わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

わかる......の現れ方  花岡修平 「真我が目覚める時」

わかる......の現れ方

 

ひと度この内側に気付き、これを忘れないでいるなら、あるいは忘れる事が

度々あるとしても、都度すぐに内側に向き直るよう努め、日常を送るなら。

 

木々の梢の間から、ちらちらと木漏れさす朝日のように、智慧、明知が、

時折現れ来る。

 

ふっとした瞬間、何気ない動作の途中で内側から知らされる事がある。

 

食器を洗い、布巾で拭いている動作の中で、あるいは車を運転している時に、

身体が自動的にそれら成すべきことを成し、「気付く力」が内側にしっかり

と落ち着いているならば。

 

あっ!・・・このようなわかり方をするのです。

 

この世界の事はこの世界にまかせ、身体の事は身体にまかせて、

「気付く力」が内も外も同時に気付いている、そのような状態の時。

 

高名な聖者賢者のように、とてつもない情報量ではないにしろ、

わずかずつではあっても、そのような事が起こるのです。

 

サーマディは境地であり識別活動ではないから、むしろ日常でそれが

現れるのです。

 

導通です。

 

時空次元を超え、そこに入り込みながらも、この世界の身体は活動

を続けている。

そのような事が起こったりします。

 

まったく不思議です。

 

世界には何も無い事を見せられました。

というより、世界そのものが無かったのです。

見えているけど無いのだと、思い知る状態に入るのです。

 

自我の時間にして、ほんの数秒の事です。

それも自我がこの世界の何事かに熱中している時にそれが起こります。

危険度の少ない何かに、ただ集中し「わたし」そのものを意識していない時に、

自我の中の「わたし」以外の者が、それを体験してしまいます。

そして、「気付く力」が、「彼」から「わたし」に戻り、「ああ、そうなのか」

と納得するのです。

 

このようなわかり方でのわかった事は、言葉には明確に翻訳できません。

このような事を言っても「あなた、それ病気ですよ」と返されるのが落ちかも

知れませんね。

 

しかも、言葉によらないため、思考がそれをアナライズする

という事もありません。

そうであるから、さほど感動のないわかり方です。

 

もうひとつのわかり方。

 

言葉に翻訳できるような理解は、内側で「わかる」が起こり、

順次「わたし」に送られ、その過程で言葉に翻訳されて行きます。

それが、泉のようにこんこんと湧いてくるのです。

リアルタイムに「わたし」がそれを理解して行くので、

その真理の有難さに涙が溢れてきます。

それは全く、「教えられる、知らされる」というわかり方です。

 

そうではあっても、何をどのようにわかったからと言って、

それがどうしたと言ってしまえばそのとおりです。

これは神を理解し、その無償の愛を、その喜びをわかる事に比べたら、

ほんとうにどうでもいい事です。

言ったら、神を知り得たとき、もれなく付いてくるオマケのようなものです。

 

悟りと言うのは、世界の現れ方とか、システムとか、そのようなもの

を悟るのが重要なのではなく、この神、この源泉、そしてこの愛、この至福、

伴うこの喜びと、それに対しての湧き起る感謝、ひれ伏して泣き続け

たくなるような懐かしさ、それを悟る事だと思うのです。

 

それも疑いようもなく、はっきりとした確信を持ってです。

 

神をわかるだけの、真我と自我との間の透明さ、純粋さ、天真に立ち返るなら、

それはそうなってしまうというだけです。

 

そのようになるために、欲を手放しなさいと賢者たちは言うのです。

 

欲を手放すというのは、欲と戦い押さえ込み克服する事ではありません。

欲は悪い事でも善い事でも無く、ただ欲という心をかき乱すようなもの

があるというだけです。

 

戦わずして離れてやるのです。

欲を遠目に眺められるようになればいいのです。

 

欲と戦っているのは、欲に翻弄されている証拠です。

死にたくないと言って、死と戦っているのと同じです。

そこに苦悩を作り出すのです。

 

ただ、神がそうさせる事に従う姿勢を持てばいいのです。

神が現すものと、「わたし」が意味づける事、の違いを

知らなければいけません。

 

それを洞察するのです。

 

「気を付けておれ」と仏陀が言うように、

内側に気づいていなければなりません。

「謹んでおれ」と仏陀が言うように、

自我が暴れ出すのを睨み付けていなければなりません。

 

善行を為すにも、誰にも見られずそれを行うように。

人に、あるいは他の命に優しくするにも、賛美をなるべくされぬように。

人前で神に祈るような事をせず。

受け取る一切は、勝ち取るのではなく、神から与えられるように。

そのように努めればいいのです。

賞賛や、賛美は、明らかに見返りです。

それを受け取ってはいけません。

 

実際褒められたらどうする?

彼は幻という事象に対して評価しているだけで、思い違いを

しているのだと明らかに知るなら、受け取ってはいないのです。

 

勤労の報酬は?

それは神から与えられたのです。

 

そのような行為の積み重ねを、徳を積むと言うのです。

それは、考えようによっては、やがて何かを得るためのクーポン

のようにも思えるかも知れませんが、徳そのものも、積もうと思い為す事

もせず、ただそうであるのだと、頓着してはいけません。

 

ただ神の現す事だけを見て、その流れにみこころを見て、ただ受け取り、

ただ味わい、感謝を捧げる日々を送るなら、いつの日にか自分というもの

が洗い流され、真我と自我の狭間にはびこる欲の汚れの堆積した壁が、

煙が消え去るように無くなって行くでしょう。

 

そのように日常を生きるのです。

 

仏陀は家の前に立ち、食を乞い、差し出される粥に、その家主に純粋な供養を

見て受け取りました。

教えを請われ、請われるまま教えを述べた後に差し出される食べ物は、

「わたしは教えの代償として、それを受け取るわけにはいかないのです」

と受け取りませんでした。

これは仏陀からの家主に対しての供養だからです。

 

無条件に与える。

無条件に頂く。

 

それが愛の行為です。

 

全てを知り尽くし、完成された偉大な方がそうであるならば、

わずかこれだけをやっと知り得た我々は、尚更それに習うよう

努めるのがいいでしょう。

 

欲を捨て去るのは困難であっても、そのように日常を努めるのは、いい事です。

 

内側から毒素が消えるように、純粋になって行きます。

 

明らかに以前の自分とは違うと認識されるようになります。

 

やがて。

 

天使を目撃するでしょう。