなたに現れた

にも関わらず、これがそれではないとしてしまうのですか?

悟りなど、無いから悟りなのです。
悟りという名前を付けるから迷うのです。
それが、希望になってしまったから迷うのです。

ここにロジックの罠があったのだと思えないでしょうか。

もしも、そのような希望が無かったなら、あなたは存分に絶望を、

そのどん底を、嘆きの中で舐め味わい、
事象を与える者に白旗をふり「もう好きなようにしてください」

と降伏したのではないでしょうか?

悟りという希望を抱くから、学べないのだと思うのです。
まだ戦えると思ってしまうのです。
それだから明け渡せないのです。
希望は迷わせるのです。
あるがままから、かけ離れているから希望です。
美化するものではないと思います。

あるがままとは、与えられる事になっていた事象が、

与えられてしまったという事実そのもの。

あなたに関わる一切は、与えられてしまった事以外はありません。

必然なのです。
それに、知らぬうちに持ってしまった価値観、尺度、で
自分なりの意味づけをして抵抗していたのではないでしょうか。

ただ受け入れるのです。
受け入れず、希望にふらふらすがろうとしていたから、葛藤していたのです。

腹を括って、あるがまま受け入れるとき、どこに希望などという

迷妄が生じるでしょうか。
たとえ与えられた事象は押し付けなんだと思っていても、
その与える者に、迷妄する自我を明け渡してください。

これは自発的(意識的)にも、自然に訪れるものでもなく、
あなたの中にそうするしかないという、実体験による学びが起こった時、

そうなります。
そうせずにはおれなくなります。
完全な明け渡しができたかどうかは、ご自身ではっきりとわかります。
もう、いつ召されても大丈夫だ、という、しっかりした確信にはいってしまいます。

与える者、その絶対者への感謝と、見返りなど求めない真実の愛が、

あなたに芽生え急速に成長します。

そうでなければ、まだ学び切れていないのですから、
まだまだあなたへの与えられるはずの事が、与えられて行くでしょう。

自我が引き寄せようとするのは、いつだって与えられる事の否定から来る

真逆の身勝手な事です。

「願望達成」のスタンスは、神聖な真理からはとてもかけ離れているのです。
それでは彷徨いの終焉はありません。

さて、与えられる事象を、あるがまま、素直に、否定も肯定もなく、

真摯に受け入れて、そういう姿勢で生きて行こうと思えるでしょうか。

そうするなら、起こる事が起こるのです。
つまり、そのような驚くべき変容さえも、与えられることだったのだと

知る事になるのです。

そのそれを、恩寵と言うのです。

与えるあの者は、あなたの中に在って、いつでも教えようとしているのです。

いつかその絶対者に、感謝の涙を捧げる日が来ると、わたしは疑っていません。