わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

目覚めない理由 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事のコメント欄にあった読者間のやりとり、花岡さんとのやりとりを最後に付け加えておきます。ちょっと長いですが、参考になる部分があると思います。(2019-05-03記)

 

目覚めない理由

 

あなたが目覚めないのは、夢をみていたいからです。
まだ見ていない夢に、期待しているからです。

現象世界という夢の中に、まだ見ぬ現象を、奇跡を期待しているからです。

現象世界に奇跡を求めても、それは、ただの夢であるという事に気がついていません。
現象世界とは、あなたが、あなたのマインドによって、あなたの自我意識に展開している世界です。
眠りの状態で夢を見ているのと、何ら変わりません。

その中の、どれもこれもに実体はありません。
流転し、移り変わり、昨日こうだと思っていたものが、今日は全く別のものに変容し、明日はまた違う姿に変わります。
世界だろうが、あなたの身体だろうが、刻々と変化しているのです。

多くの人が、これこそ実体だと思う「心」でさえ、次々と湧いては消える感情の波によって天使にもなれば悪魔にもなります。

その事に気づいた人でさえ、「真我」と聞いて、それは有るのだろうと思いながらも、マインドで、思考でそれを探すから、
壁にぶち当たります。
マインドは、思考によって過去の記憶の中から、真我を定義する言葉をあさります。
どうしても、マインドは言葉で定義しないと気が済まないのです。

我々は、家庭環境の中で、あるいは学校教育の過程で、また社会によって、有りもしない常識や、陳腐な当たり前によって、
そのように訓練され、無条件にそのように反応するように洗脳されてきました。

そしてついに、「わたし」の中は、思考のノイズで満ち溢れてしまいました。
「わたし」は常に記憶に存在し、記憶の中の言葉の断片を、映像の断片を、手当たり次第を拾い上げ、
拾い上げたそれに、また心が揺り動かされ、動かされたことによって、関連する記憶をまたさぐります。

思考が思考によって思考するものを定義づけ、新たな疑問という思考をつくり、いつかは断定という思考にたどり着きます。
全く疲れる作業を、瞬時も休む事無く続けているのです。
その無駄に消費されるエネルギーは、計り知れません。

現象世界に奇跡を求めて、それが何になると言うのでしょうか?
それは消え去るのです。
歴史に残る?
歴史とはあなたの記憶です。
瞬間に、もう、無いのです。
観念の彼方に消え去るのです。
それは幻だからです。
実体が無いからです。
言葉で定義され、形あるものと見なすもの、あるいは、形なく現象と見なすそれらは、
記憶に仕舞い込まれてはじめて認識されている、過ぎ去ったものたちです。

終わったものたちを一生懸命かきまわして、なにを見つけようと言うのでしょうか?
「今」は、「過去」から来るのではありません。

記憶に言葉を探すのを、止めてみてはどうでしょうか?

それは、思考を休ませる事につながります。
思考がフルパワーで働いてオーバーフローになり、頭が真っ白けになって思考が停止する事も無いとは言えません。
でも、それ、疲れるでしょう?
エネルギーの完全燃焼でそれをするより、

ただ、記憶に入り込む事を、しないだけでいいのです。

簡単です。

記憶に入りそうになったら、入りそうになった事に気づいていればいいだけです。
気付いたら、入らないで、戻ればいいだけです。

記憶に入らず、言葉を見つけず、映像も見つけないなら、無思考でいる事に気づくでしょう?

無思考でいるなら、今、真に、今に浸っている事に気づくはずです。

その時「わたし」は消えます。
しかし、「わたし」は消えても、「在る」があります。

見えてきましたか?

「在る」が、チラッと見えたでしょう?

いや、気づいたでしょう?

思考しないで、言葉を適用しないで、そのまま浸りきっていてください。

なにか、薄皮の向こうに「在る」を気づくのです。
次元境界の薄皮です。あるいは、自我の靄(もや)のようなものが、サーッと薄らいで引いていく時に垣間見るでしょう。

なにかひとつの事に集中してそれを成そうとしても、それは自我がしている事なので、不確かな結果で終わるかも知れません。

では、上記の方法は、自我がしているのではないのか? と言うのであれば、

もしも、自我がそうするのであれば、もちろん自我がしているのです。
同じように、不確かな、曖昧な、あるような、ないような、で、手応えというものがありません。

そうではなく、

ハートにそれをさせるのです。
マインドではなく、ハートがそれをするのです。
では、ハートはどこに? とか言いたいあなたは、記憶に入ってしまっています。
どうしても思考の呪縛から逃れられないのです。
おなじみの無限ループにはまっています。

記憶に入らなければ、ハートなんかわかります。
記憶に入らない状態で、感覚してみてください。
薄皮の在りどころです。

記憶に言葉を取りに行かなければ、思考が止まった状態なら、わかります。

静寂な安息の中に、ハートと喜びとを、同時に知るでしょう。

なんだ、そんな事だったのか・・・って思うはずです。

ただ、これを言ってしまっていいのかどうか、わかりません。
人には、わかるべき人と、わかってはいけない人がある、という事を知らされました。

それだから準備が整った人にしかわからないようにできているのだそうです。
それを内側から知らされました。

いや、準備が整っている人にとっても、パズルのようなものです。
難しいわけではないのです。
ただ、マーヤのトリックにやられているだけです。
見事なマーヤの、憎たらしいくらい素晴らしい、愛に溢れたトリックです。

2012-05-06

 

 

[読者A] 映像、「わかってはいけない人」

目を閉じて瞑想していると、映像(人の顔とか)が浮かんできて、なかなか消えないことがあるのですが、そういう時は、いったん目を開けて、映像を消したほうがよいのでしょうか? 

それから、「わかってはいけない人がある」のは、どうしてなのでしょうか?

[読者A] 愛に溢れたトリックとは?

>愛に溢れたトリックです。 

どうしてトリックが愛に溢れてるんでしょうか? 
単なるイジワルにしか思えないのですが・・・。 
 

[読者A] 「記憶に入ることをしない」
>ただ、記憶に入り込む事を、しないだけでいいのです。 

でも、「記憶に入ることをしない」ということは、記憶してなくてはいけないですよね? 

瞑想しながら、「記憶に入らない」という言葉が、時々頭をよぎってしまう、これはある程度仕方のないことなのでしょうか?

[読者T]

花岡さん、みなさんこんにちは。 

MRさん、ゴールデンウイーク楽しまれて何よりでした。

Aさん、瞑想してる時に、思考が浮かんでも、通り過ぎるのを眺めていればいいんですよ。もし、その浮かんだ言葉にひっかかったら、少し視点をずらすことは出来ますか?言葉の背後に。 

そもそも「こうしなくちゃいけない」なんてないのですから。 
Aさんのオリジナルでいいんですよ。 

こんなに自由に選択出来る壮大なスケールの愛がいつもAさんのそばにピッタリ張り付いてるではないですか。 

Aさん、十分苦しんだでしょう?もう苦しまないでいいんですよ。 

まだ続けるのも、ここで終止符を打つのもAさん次第です。 

私達は苦しむのも楽しむのも、豊かになるのも、貧しくなるのも、すべて選択出来る自由を与えてもらっています。 

私達がやるのはここまで(選択)、後は任せちゃえばちゃんとやってくれますよ。 

種を植えれば必ず育ち、芽が出るのに、心配して、何度も掘り返し、確認したり、あちこちに植え替えたりしませんよね。 
そんなことしたら折角芽が出るチャンスをみすみす逃すようなものです。 

植物と一緒ではないと想うかもしれませんが、これこそトリックですよ。 

言葉は単なる記号で、過去の記憶から広い集めて来てるだけです。言葉の背後の意図に気付くよう、ハートから促されてるトリックじゃないでしょうか。 

そこには愛以外ありません。 

目覚める時期は人それぞれですから、目覚めてはいけないのではなく、ただ機が熟すのを待つと言う事だと思いますよ。 

目覚める前も目覚めた後も何にも変わりませんよ(笑) 

ただ起こる事象や言葉や思考に気付いてる、ハートから沸き起こる自分に感動するかも。 

振り子と一緒です。 
片側だけに留まるわけではありません。 

私だってあちこち行ったり来たりですよ。 

今度何か思考が浮かんだら、浮かばせて、じっと観てて、それに対する思考が浮かんでもです。 
何度も繰り返してたら、エゴが急におとなしくなる瞬間が訪れますから。 

大切なのは、いつか来る未来でなく、今それをやってる自分に意識を向ける事です。 

 

[花岡] 秘湯、花岡温泉露天風呂へようこそ

今日も来てくれたみなさま。 
どうもありがとうございます。 
当露天風呂は、源泉かけ流し、効用たっぷりですが、 
源泉は、みなさまのハートの「ここ」にございます。 
どうぞ浸りきってくださいませ。 

Aさん。 
言葉はまずおいといて、 
感じることから始めてもいいかと思います。 
そうすれば、自分の内側からのプレゼンスをきっと、受け取れます。 

瞑想は、目を閉じないで、世界を見ていながら、内側に気づくようにしてください。 
そうしないと、脳内にメラトニンが分泌されます。 
知らないうちに眠ってしまいます。 
外側である世界と、内側の静寂の違いを、はっきりと区別できないといけません。 
目を開けたまま、両方を気づきながら、内側に落ち着くのです。 
それを見つけてから、言葉の疑問を内側に向けてみてください。 
それが教えてくれます。 
コンピュータの取扱説明書を読む感覚ではなく、 
意識波動を受け取る感覚でやってみてください。 
 
 

[読者KZ] いい湯だな!秘湯、花岡温泉露天風呂

花岡さん、Aさん、Tさん、MRさん、Hさん 

今年のゴールデンウイークは大袈裟ではなく 
人生最良だったかもしれません 

Hさんや花岡さんが言う通り 
ハートに響くまでハートに感じるまでハートが開けるまで・・・ 

何度同じことを繰り返し聞いても聞き足りないのかも知れませんね。 

それは2000年前あの畏怖させる契約の神しか知らなかった民衆に丘の上から 
初めて聞こえてきた やさしくハートを包み込むようなイエスの言葉で福音が 

幸いなるかな、苦しむもの、悲しみに泣くもの 

神の国はあなたたちのものだからだ・・・ 

ここへおいで、わたしのもとへ 癒してあげよう、そのあなたを 




今年の連休は花岡温泉露天風呂 
ここでほんとうに癒されました。 

入浴料も無料だし 

せめてお礼の気持ちで歌でも(笑)・・・ 


しんちゃんのいい湯だな 
http://www.youtube.com/watch?v=ZmC6gNkh_50
 
 

[読者MR] こんばんは

花岡さん、皆さん、こんばんは。 

KZさん。 
UPして下さった、クレヨンしんちゃんの「いい湯だな 」早速、聴きました。 
私、おかしいんです~。 
聴きながら、涙が零れてきました。 
何でだろう? 
しんちゃんの、とぼけた声を聴いていたら、ハートがフルフルして。 
ん~訳も無く、幸せ。 

花岡さん。 
> 思考しないで、言葉を適用しないで、そのまま浸りきっていてください。 
本当に、その通りですね。 
もう、この1行、私に宛てて書いて下さったのでは無いかとさえ、思えます。 
1ヶ月ほど前、目を閉じて瞑想していた時に、瞼の裏?目の前?に、いきなりどこかの街が拡がりました。 
まるで、360度のパノラマ写真みたいに拡がって。 
変な表現になりますが、目を閉じた状態で凝視してしまいました。 
曼荼羅のような感じでしたが、見続けると幾重にも重なった寺院でした。 
必死に見続けていると、場面がいきなりヨーロッパの町並みのような風景に変わりました。 
それを、あるがままに感じていれば良かったのに、何が起きているのだろうと考えてしまったのです。 
そして「何!何これ!!何?」と、叫んでしまったのです。 
その瞬間、それは消えた・・・・・。 
まさに、思考に引っ張られた瞬間です。 
起こっている事に、浸りきる事が出来ず、思考に走ってしまった・・・。 
MR@オバカ 

目を開けた状態の瞑想、チャレンジします。 
 
 

[読者H]

疑問が幾百、幾千、幾万あったとしても、答えはたった一つですね。
 
 

[読者A] 記憶から戻る=逃避?

さっき、瞑想しているときに、記憶(悩み・苦しみ)に少し入ってしまったので、戻ろうとしたのですが、そのときにふと「戻るということは、問題解決から逃げているのでは」というような気がしてしまいました。 

「戻ることは、問題解決から逃げているような気がする」というのは、エゴのトリックなので、そんなのは無視しとけばいいんでしょうか? 

でも、やっぱり、現実問題として「これしなきゃ、あれしなきゃ」というのはある訳だし・・・。
 
 

[花岡] Re: 記憶から戻る=逃避?

記憶から戻る=逃避? ←←← この思い自体、記憶に居る事で湧いてくるのですよ。 

思考、思い、視覚的聴覚的収穫的触覚的思い出に、馳せないで、 
記憶のドアに鍵をかけてください。 

ただ、今見えるものを見る。見えてるいちいちを分離せず、一枚の絵のように全体として、 ぼんやりと見ていてください。 

そのとき、脳の松果体に、自ら別の映像をインポーズしないでください。 
真我は何も見ません。 
なにか見えても、それは自我のやりくちです。 

今見えてるものをティッシュだ椅子だなんだとパーツに分けないで、全体として一つとして見て、 ただ見ていてください。 

目的は見る事ではありません。 

ハートに感覚する事です。 
その愛を、喜びを感覚する事です。 

ただ見ている事で、わたしが消えます。 
消えたとき、「在る」だけがそこにあります。 

少しでも、一片の言葉でも湧いたら、それは記憶に居るのです。 

記憶に入ってしまったなら、マインドを使ってでも戻ってください。 
戻れたら、マインドは、あなたの僕となったのです。 
戻れないなら、マインドは、あなたの主人です。
 
 

[読者A] 楽しむ・豊かになる

Tさん 

>もう苦しまないでいいんですよ。 

>まだ続けるのも、ここで終止符を打つのもAさん次第です。 

>私達は苦しむのも楽しむのも、豊かになるのも、貧しくなるのも、すべて選択出来る自由を与えてもらっています。 

ありがとうございます。 
もう苦しみたくない。苦しみに終止符を打ちたい。 
楽しむ(幸せになる)選択をしたい。 

でも、選択って、やっぱり難しいことなんでしょうか? 

それから、豊かになる選択は、やはり引き寄せなので、他の不幸なものを同時に引き寄せてしまうんでしょうか?

[読者T]

Aさん。 

誰でも、生まれながらに、豊かで、愛され、抱擁され、護られ、平和で満ち溢れた素晴らしい存在なんですよ。 

エゴの歪んだ眼鏡で見てるから、そう見えないだけですよ 

花岡さんが、いつも言ってるように、思考を辞めて、その思考に気付いて、静粛の中に入って行けば、願望は願望で無くなり、全てがあるんだと安心します。 

自分のワクワクする事、やりたいことを望むのは、自然な事だと思います。 
願望実現するためのものではなく、本当の自分に気付く事を最初にすれば、物事が向こうから、やって来る感じがします。 

何が起こっても、それに反応せず、過去から、見合った言葉を探しに行かず、ただ受け入れて、映画を観るようにすればいいんです。 

すべては神のアイデアで、シナリオ通りなんですから。 

善悪の判断をして一喜一憂しているのはエゴなんですから、エゴから離れなければ、愛とエゴは同時には存在出来ないんです。なので、今すぐに愛を選択して、ハートを開き、完璧な神の計画のその真っ只中にいれば、後は神がやってくれますよ。 

きっと神様はこう言ってますよ 

「立ち止まってよく見たら自分がもうその中に居るのに」って。 

キーワードは言葉に惑わされないで!かな。 

あっこれ、私も同じだから、へーき、へーき。
 
 

[読者A] 愛の選択

Tさん、おはようございます。 

愛に満ちたお言葉、ありがとうございます。 

愛とエゴは同時には存在出来ないんですね。 

>今すぐに愛を選択して、ハートを開き、完璧な神の計画のその真っ只中にいれば 

と言われると、どうすれば愛を選択できるの?と思っちゃうのですが、エゴと両立できないということは、結局記憶(思考)に戻らないということでいいんでしょうか? 

ネットショッピングみたいに、「愛」というボタンがあって、そこをワン・クリックで選択できればいいのに・・・と思っちゃいますが。