わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします(Aさんへ) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいたある記事のコメント欄にあったもの。ピックアップして記事にしてみた。この読者Aは、非公開をクリックしてコメントしたようです。タイトルは、私が付けた。青字が質問部分。

 

お答えします

 質問頂きましたが、ブログをはじめてまだ二か月も経っていないので、この仕組みに不慣れで、 申し訳ございませんが、ここに答えを表示させて頂きます。 本意ではないかもしれませんが、他に手段を見出せないので了承願います。 


>「内側を見る」とはどういうことなのでしょうか? 
>「自分の心を観察する」「呼吸を観察する」「身体感覚を観察する」・・・これらは「内側を見る」ということでしょうか? 

それらはどれも内側ではなく、意識が知覚する部分です。意識的に気にすることもできれば、気にしないでもいられます。 
つまり自我の働きで現れる範疇にあるわけです。 
内側とは、自我活動のように能動的に知覚できるものではなく、感覚知によるまったくの受動的知覚です。 
受動的だから受け入れる意外に知覚する手段はありません。 

> 老化とは? 
> 過去も未来も無いのなら、どうして私(そして私の知っている人々)は日々老いていくのでしょうか? 

今が瞬間あり瞬間消え去ります。次の瞬間の今は新しい今です。それも瞬間消え去り別の新しい今が現れます。 
私、そして私の知っている人々とはそれです。 
さっきの私は瞬間消え去ります。次の瞬間の私は新しく現れた、瞬間前とはまったく別の私です。 
記憶がそれをつなぎ合わせ、連続した老化という現象と思い込むのです。 

> また、「過去の行為の結果、現在の状態がある」というのは、どうしてなのでしょうか? 
> 例えば「お酒を飲んだら酔う」「ビルから飛び降りたら死ぬ」「勉強をちゃんとしたので、難関大学に受かった」といったように、 
> この世界には時間と関係する緻密な法則が働いているとしか思えません。 
>(睡眠中に見る)夢の中ならば、おかしなことがたくさん起きますが・・・。 

結果を起こしていると見る過去の行為は、その行為をさせる実に様々な複合的な捉えきれないほど多くの作用が働いて行為をさせています。 
さらにその多くの作用にも、更に多くの作用が働いて・・・きりがありません。 
言ったらあらゆる存在がその原因になっているわけです。 
そのような事を追及するのも無意味です。 
しかし、起こることは決まっている成就のために起こるのです。 
酔うという成就のためにお酒を飲んだのです。大学に受かるという成就のために勉強をちゃんとしたのです。 
過去に原因を探しても無意味ではないでしょうか。今が成就のために瞬間瞬間、新しい今に更新されていくだけです。 

> 結局、誰でもそうなってしまう」のならば、イエスや釈迦、など、覚者と言われる人々は、どうして教えを説くのでしょうか? 

そうなってしまわないうちは、恐れと欲望の中で、苦悩の日々を生きなければならないでしょう。 
覚者は覚者のまま、絶えてもいいのですが、覚者故の愛によって、その苦悩から救い上げたいと思うのです。 
人とは、そのような神性を備えているのです。 
あなただってそうでしょう? 
苦しんでいる人をほうってはおけなくなるでしょう? 
そのような作用が現実世界には遍満しているのです。 
またそれも、起こることが起こっているだけです。 

> また、どうして様々な修行法(瞑想法)などが存在するのでしょうか? 

それは自我の、つまり偽物の自分ではなく、本当の自分(真我)がある事を知るきっかけを得る事が期待されるからです。 
あくまでも期待されるだけです。 
それらが直接、真我を具現させる事例をわたしは知りません。 
人が考え出した事ですから。 

>「誰の起こることも既に決まっている」のならば、どうして選択の自由があるのでしょうか? 
>(それは単に、「選択の自由があるように見えるだけ」ということなのでしょうか?) 
> 今日の昼食に、ラーメン屋さんに行ってラーメンを食べるか、カレー屋さんでカレーを食べるか、 
> 家でカップ麺を食べるか、そんなことも、すべて自分で決めているように見えるけれども、 
> 自分以外の何者かによって決められている、ということなのでしょうか? 

何者かによって決められているというより、決まっているものを選択したのです。 
あらゆる局面で選択しているのです。 
家でカップ麺を食べるという決まっている事を選択し、ちょっとぬるいお湯をカップの80%まで入れるという決まっている事を選択したのです。 
つまり、あなたがそれを許可したのです。 
そして、決まっている事が起こって行きます。 
偶然など、どこにも存在しません。 

>「ただ在る」に漂う、とは。 
>「刷り込まれた価値観や、欲や、執着、虚栄を一切放擲」する、とは、具体的にはどのようにするのでしょうか? 

ただ在るというのは唯一の真実です。 
どのように在る・・・とするならそれはあなたが唯一の真実に色を付けたのです。 
ですからどのようには、真実ではありません。 
そのように、ただ在る状態に落ち着くなら、「ただ在る」に漂うのです。 
「一切を放擲する」その具体は、それを選択するだけです。 
が、しかし、またそのようなつまらない物を拾ってしまいます。 
拾っては放り投げる、拾っては放り投げる。 
具体を言うなら、それしかありません。 
完全に捨て切れたなら、二度と拾い上げないでしょう。 

>「自己の内側の「ただ在る」に漂い、くつろぎ、そこに座を置」く、とは、どのようにするのでしょうか? 

自我に現れる思考、言葉、想念など、マインドのノイズを止めるのです。 
そうすれば、静寂に気づくでしょう。 
内側とは、その静寂にある種、存在的なものを知覚できる次元フィールドとお考えください。。 
これは、まったく知覚するしかありません。 
知覚しようとするのではなく、受け入れる受動的知覚です。 
知覚できたら、そこを自分の拠り所として、そこから出ない事です。 
そのようにしても自我は使えます。 
マスター(本当の自分)とスレーブ(自我)という正常な関係がそれで出来上がります。 

>「もうどうなってもいさ、神におまかせしてしまおう、 
> 神が起こすことを、何から何まで受け入れよう」とは、やはり、とても思えないです。 

それはよく理解できます。 
だれでもそうなのです。 
できなくても、問題ありません。それでいいのです。 
が、しかし、その時がくれば、そのようにしてしまうでしょう。 

> 自分の身体や、大切に思っているものが傷つけられたり、略奪されたり、暴力を振るわれたり、心身ともに痛い目に遭わされたり・・・。 
> もし、本当に「私はすべてを受け入れます」という人がいたならば、その人は、もう、それだけで、キリストに等しいと思います。 

そうです。そのとおりです。 
成し難い受け入れです。 
そうであるから、体験の人生をだれもが生きているのです。 
失う苦しみ、傷つけられる痛み、暴力の恐れ、心身の苦悩、それは、体験させられます。 
それであるからそのために、だれも生まれてなどいないのに、生まれたという人生を感覚するのです。 
トライアルが終われば、だれだってキリストと等しくなるのです。 
そうでなくても、キリストとあなたは優劣などありません。 
どうであろうが、ただ在るにおいては、我々は離れてはいません。 
二元の世界は、幻です。 
体験すべき幻です。 
唯一、ただ在るだけが、真実です。 

>「そんなドロドロした呪縛のような法則」とは、 
>「カルマや因果応報」「今まで信じて疑わなかった常識、当たり前、価値観」のことでしょうか? 

そのとおりです。 

>「今まで信じて疑わなかった常識、当たり前、価値観を手放」す、とは、 
> 例えば、どんなことでしょうか? 

だれでもつまらないものは、捨ててしまうでしょう。 
今までのそれが、歴史的過去から代々継承されてきたありもしないものであるなら、 
手放してしまって断定する事を、ラベリングする事を止めるのです。 

> 私は冠婚葬祭や社会の常識といったものが苦手なところがあるのですが、 
> すでに、私のように、社会常識から少し外れた人間は、 
> こういう価値観を、生まれつき手放しかけている、ということなのでしょうか? 

こういう価値観に真実を見出せないとし、真実を知りたい、わからない事を 
わかろうとする衝動が起こるなら、そういう事です。

 
2012-04-15