わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

ダグラス•ハーディング 花岡修平 「真我が目覚める時」

ダグラス•ハーディング

 

最近、ダグラス・ハーディングの「頭のない方法」についてよく聞かれます。
全く意味が解らないと言うのです。

これを実験的に理解するには、意識でサーチできるか、フォーカスできるかに係っているかと思われます。

フォーカスを固定するという手法で使われるのが集中力なら、「頭のない方法」は、フォーカスを自在に操る手法と思えばいいかも知れません。

意識のフォーカスその焦点が、眼に見えている外側から、見ている者の内側に入り込み、深層をサーチする時、外と内の境界を確かにに捉えられ、なおかつ内側に留まり、内側も外側も同時に認識する時、「頭が無くなる」瞬間に辿り着きます。

頭というのは、多くの人の「わたし」の置き所の事です。
「わたし」を指して言うのは、身体の事だったり、頭、いわゆる脳の事だったりします。
「あなた」というのも、人の身体を指して言っているのです。

身体は「わたし」の表現でしかありません。
表現でしかないから、着飾ったり、お化粧などして更に自分を表現しようとします。

そのように多くの人の「わたし」は、この身体であり、更に範囲を絞り込んでいけば頭、脳、思考している部分、そのあたりまで行き着くでしょう。

しかし、我々には感情というものがあります。
あるいは、アイデンティティ、パーソナリティ、人格などというものがあります。
そういうものが何処から現れてくるのでしょう。
そう考えたとき、心というものを持ち出し、これこそが「わたし」ではないか?と思うわけです。

普段我々は、心を意識しません。
また、「わたし」という思いさえ失っている時間が多いのです。
自分を主張する時、相手を行為や人格的に評価するとき、「わたし」あるいは「あなた」が現れます。

その「わたし」を言い表す時の、心、というもの。
それであっても、心という言葉を誰かから受け継いで、それによって意味づけている概念でしかありません。
心という便利な言葉を知らないなら、「わたし」を定義できるものは何でしょう。

つまり、捉えどころの無い言葉による定義ではなく、「これだ」と確信できる「わたし」。

ダグラス・ハーディングは、「わたしとは何か」を探り当てようとしていたのです。

頭のない方法による実験では、対象を認識する意識の距離を縮め、更に距離を無くして内側に留まる事が目的です。
窓辺の花に向けている意識を、自分の鼻に移し、鼻を意識しているその意識を更に顔を通り抜け内部に入る。
その時、意識は意識を意識している状態です。

それは、明らかに「わたし」を見つめているのでしょうが、わたしは更に言いたい。

「わたし」を見つめる「わたし」が在る以上、それは自我意識の域を出ないという事。
つまり、思考を手放していないのです。

「わたし」が「わたし」を意識せず、認識もできない状態に在って、はじめて「わたし」そのものに在るという事。

意識のフォーカスを窓辺の花から、顔の鼻に移し、さらに顔を通り抜けて内部に入り、さらに首の下の神聖な場所に落ち着く時、「わたし」の意識を失う。

その状態で見るものをただ見るなら、もはや頭は無いのです。
頭は、そう・・・世界そのものです。
宇宙そのものが頭である事に気づくのです。

頭どころか、身体さえありません。
それらは外を見るための、ただの窓に過ぎないのです。

もはや何処にも「わたし」は在りません。
あるいは、あらゆる全てが「わたし」です。

すべて「わたし」の中で起こっている現象世界であり、身体が歩いて目的地へ移動するということは、「わたし」の中で目的地が移動して来るという事です。

世界が行為するわたしの意図のとおりに、変化して見えて行って、結果的に目的地に歩きついたと錯覚しているのです。

例えば、眼が何かを見ている眼ではなく、眼そのものである事に気づくように。
眼が見ている何もかもが、眼が見るという活動のための眼の属性である事に気づくように。

「わたし」が「わたし」に在って、何にも距離を創り出していない「ただ在るわたし」です。

「在る」以外に何も認識する必要の無い「ただ在る」の「在る」です。

それに気づいたその時の「わたし」が、いかに広大で無辺なものであるか、驚く事でしょう。

同時に、全く安らぎの中にあって、例えようの無い至福を感じるでしょう。

しかし、再び「ただ在るわたし」は、頭の「わたし」に戻ってきます。
束の間身体を失って、また身体を取り戻します。

そうであっても、もはや以前の「わたし」ではなく、「真我」に気づいた「わたし」です。
今まで心を騒がせた、あれやこれやが、なんと小さな取るに足らないものであるか思い知らされます。
全ては偽物で、錯覚させられていたのだと思い知らされます。

さて、「頭のない方法」について・・・これでは説明になってませんね。
むしろ、かえってモヤモヤ感が増した?

要するに、「わたしとは何か」について探究する時、「わたし」を探し当てたその時「わたし」は無いのだと知るという事です。
それは全く、「わたし」に入ったという事だからです。
「真我」に入ったという事です。

「わたし」が全く「わたし」なら、「わたし」を主張する必要など無いのです。
そこにある喜びと愛の中を漂う事ができるのです。

ますますわからない?

わたしにとっての、言葉の限界です。
わかってみるしかない・・・としか言えないのが残念です。
とてもとても、残念です。

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コメントをくださる皆様、ありがとうございます。

中には非公開でのコメントをくださる方も沢山おられます。
そういう方にはメールでしかお返事するしかない訳ですが、事情があってメールアドレスを公開しておりません。
大変申し訳なく思っております。

でも、非公開のコメントには心をさらけ出した想いを感じ取れます。
ほんとうの心のうちを、伝えて来られます。
同時に心温まる励ましも頂いております。

我々は皆、内側で通じているのだとご理解頂き、不作法をお許しください。
これからも、距離などなく、近くに居てくださいますように。

 

2012-10-20

 

 

【読者H】 会話

花岡修平さん、はじめまして。 
Hと申します。 

毎回、ブログを拝見させて頂いております。 
沢山の記事を書いてくださり、ありがとうござます。 

私は、数ヶ月前から、何処とも無く「この世(外の世界)は私の幻想なんだな」と言う淡い考えが頭に浮かんだり消えたりしています。 
私の考え方一つで、楽しく感じられたり、苦しく感じられたりするな、と。 
国が違えば常識も文化も違う、良いも悪いも、物は言いよう考えようだな、と。 

でも定期的に、善悪や常識的な考えにガンジガラメになったりしています。 
そんなグラグラした考えの中で、このブログ「真我が目覚めるとき」に出会いました。 

ブログを拝見している内に、定期的に来る善悪や常識的な考えに距離を置けるようになって来ました。
しかし、同時に、だんだんと会話が出来なくなってきています。 
挨拶や、何かを決めたり進めたりする時は普通に話せるのですが 
いどばた会議等の他愛もない話が出来なくなって来ています。 
誰かと話をしていても「そうなんだね」と思うだけで、 
また、自分から話したいと思う事が無くなって来ています。 
今までの会話が、沢山のジャッジに基づいた物だと気づいてから 
興味がなくなったと言うか、話したいと言う欲求が少なくなってしまいました。 

何か変な方向に行ってしまっているのでしょうか…。 
このまま、話さなくて良いなら、誰とも話さなくても大丈夫なくらいです。 

花岡修平さんは、どんな時も、楽しくお話が出来ますか?

 

 

【花岡】 Hさん、はじめまして

Hさん、こんばんは。 
いつも来てくれているようで、ありがとうございます。 

変な方向に行っているのではなくて、価値観が変わってきたのでしょうね。 
もっと心に響く、魂に響く会話がしたいと欲しているのでしょうね。 
ステージが向上して来たからなのでしょう。 
玉ねぎの皮が、ひと皮もふた皮も剥けたって事じゃないでしょうか。 
それは、わたしのブログを読んだからという事ではなく、Hさんの内なる真我の導きだと思います。 

わたしの場合も、やっぱり人のうわさ話とか、誰か特定の人をネタにして盛り上がるとかは、できなくて浮いてしまいます。 
そして、誰とも話さないでいても、ぜんぜん苦痛ではありません。 
むしろ、穏やかに幸せを感じていられるので、そうであるほうが有難いくらいです。 

どんな時も楽しくお話できるか?と言われたら、そうですね、はっきり言って無理な時は無理です。 
でも話を振られたら、それなりに無視したりせず、なるべく自分に正直に、また相手が嫌な思いをしないようにわきまえて口数少なく参加します。 

Hさんのお話から方向性を考えると、気づきの方向に向かっているように感じられます。 
このような事に興味を持てる事自体、それを証明しているという事なのですから。 

これからも、どうぞよろしくお願いします。 

 

 

【読者H[】ありがとうございます

お返事を頂きまして、嬉しく思います。 
ありがとうございます。 

私も、相手との調和を大切にし、会話に適度に参加して行こうと思います。 

それと、また質問になってしまうのですが 
私は、「人生はとても楽しい」と思うと全てが楽しい事ばかりに感じます。 
たとえ一般的に嫌な事と捕らえられる事が自分に起こったとしても 
良かったと思える考え方が出来ます。 
また逆に「人生はとても辛い」と思うと全てが辛い事ばかりに感じます。 
「無条件の愛を感じる」と思うと、本当に感じます。 
「誰からも愛されていない」と思うと、それもまた本当に感じる事が出来ます。 

この様に、自分の思いよう考えようで、どうにでもなってしまいます。 

一般的に嫌な事と捕らえられる事が起こっても、何も・誰も責める事なく 
過ごす事ができます。 
周りの方が、あまりに酷いと、私を応援してくれたりしますが 
私は、その時、ちょっとショックで傷つくな、と感じても 
図星だな反省しなきゃ、とかこの様な傷つく経験もまた人生だな 
なんて考えていたりします。 

逆に、周りの方が、あまりに酷いと、捕らえている反応を見て 
深く傷つかなければならないのではないか、楽観的に捕らえるのは 
変なのではないか、と言う考えに囚われたりしてます。 

また、相手が、私が反論しない事に更に腹を立ててしまった場合 
私はあえて感情的に振る舞い、相手のその対立欲求を満足させてあげる事が 
良いのではないか、とも思っていたりします。 

喜怒哀楽、好き嫌いが無い訳ではなく、自分の中に偏見がある事も 
周りをジャッジする事もあると知っています。大抵はどちらでも良いのですが 
そうではない事も存在しています。心が清らかな訳ではありません。 
心は乱れますが、清らかになる考え方が出来るだけです。 
皆と仲良く、のほほんとした平和が好きですが、喧嘩が好きだと言う人は 
喧嘩が好きな人と喧嘩をすればよいと思っています。 

自分の思いよう考えようで、どうにでもなってしまいますので 
楽と言えば楽なのですが、でもこんな事でいいのだろうかと思っています。 

このブログで書かれている事は、この様な楽観的解釈の事ではありませんよね?

 

 

【花岡】Re: ありがとうございます

自分をしっかり見つめているようですね。 
正負の、片方の自分も、もう一方の自分も、しっかり観察し、今どうありたいかをよく観ている姿勢だと思います。 

> このブログで書かれている事は、この様な楽観的解釈の事ではありませんよね? 

今の在り方なら楽観的解釈は、そうしようと思えば出来るでしょう。 
多くの人は、それさえなかなかそうはいかないのです。 

わたしはそこから更に、皆さんに期待するのは、どちらにも偏る事無く、起こる事が、現れる事が、ただ現れ、しかも現れるべくして現れているだけだと言う事をわかって頂きたいという事です。 
ただ現れている、そういう訳だから、思考によって、どちらかの一方の解釈を適用できるのだという事です。 

そうであるなら、あらゆる事を、あるがまま、ただ受け入れる在り方をしてみませんか?それだけなんです。 
感情や価値観や慣習や、その時の立場などの条件によって解釈を適用して行く捉え方ではなく、全くあるがまま受け入れるという事です。 

マインドが介在しない、そのまんまの現象世界を受け入れるという事です。 

それが、明け渡した人の在り方だと思うのです。 

そしているうちに、内側のコアに気づき、つまり「ここ」に気づき、溢れ出る至福に満たされる喜びを知って欲しいと思っているだけです。 

この至福こそが、最後の希望です。 
これさえあれば、どんな事でも許せるし、あらゆるものを愛せるからです。 
あれが欲しい、これが欲しいが無くなり、ただ与えられる事に感謝し受け入れられるからです。 

そして、その至福、喜び、愛の湧き出す源泉、わたしというもののバックグラウンド、神の存在をわかるに至るという事です。 

最初から、そこに在り、というより、最初も最後もなく、ただそこに在るのだという確信を得て欲しいという事です。 

このハートの向こう側に、それがあるのを知って欲しいと思うだけです。 

 

 

【読者H】そうですよね

またお返事を頂きまして、ありがとうございます。 

質問をしておいて変ですが、そうですよね。 
楽観的解釈は偏りですよね。 

その先に行きたいな、と言う憧れはあるのですが 
現状は行けないままで、グルグルと思考の中にいます。 

そして、お返事を拝見していて気付きました。 

あるがままを受け入れる事が出来ないのは 
やはり恐れがあるからだと。 

以前、書かれていた 
「質問への答え(Tさんへ)恐れについて 」
の記事を拝見した時、一瞬手放せそうになりました。 
それは、記事の内容をそのまま素直に受け入れられそうだったからです。 
ですが、次の瞬間、思考に走り恐怖がやって来て 
恐怖に負けてしまいました。 

もう一度、やってみようと思います。 

ご丁寧にお返事を頂き、感謝しております。 
ありがとうございました。 


追伸: 
自分でも変だと思っていますが 
何故か、私はもうそれ(手放せた後の状態)を知っている、とも感じています。 
知っているんだけど、知っているからこそ、まだここで遊んでいる、みたいな。

 

 

【読者M】Mです

花岡さん、T姉さん、Kさん、Aさん、はじめ皆様お元気ですか? 
ご無沙汰しています。Mです。 
書き込みはしていませんが、毎日のように覗いています。 
更新されていると「あぁ、お母様の体調が良いのだろうなぁ~。」と、密かに喜びながら読んでいます。 
花岡さんのブログが、背中を押してくれたり、心の平穏をくれたり、静けさをくれたり、時に涙が溢れたり。 
ありがとうございます。感謝の気持ちで一杯です。 
これからも、宜しく御願いします。 

 

 

【花岡】 Mさん、おひさしぶりです

お元気そうでなによりです。 
また、母の事を気遣ってくださって、ありがとうございます。 

暑さも通り過ぎ、やれやれと思ってもこちらは厳寒の地域ですので、短い秋もあっと言う間に過ぎて、低温由来の感染症やら気を付けなければならない季節となりました。 

母を連れ出して、この美しい紅葉の風景を見せてやりたいと思うのですが、既に誰が誰やもわからず、自分の身体さえ指しか動かせない母にとっては苦痛でしかないのかも知れないと思うと、いつも見ていたこの浄土のような風景を、今年も綺麗に山が咲いたよと語って聞かせるしかありません。 

動けなくても、毎日笑顔を絶やさない母です。 
それが母にとっても、わたしにとっても救いです。 

Mさんもお忙しい中、毎日訪問して頂きありがとうございます。 
風邪などひかないよう、元気に暮らして頂きますように。 
これからもよろしくお願い致します。 

 

 

【読者F】

考え方、物の見方としては理解できるんですが 
この意識の中にいる他者はどう解釈するのでしょうか? 
ラマナ・マハルシに「自我を持つ他者はたくさんいるのにどうして意識は一つと言えるのですか?」と質問した人がいて、その答えはいまいち要領を得ないものでした。また「あなたが言っているのは超主観なんですよ」と批判している人もいます。 
夢の中のように自分も他者も自分が作り出しているという考えなのでしょうが、この見方が正しいのか、それとも普通の、世界の中に意識を持つたくさんの他者と自分がいる、といのが正しいのかは決着がつかないのですよね。 
この意識以外にはなれませんので確かめられません。 
どのようにしてこの認識に至ったのか説明していただくと幸いです。 
悟った方は言い方悪いですがおかしな精神状態を経ていますし(私もドラッグまでやった口なので分かります)、たくさんの精神世界の本を読んでましてその繰り返し(自我というのが一種の繰り返し、プログラム、テープレコーダーのような性格を持つ)のでどうも確証がつかめないのです。 
日本語を入れられた方はその延長上で機能します。英語やらキリスト教を入れられればその延長で機能します。 

 

 

【花岡】 Re: タイトルなし、Fさんへ

Fさん、はじめまして。 

あくまでも、わたしの意見として申し上げます。 

考えない事です。 
つまり、一切の思考を持ち込まない事です。 
言葉を覚えてしまったから言葉を使わずにはおれないのです。 
言葉を使うから、あれやこれや定義してしまいます。 
どれにも定義をあてはめず、ただ見て、ただ聞いて、ただ受け入れてみてください。 
言葉を覚える前、我々は世界をどのように知覚していたかを思い起こしてみてください。 
もしくは、言葉がなかったら、どのように世界を知覚するのだろうか洞察してみてください。 
主体も客体も同じ場(意識)の中にある事を見てください。 

おそらく精神世界の本をいくら読んでも助けにはならないと思います。 
わかるこの事は、知識ではないのですから。 

なにかのきっかけが、誘因します。 
そのきっかけは人により様々です。 

思考から自由になったとき、それは起こります。 

それは得るものではないから、手に入れようとしているなら無理があります。 
それだから修行では悟れないと言う事です。 
目的をもってドラッグを使用しても、それは全く的を外しているという事です。 

思考を離れ、ただ存在する存在になってみると、静寂の中でそれが起こるかも知れません。 

 

 

【読者F】

お返事ありがとうございます。 
ドラッグはずいぶん前のことでして、悟りはほぼ求めていません。 

私の場合は「生まれた時に私はいたはずだが言葉も考えもなかったんだなぁ。後から入ってきたんだな。 
すると、これは私ではないのか」という気付きでした。 
それからアドヴァイタに行き、考えないこともずいぶんやりました。 
現生の百万円と言葉の百万円を取り違えて言葉の百万円をもらって喜ぶ人がいないように、言葉ってのは実体じゃないのね、とも気づきました。 
ですから言われていることはよく分かります。 

しかし、無思考の状態で分かることは何もないわけです。世界の仕組みが分かったり投影によって 
この世界ができているとか分からないはずです。単なる安穏です。 
それでも多くの人が花岡さんがしているようにまた言葉を構築すること、世界を説明することに戻っていきます。 
それらを読むと時折自分は間違っていてまだ先があったかな?と思うことがあります。 
神に愛されているとか、そういうことが分かることが起こるのかな?と。

 

 

【読者Y】やっと、、、、

花岡さん、はじめまして。 
このブログにたどり着き、やっとやっと 
ダグラスハーディングの言っていた意味を 
理解する事ができました。 
そして感動( ; ; ) 
ありがとうございました。