わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

自らを拠り所としなさい 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

 

自らを拠り所としなさい

 

仏陀は言いました。
「他を拠り所とせず、自らを拠り所としなさい。」

これは、他人に頼らず自分で何とかしなさいって事じゃなくて、
(マジでそう解釈する人がいるんですよ。 驚く事に)
本当に拠り所とするべきは、自己の内側にあるのだって事です。

見える世界の中に、神はありません。
もちろん、神の臨在で満ちてはいるのですが、
神の臨在とは、神の意志が現象世界のバックボーンとして在るっていう意味です。
「神そのもの」とは、ちょっと違います。

では、「神そのもの」はどこにあるのでしょう。

神という名前に拘らないでください。
拘ると、生い立ちの過程で刷り込まれた思い込みのイメージで捉えてしまいます。

源泉でもいいし、根源でもいいし、全くの根本という意味です。
それは、宗教とは結び付きません。
もともと在るものです。
というより、ほんとうはそれしか在りません。
だから何度も言うのです。
あなたは「それ」なんだよ!って。

「在るのはそれだけ」なのだから「在るあなた」は「それ」です。
自分を・・・身体だとか、思考する意識だとか、心だとか・・・どれも間違っています。

心じゃないの? って思うでしょう。
もしもあなたの心が、変化せずに、落ち込みもせず、ハイにもならず、懐疑心も虚栄心も慢心も、菩提心も・・・変化せず、頑固に燦然と輝いていたら、それは真実でしょう。
しかし、心は変わります。
真実が変わったら、真実ではありません。

ところが、変わることのない真実が内側に、心を超えた深層に在るのです。
それは、ただ在ります。

表面に現れている自我意識とはちがう、自分の内側の奥底に、その入り口があります。
それをわたしは、「窓」と言っています。
その窓が、「ここ」にあるんです。
胸の真ん中です。
アナーハタです。

ラマナは胸の右側だと言ってるようですが、
そういう人もいるでしょう。 否定はしません。

その窓が開くなら、その向こう側は、言葉では言い表せない愛の世界です。
ラーマクリシュナが放心状態で立ちすくみ、観ていたものです。

自我を離れた事を感覚し、思考、想念のマインドが静かになり、
内側に注意力をフォーカスすると、
そこに静寂の無限の世界が広がっている事に気づきます。
それは、何にも無い、”Null”の世界です。空(くう)です。
サーマディ(境地)を感覚するでしょう。

そこからさらに、恩寵に至らなければ、そこに留まれません。
窓が開き、源泉から愛が溢れ出し、自我意識にまで押し寄せ、世界に噴出すなら、
ハスラーラの窓も開いた事になります。

頭が解放されて、まるで頭が無くなったような気がするかも知れません。
世界そのものが、自分の頭になってしまいます。
もはや、自他の分離はそこにはありません。

自らを拠り所としなさい・・・とは、その源泉を、しっかり信頼して行きなさい、
という意味だと思います。

自我の執着するものを握り続けながら、神仏にすがっても、
かえって精神が混乱してしまうと思うんです。
執着は心の汚れです。
それこそがカルマであり、原罪なのでしょう。
気づかないうちに、歯垢のように、心にこびり付きます。

誰でも一度や二度ではなく、数えきれない程、神仏に祈り、願い事をしたはずです。
それ、叶えられましたか?
外側にいる神仏に、心の垢を付けたまま身勝手な願い事をしても、聞いてくれません。
もしも、叶えられたなら、それはきっと、

危ないやつでしょう。

さわらぬ神に祟り無し・・・と言われます。
宗教は、正しく理解するなら、とても素晴らしい学問ですが、
盲信すると、誤信すると、危険でもあるようです。

逆に言ったら、宗教は無くても、神は見捨てたりしません。
だって、それを信じるかどうかで、人の優劣なんて振り分けませんから。
皆さん、同じポテンシャルです。
どのようであれ、優劣はありません。

宗教は人の発明品です。
そうであるなら、他の思想もそうでしょう。

大切なのは、本当の事。 真実。
人の発明した物ではなく、思い込みの物ではなく、
思考を離れた、純粋な、清らかな、聖なる、内なる領域に、それを見つけて下さい。

2012-03-28