わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

思考の支配者 花岡修平 「真我が目覚める時」

思考の支配者

 

思考を止めきれるなら。

見えるものに、聞こえるものに、何も定義を貼りつける事無く、

ただ見ているのです。

そのとき。

ありのままが見え、ありのままが聞こえているでしょう。

それは、完全に「今」にいるのです。
これは、完全に「ここ」を感覚しているのです。

思考は、「今」「ここ」から、あなたを既知の記憶の時に、

記憶の場所に連れ出そうとします。


思考の言いなりになるから、いつでもこの瞬間の「今」「ここ」

を見たことが無かったのです。

思考を止め、見えるものを見えるがままに見るのです。

そうするなら、過去でもなく未来でもなく、「今」にいるのです。

我々は意識して、そのような状態に入る事ができます。
しかし、時として全く意識より前に、作為なくその状態が現れる事があります。

例えば、大自然の、初めて見る美しい景色に眼を奪われる時。
その神々しさに我を忘れ、見入ってしまう時。
過去に入る事も無く、ただ「今」見えている眼前の絶景に

心を奪われているような時です。

少ししてから、「ああ、なんて美しい」という評価が出てきます。

その評価が出てくる前の、新鮮な驚きの時に、思考からはずれ

「今を楽しむ」瞬間があります。

そのように何も考えず、思わず、定義せず、評価もする事無く、

ただ見えているまま見るのです。

わざわざ遠くに出かけ、大自然の懐に入らなくても、普段の街並み、

あるは部屋の窓から眺める風景であっても、そのように「あるがまま」

見るのであれば、なんと見え方が違って見える事でしょう。

いつものように見ていながら見ずに、常に意識は過去をさ迷っている

状態とは違います。

勝手に起こる思考のノイズを聴きながら見ている意識感覚とは違います。

しっかりと「今この瞬間」を見ているのです。

それは瞬間瞬間、いつも新しく、初めて現れる世界です。

身体の眼はそれを見つつ、内なる眼は内なる絶対者に集中しているなら、

見ている「わたし」は消えています。
その時、全てが「わたし」になっているのです。

「わたし」と世界との境界が消え、あるもの全てがただ、

ひとつの存在になっているのです。

「わたし」という主体も無く、世界という相対の客体も無く、

ただ、在るものとして、ひとつを感覚できるでしょう。

そうであるなら、「絶対者」という根源から、「現れ」という

見えている位置まで、完全に連なる真理に気づくのです。

そうして、「絶対者」以外の、「現れ」までの全てがマーヤ

(幻想を見せる力)によって創造、解体、再構築されている事

にも気づくのです。

マーヤが産み出し、マーヤが死へと送り届け、

再びマーヤによって生み出されるのです。

それだから、マーヤはあらゆる存在の母(マー)だと言うのです。

今まで個として有ると思い為していた「わたし」でさえ、マーヤなのです。

それだから、「絶対者」なる根源にまで意識を繋げるなら、

「わたし」は消えてしまうのです。

現れはマーヤの力。

全ての母。

偉大なる母。

それだから、ゴータマ仏陀の母は、「マヤ」と名付けられている

のかも知れません。

それだから、イエスの母は、「マリヤ」と名付けられている

のかも知れません。


「絶対者」たる根源は父、幻想を産み出す力は母。

太陽を思うとき、光を抜きにして考えられないように、

光を思うとき太陽を抜きにして考えられないように。
「絶対者」とマーヤは共に神であり、その作用力、

精妙な聖なるエネルギーは純粋な慈愛なのです。

「わたし」は、ほんとうは産み出された幻であり、

ほんとうは神の中に抱かれている事を知るべきです。

そのようなもので出来ている我が身の中に神が遍満している

事を知るべきです。

神の中にあなたが抱かれていて、あなたの中に神が在るのです。

そうであるなら、あらゆるものが神自身である事を悟るでしょう。

そうしてより一層、世界が違って見えていく事を楽しむでしょう。

なんと喜ばしい栄光に、世界は包まれているのでしょうか。

所有や虚栄や憎しみ、恨み、悲しみ、不安、恐れ、野望、

そのようなチッポケな洞窟に住んでいないで、解放するべきです。

あなたの内なる神を、そのハートに解放してあげてください。
洞窟の壁を壊して、そのハートに神を満たしてください。

そうするなら、もう何も心配などしなくていい。

満ち足りた幸せと安らぎ。

それを味わい続けるでしょう。

思考の奴隷をやめ、思考の支配者になればいいのです。