わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

セミナー 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Wさんからいただいた記事です。

 

セミナー

 

花岡さんはセミナーをしないのですか?

と、数人の方に尋ねられました。
(数人といのは、需要がないからなのですよね)

はい!わたしはセミナーも講演会も行いません。

その理由は、お金が絡んでくるからです。

覚醒とか悟りとか、欲しいとか手に入れたいとか、そういう願望ではなく、ただ強い憧れがあって内側から揺さぶられる衝動が起こり探求しているという人は多いかも知れません。

あるいは、この人生の苦しみから救われたい。残りの日々を、ただ穏やかに満たされて生きられたらどんなにいいだろうと思う方もいらっしゃるでしょう。

自分の行くべき道を探して、探して、探しきれず迷っている。
そのような人に適切に道を指し示す事ができたら、なんとすばらしい事でしょう。

でも、どうもそうはならないようです。
どうしたって、人は、流れの中を流れて、体験しなければならない課題は、体験させられて行く事になるようです。

今まで何度も言ってきたように、悟り、覚醒は、人にとっての自然現象なのです。
誰もが導かれ、やがてはそれを知るに至るのです。

では、誰が導くのか?

あなたそのものです。

あなたの本性。
あなたの内なるグル。
あなたの真の存在が、導くのです。

その導きによって、どんな人も歩いています。

自分が、つまり、この「わたし」と主張するエゴが、耐えがたい苦しみ痛みにあったとしても、その状況さえ体験すべき道なのでしょう。

それは自我が偏りなく、完成される事が大切だから、つまり、体験によって学ぶ事が大切だから、不本意と思える道を歩いているのです。
別な言い方をすれば、歩かされているのです。

ある人が、わたしに道を尋ねるかも知れません。
そのような人に、出来る限りのアドバイスはして差し上げたいと思います。

でも、無料でセミナーを開催するのは、結構しんどいものがあります。
それをするには、認知症とパーキンソンで寝たきり状態の母の介護を、誰かに、または施設に託して時間を作らなければなりません。
ところがわたしには、収入が無いので、託せるだけのお金が無いのです。

では、セミナーを有料にすればいいのではないかと思うかも知れません。

それが、わたしには出来ないのです。
教えてお金を受け取るという事が、どうしてもできません。
仏陀の「衆生に教えた後では彼から粥を受け取れない」、という気持ちがよくわかります。
対価としての粥は、受け取れないのです。
純粋な布施でないのなら、無理なのです。

例えば、知らない土地を旅して道に迷った人が「駅に行くにはどう行けばいいのですか?」と聞くとします。
本当に困っているその旅人に、「教えてあげましょう、しかし、その前に料金をください」などと、どうして言えましょうか。
ほんとうに困っていて知りたい人に、お金を要求するなど、わたしにはできません。

これは、わたしの事を言っているのであって、他の方をどうこう言っているのではありません。
つまり、わたしにはそれが許されていないという事です。

自分にまつわる全てを明け渡し、差し出し、それによって恩寵を頂いたからには、人を教えて対価を貰うという行為は許されないのです。
わたしにとってそれは、自分を偽り、神を裏切る行為なのです。

覚醒した他の方は、セミナー、講演会、有料でやっているではないか?と言うかも知れません。

人の持って生まれた使命天命は様々です。
そのような役目を担って生まれた方もおられるのです。
それは許されているから、そのようにされておられるのです。

そして。

何度も言います。

誰でも、導かれて、やがては真実の自分を知る事になります。
そのようなセミナーをされておられる方に巡り合うのも、方々のサイトや、ブログに出会うのも、導かれるが故に、そうなるのです。
また、そのような精神世界に興味の無い人でも、覚醒の準備は日常を生きていくだけで、為されていくものだと思います。

わかりますか?
それだから生きているという、この現れが起こっているのです。
それが起こる事が起こるという事の意味です。

物事に偶然や、たまたま・・・など、ひとつもありません。

全て、見事に整合された、全て連動された組み立てなのです。

ですから、たとえ、そのような聖者賢者に縁なく、苦しみの道を歩いていたとしても、それも導きの途上であって、やがては知るべきを知り、知らなくてはならない事を知って行くように出来ています。

そしてまた。

これも何度も言っています。

誰か他の人が、あなたをそこに連れて行ってくれるのではありません。
聖者賢者は、直接あなたを目覚めさせてはくれません。

あなたの中に、そうさせてしまう偉大な働きがあり、覚醒の準備が出来たなら、それは起こります。

わたしがでしゃばって、そのような事をしても、だれも目覚めさせてあげる事はできません。
このブログでさえ、ほんとうは大して役には立っていないのです。

しかし神は間違っていません。
わかって初めて、きっぱりと言い切れます。
そうであるから、あなたは間違ってはいません。
あなたも、わかってみて、振り返ってみれば、今までの何から何まで、ひとつも間違ってはいなかったと気づくでしょう。

全てはこの答えのためにあった、長い長い遍歴だったのです。

この答えに至るために、長い間、問題を引きづって生きて来たのです。

ですから、今、答えを見いだせず、迷い生きている方も、ちゃんと答えは用意されています。
答えがあるから、問題はあるのです。
答えのない所に、そもそも問題などありません。

その偉大な組み立て、尊い神のみこころの前に、わたしが出来る「やるべき事」など、あるはずがありません。

わたしはただ、「道具として使われる」だけの、わたしです。
それがわたしには、喜びなのです。

そして、あなたの為すべきが何かあるとすれば、ただ、「あなたの中の偽りを見抜きなさい」という事だけです。

あなたが信じて疑わない「わたし」「身体のわたし」「宇宙とわたしの分離」そのような偽りを見抜きなさい。

あらゆる全てが、あなたであったと、
あなたこそが神であったと、知る事ができますように。

そのように導かれますように。

2013-05-29

 

 

[読者MMM]

今日、たまたま、あるお話会に行こうと思いました。
しかし、昨日、偏頭痛が出て、調子悪い状態が今朝も続いていました。

自分の中で、行こうかどうか迷いつつも、出かける妻に「行きたいと思っている」と告げた時に、妻からついでの用事を言われて、不調なので、ついカチンときて、妻に向かって、「行くのやめる」と言いました。

実際不調だったので、行かなくてよかったと思いましたが、改めて、少し落ち着いて考えると、自分の不調さで行くかどうかを迷っているときは、エゴ全開になっているということに気付きました・・・ほんのちょっとしたことでいらつくのですから。

お話会での学びより、この意味の方が大きな学びとなったかもしれません。

学びは自分の生活の中の一つ一つの気づきにあるのだと改めて思います。

 

 

[花岡] Re: タイトルなし

MMMさん、おひさしぶりです。

日々、素敵な学びをされてますね。

これからは、カチンと来た瞬間に、はっ!と、自我を見つめる事ができますね。
こういう事を誰かに明かすと、よりくっきりと残る気付きとなりますよね。


 

[読者KZ]

プロになりたくて始めたこと、
好きなことなのに、お金をもらうのがとても辛く、プレッシャーでやめました。
とてもお金はもらえない・・・。
活躍する人たちを横目で見ながら、何もしていない自分の姿。
「偽りを見抜く」為の概念を知っていることと、今感じ反応している様子のギャップに凹みます。
でも今の状態には意味がある。
活躍するのと等価のなにかが起きてるというかすかな感覚。
その狭間で揺れています。

 

 

[読者U] はじめまして

はじめまして。いつも更新楽しみにしています。
花岡さんの文章が大好きで、癒されています。

ひとつ、質問させていただいてよろしいですか?
うつ病について、どう思われますか?
以前、ある方にセッションしていただいた際に、発展途上国にはうつ病はいない、仕事に行けないのは甘えだと言われました。確かにその通りかとも思いますが、とてもショックでした。

うつ病とは、何でしょうか?
へんな質問で、すみませんが、よろしくお願いします。

 

 

[花岡] KZさんへ

全ての事には、意味がありますよね。

自分に嘘をつかず、真っ直ぐに、おおらかに、やりたい事をやって行けたらいいですよね。

内側からのいざない。
それはきっと素敵な何かを教えてくれるかも知れません。
揺れは、収まって行くと思われますよ。

プロもアマも、そんな事どうだっていい。
この世界には、そういう隔てはありません。
KZさんは、KZさんで、あるがままでいいと思われますよ。

 

 

[花岡] Uさんへ

コメントありがとうございます。

うちの奥さん、重度の鬱です。

さて、セッション主催者の言われるように、発展途上国鬱病は少ないです。
そして、自己中心的な人、ちゃらんぽらんな人にも、少ないと思います。
そこで、鬱とは何か?という事ですが。

脳内物質(やる気をおこす物質)の分泌減衰ですが、原因は様々でしょう。
過度のストレス、つまり精神的に窮地に追い込まれる事がその一つでもあるでしょう。

では、なぜ窮地に追い込まれるのでしょう。
自身の立場を、他社との比較によって悲惨であるとエゴが認識し続けるからかも知れません。

その状況の現場である職場に行けなくなるのは、虐めや、パワーハラスメントや、差別とかえこひいき、そのようなもので、自身も次第に自分が劣っているような気持になっていくためかも知れません。

つまり、そのような現場への恐れや、それからの逃避が起こり、精神的な閉じこもりが起こるのかも知れません。
自身や身近な人に心配の対象があれば、尚更相乗してしまいます。

発展途上国のように、現場の全員が同じ境遇であるなら、そのような事は起こらないかも知れません。
わたしだけが・・・
なんでいつも、わたしだけが・・・
この強烈な比較による被害者意識が、やる気をそぎ、ひいては脳内物質の分泌に影響し、さらにやる気を喪失するのかもしれません。
喪失感が身体機能にも影響するのかもしれません。

そうなれば、家庭内でのあれやこれやにも影響します。
体がいう事を聞かなくなります。
布団から出る事ができなくなります。
聞こえるはずのない声が聞こえてきます。
見えるはずのないものが見えてきます。
自分がなぜこうなったのか、そのわけさえわからなくなってしまいます。

これは、病気です。
もちろん、遺伝的要素もあり、つまり、誰もがこのスイッチを持っているのです。

これは甘えとか言う問題ではなく、むしろスイッチが入るかどうかは、それを重大視する真面目さの強弱にあるのかも知れません。

特徴的なのは、原因や改善策を、どのように論理立てて言っても、呑み込まないという事。
言ったら、自己洗脳の状態になってしまうのでしょう。
ですから、なかなか脱出は叶いません。
うちの奥さんは、そうでした。

お薬を併用しながら、徐々に急がずに「今」に戻ってくるしかないようです。

比較による被害者意識は、独特の価値観を手放せないために起こるのかも知れません。
開き直りが必要かも知れません。
どうでもいい事を、真面目に取沙汰しすぎている事に気付かなければならないかも知れません。
全てを許してやれる寛容さを持つのもいいかも知れません。
少しでも何か、例えば家事や近所づきあいや、やれたなら、やれたことを自分で認めて行くことで、やれる自分に自信を持っていくのがいいかも知れません。
周囲に影響されない強さや勇気を、それで培えるかも知れません。

わたしは医師ではありませんので、専門的な事はわかりません。
しかし、うちの奥さんは重度の鬱です。

でも、驚異的な回復を見せて、今ではディサービスの看護師のパートに出ています。
あの血の海のような布団に横たわっていた彼女を思うと、見違えるほどです。

鬱は、周囲から見れば、甘えに見えるかも知れません。
しかし、本人にとっては、どうにかしたくても、どうにもならない統一性障害なのです。
周囲が、そのような事に理解してあげなくてはなりません。
そのままでも、間違っていないんだと、本人も周囲も理解しなければいけないと思うのです。

価値観による自他の比較、それをまず、捨て切れるかが重要かと思うのです。

 

 

[読者U]

丁寧なお返事ありがとうございます。

精神世界の本を読むと、私はいないとか、私は思考や感情ではないなどと書いてあるので、うつ病とは何なのか疑問に思ったのです。自分が病気だと思うと病気で苦しんでいる自分を作り上げる?から病気を治そうと頑張るのはかえってよくないのかな?とかいろいろと混乱しています。

しかし、自分でいろいろと考え込むより、人生の流れに乗ったほうが良いのかなと思っています。

花岡さんの奥様は順調に回復されているようで、良かったですね。

花岡さんのお返事の中に、たくさんの気付きがありました。おもいきって質問させていただいて良かったです。本当にありがとうございました。

 

 

[読者BB] 導かれるままに

花岡さん、お久しぶりです。
奥様の鬱病の件、回復傾向とのでよかったですね。
実はうちの家内も鬱病(昨年の今頃は入院を勧められてましたが、現在はやや回復傾向)でして、妙な親近感を感じてしまいました。

最近の私は、日常の中に帰る努力をしています。正直、仕事も含めて、いろんなことがどうでもよくなってしまっているところがありまして、仕事をするのはかなり大変なのですが、そでも、家内と一緒に子供を育てることに注力しようとしています。私の場合、いまは、それだけで精一杯です。
昨年暮れの明け渡し体験から数ヶ月が過ぎて、やっと自分の日常に目が向けられるようになってきたという感じです。そして、やっとそれでいいんだと思えるようになってきた感じです。
年老いて身体が動かなくなるまでには、おそらく時間はまだあるのだろうとも思っています(実は無いのかも知れませんが、笑)。それで、いまは自分の人生を長い目で見て行こうと思っています。

上の記事を読ませて頂いて、久し振りに書き込みしたくなりました(笑)。

今度こそ、自分が未来を選択したのだと思ったら、振り返って見ると、導かれていることをまざまざと実感させられるという、
そんな繰り返しの中にいます(笑)。