わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

観る者と観られる者・真実のわたしと思考のわたし 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。読者のコメントも付け加えておきました。(かなり長いですが、読む価値があると思います。)

 

観る者と観られる者・真実のわたしと思考のわたし

 

質問を頂いて、簡単に説明できると思ったのが、どうしたらわかってもらえるだろうと書いているうちに、ひょっとして結構これってみんなわからない事なのだろうか?と思い、つい長文になってしまいました。こちらに掲載します。

質問1
> 「思考」と「思考の働き」はどう違いますか?

思考とは、マインドそのもの。
あなたにとっての「わたし」です。
あなたが思考するとき、あなたにとっての「わたし」がそこに居るのです。

思考の働きとは、あなたにとっての「わたし」に思考が引き戻す作用です。
「わたし」は思考する事によって、そこに現れ、思考の働きによって、そこに住まわせられるのです。
思考によって「わたし」を知覚し、思考の働きによって思考に留め置かれるのです。

あなたが思考を止めるなら、「わたし」は消えます。
そうであるなら、ほんとうは「わたし」は無いのです。
思考が作り出す観念です。

思考が無い状態で、「わたし」はどこにもいません。
もしも、「わたし」がいるなら、それは思考しているのです。

思考を止め、「わたし」を消そうとすると、思考の働きは恐怖をあなたに抱かせて「わたし」に引き戻そうとします。
それは「わたし」の死を意味するのだと脅迫するのです。

マインドの思考は、すべて妄想であって、真実ではありません。
現実という、このリアル感も、マインドによる妄想です。
今はそれを実感できないでしょう。
あまりにも現実がリアルなため、そんな事は有り得ないと感じるでしょう。

しかし、明らかに妄想なんです。
真我の側に向き、そこにあって言葉によらない洞察をするなら、(定に入るなら)
そのリアルは造られたものであることがわかります。
リアルさえ、思わせられている妄想なんです。
思考による捏造なのです。

真実の自己側に立つには、簡単な事です。
思考を止めれば「わたし」はどこにも居ません。
一瞬でも「わたし」を思えば、それは思考です。

そうでなければ、「わたし」を放っておいて、それを観ることです。
「わたし」を観ている「観る者」は、思考に住んでいる「わたし」ではありません。
「わたし」を放っておいて、それを観るなら、
「わたし」は観られる者であって、「観る者」が、思考の外に居る事になります。

その観る者の立場に入ればいいだけです。
観る者は、あれやこれや思考しません。
ただ、感覚します。わかる事をわかるだけです。

そのコア(核)が胸にあります。
そのコアがハートです。

思考から離れて、思考を観るとき、人によっては「観る者」は背後に感覚する人もいるかも知れません。
あるいは、全面に感覚する人もいるかも知れません。
しかし、足に感覚する事はないでしょう。
お尻に感覚する事はないでしょう。

胸の中央、その位置の前か後か中央か、その辺にあります。
力む事無く、構えず、普通に、あ、ここか・・・と探ればわかります。

しかし、これは、わかってしまった人が探るから、あ、ここか・・・とわかるのではないか?
と言われれば、そうかも知れません。
でも、やってみるのです。
やってみ続けるのです。
やり続ける事がなければ、それはいつまでもわからないままです。

ちょっとでもそこに何か感覚できたら、とにかく味わうのです。
熱心に味わうのです。
まず、味わう事が思考を離れている事です。
「わたし」ではない、何かを熱心に探る時、「わたし」をつい、忘れているでしょう。
知らず知らずのうちに「わたし」を忘れて、熱心にそれを味わううちに、幸せな感覚、喜びの感覚が現れてきます。
執着によるそれ、欲によるそれではない、真実の愛がその幸せであり喜びなのです。

質問2
> 「胸でわかる」というのは、単なる身体感覚ではないんですよね。

身体の感覚を感覚している者は、だれでしょう。
あなたにとっての「わたし」です。マインドです。

それは思考によって感覚の種類を断定し、「わたし」が感覚していると思考します。
あなたが、あなたにとっての「わたし」に同一化している以上、それは身体感覚です。

ここで、「あなた」と言っているそれは、あなたとしての実存在の事を言っています。
あなたにとっての「わたし」は、あなたの実存在の狭い意味での何かではあっても、
実存在のあなたその物ではありません。

あなたにとっての「わたし」は思い込みの「わたし」でしかありません。
そう植えつけられた思い込みでしかありません。

もしも、赤ん坊のあなたが、他に人がいない世界に独りだけ放り出されて育つとすると、言葉も思考もなく育った事でしょう。

そこには、「わたし」はまったく無い事でしょう。
ただ、何かしら自己としての感覚はある事でしょう。
それは思考せず、ただ直観で身体を動かす事でしょう。
ただ直観で、状況を判断して行く事でしょう。
危険もそのような手法で回避して行くでしょう。

世界にあなただけが在って、言葉など知らなくて、直観感覚だけで世界と関わるなら、ただ在るだけがあなたです。

そのようなわかり方が、胸でわかると言う事です。
それは思考による知恵(ちえ)ではなく、彼方から溢れてくる智慧(ちえ)なのです。

そのような、全くの創られたてのアダムの状態が身体を持った状態での実存在のあなたです。
そうであるならば、身体を失う事は、ただ、世界が変容する事でしかありません。
そのような人がいたとして、そのような人にとっての生死は、ただ見える世界の変容でしかありません。
見える世界が変容するだけで、あなたの実体は、どうにも変化なく、ここに在るのです。

そのような胸でわかるわかり方ができないのは、言葉を得てしまった事によって思考に捕まってしまったからです。

思考でわかろうとするしか、もはやあなたには、わかり方が無いからです。

しかし、無いわけではありません。
思考を捨てればいいのです。
それだけです。

アダムに戻ればいいのです。
知識の実を食べる前の、神に導かれ、神と共に居たアダムに戻ればいいのです。

あなたが言葉による思考という実を食べたから、神を恐れ隠れなければいけないのです。

「わたし」になる必要など、ほんとうは無かったのに、お母さんも、お父さんも、家族みんなが、そして学校、社会が、「わたし」と「あなた」の関係を刷り込んだから、完全に「洗脳」されたのです。

目覚めとは、つまりその「洗脳」から解かれる事なのです。

「わたし」は、ほんとうは無いのであるから、思考は妄想なのです。

思考を止めるか、思考から離れるかすれば、「わたし」が消え、実存在の自己が残るでしょう。

胸に在るハートの向こうに、実存在の実体のあなたが在ります。
ほんとうはそれしか存在してないのです。

ハートには、わかる力、智慧が流れ込んでいます。
同時に、ほんとうの愛、ほんとうの幸せ、ほんとうの歓喜が流れ込んでいます。
思考に騙されて、「わたし」に居るから、わからないのです。

ハートの向こうに、実存在のあなたを見出すのです。
それが、神の正体です。

「神を求めるのなら、人間の中に求めよ。
神は、何よりも、人間の中に明白である。」

そのようにラーマクリシュナが言います。
まったくの事実です。
真実です。

目覚めた者のほんとどが、そう言います。
それが実感できるのです。

「わたし」を、それに差し出して、それを完全に受け入れて、それの言いなりになればいいだけです。
それの召使になればいいだけです。
それの道具になればいいだけです。
どうってことありません。
それというのは、神であっても、あなたそのものである事には違いないのですから。
それしか、あなたでは無いのですから。

 

2012-06-11

 

 

【読者A】 頭の中で音楽が

花岡さん、詳しいご説明ありがとうございます 
(とは言え、まだ充分に理解できてないのですが)。 

それにしても、思考(言葉)をやめることについても、言葉で説明するしかないというところが、なんとも悩ましいですね。 

さて、先ほど静かに坐ろうとしていたのですが、頭の中で音楽が流れ始めてしまいました。 
これも思考の一つなのでしょうか? 

こういうことはよくあるのですが、その場合は、音楽が鳴るままに、放っておくのがよいのでしょうか? 

それとも、いったん坐るのを中断して、他のことをしたりするのがよいのでしょうか? 
(あるいは、何か音楽を止めるための方法がありますでしょうか?)
     

【花岡】 Re: 頭の中で音楽が

おはようございます。 

音楽が流れるのも、もちろん思考です。 
それも、CDを聴くように、完璧なアンサンブルで聴こえてる事でしょう。 

その程度は、止められませんか? 

それは、すごく止めやすい思考ですので、思考を止める練習にもってこいですけど。 
止まりませんか? 

じゃあ、意識して別の音楽を頭の中に流してみてください。 
それは止められるでしょう? 

     

【読者S】 圧倒されてます

このブログのメッセージ、すごいですね~圧倒されます。ブログを読むと、そうよね、そうそう!と思って世界が広がった気します。 
うまく書けませんが一言感動を伝えたくて。これからもそんなにコメントできないと思いますが、更新を楽しみに読ませていただいてますので、よろしくお願いします。
     

【花岡】 Re: 圧倒されてます

Sさん。 
はじめまして。おはようございます。 

源泉かけ流し、花岡温泉へようこそ。 

あ、繋がってますね、それって。 
ハートの波動が、気づかないうちに同期してるから、そう思うのです。 
波動に感じるから、感動と言います。 

これからも、コメントお待ちしています。 

     

【読者T】 ハート

花岡さん、みなさんこんにちは。 

Sさんはじめまして。 

すごい波動を出しているんですね。

私たちはひとつだとわかりますね。 

日常生活を送っていると、よく思考にはまってる「わたし」に気づきます。 
すぐにハートを感覚する癖がつきました。 

誰もが、錯覚、幻想だとなかなか信じられない程洗脳されてますね。 

観察するものに身を置くと、段々幻想なら、きちんと幻想に気付き、何で?どうして?と嘆くより、気付くように促されてるツールなんだと、ただ経験しているプロセスだと思えるようになれば、冷静に静かな気持ちで自分を再構築出来ますね。 

私たちがやるのはそこまでで、後は任せてしまえばいいんですね。 

ハートを感じると自分がなくなりますね。 

     

【読者N】 はじめまして

花岡さん、みなさん、いつも素敵なお話をありがとうございます。 

花岡さんのお話が「いまここ」で紹介されてからずっと読ませてもらっています。 
花岡さんのお話は、頭で理解しようとするとややこしく感じますが、ハートでつかもうとするとよくわかる不思議な感じがします。 

ひとつだけ、どうしても気になることがあるのです。 
よく、悟りの状態を赤ちゃんの状態に例えますよね? 
わたしには言葉を持たない家族がいます。知能は赤ちゃんのまま、身体だけが大人になりました。 
彼女はありのまま、いつも「いま」に在るように見えます。 
私たちが現実とするものにほとんどかかわらず、やってきた感情をそのまま表現しています。 
怒りの波がやってきたときには、物や人、自他問わず暴力をふるいますし、悲しい時や嬉しい時は周りの状況に関係なく大声をあげて叫びます。 
わたしはそんなとき、とても悲しく辛くなります。 
毎日毎日、延々と続いているのです。 
そうすると、言葉や思考を持たないことが良いとはとても思えなくなるのです。 
もちろん、彼女と私が違うことはわかっているのですが。 

ただ、彼女にはいろいろ教えてもらってます。 
喜怒哀楽の感情はどこからかやってくるだけ、幸せになるのも不幸になるのも自分次第だということ。 
そして、それは善いことでも悪いことでもない。 
ただ、それだけなんでしょうね。
     

【花岡】 Re: はじめまして

Nさん。はじめまして。 
どうぞよろしくお願いします。 

知能は幼く、身体がオトナになっても、みなさんや、いろんな方と接してやはり、何かしらの思考は創って生活しています。 
でも、健常者のそれよりは、ずっと自分にとっても他にとっても素直なのです。 
素直に自分の気持ちを表現しているのです。 
飾らず、虚栄がない分、それはずっとずっと清らかであると言えます。 

しかし、相対する家族のみなさんは、どうしても苦悩、辛さを感じてしまいますよね。 
それなのに、そのように冷静に判断なさっている事に、頭が下がります。 

彼女にとっての家族、家族にとっての彼女、それは偶然そうなってしまった関係では決してありません。 
あなた方と彼女、神との間に契られた、約束です。 
お互いに経験しあう課題を共有した物語です。 

そこから、お互いに学び合う得難い体験の約束をして、今それが成就されているのだと思うのです。 
そして、今からまた学びは続いて行きます。 

そうであるなら、どうか条件を持ち出さない愛で、接してあげてください。 
彼女の振る舞いに腹を立てるなら立ててもいいのですが、愛があるなら、愛によってそれはすぐに消化されてしまいます。 

わたしは、認知症の母を介護しています。 
認知症は時には、意味不明な怒りを発することがあり、そのような時には、母も暴言を吐きます。 
でも、愛が、それをまったく許しています。 

そのような母を、わたしは全くそのまま受け入れ、動かない足をさすり、下の世話をし、食事の補助をします。 
そのような時、いつもハートに自分を置き、神への献身のつもりで世話をしています。 
母への献身が、そのまま神への献身と思って世話をいています。 

そうすれば、どんな暴言も、態度も許せてしまいます。 
悲しく、辛いかも知れませんが、それが愛を知るための、お互いの課題の物語である事をわかってあげてください。 

それを試練だと思わないでください。 
それを修行だとも思わないでください。 
あくまでも、約束した、課題です。 
それが成就しているだけです。 
愛を知っていくための、課題です。 
そうご理解ください。 

もちろん、善いも悪いもありません。 
ハートの条件を持ち出さない愛に気づき、その愛によって受け入れてあげてください。 

     

【読者T】 お察しします

Nさん、はじめまして。 

延々続く日々、なるさんはやり場がなく、涙した事を一体どのくらい過ごしたのでしょう。 

いつ果てるとも知れない時間に紛れ込み、出口などないのではないかと思う事もおありでしょう。 

ほとんど、条件反射のように、Nさんは、同じ思考でいっぱいでしょう。 

そんな時に、静かになり、ただ思考に気付くのは大変難しく思えますよね。 

それでは、比較的穏やかな時間、静かな場所で、一人にはなれますか? 
わずかでも、静かになり、ハートを感じてみて下さい。ちょっとづつでも確実に、前に進んでいます。 
誰でも、一度に一歩しか進めないですからね、どうか、Nさんが少しでも穏やかに過ごせますよう、心から願っています。 

きっとここにいるみなさんが祈っていますよ。 

答えにもならなくてすみません。 

Nさんの気持ちが少しでも軽くなりますように。
     

【読者K】

Sさん、Nさん、 はじめまして。 

花岡さん、Tさん、オール 

Tさんの目覚めに続くかのようにAさんのとこでも読者さんから目覚めた人がでてきて皆さんから 
祝福されてましたね、 

やはり今はもうすでにパラダイムシフト(物の豊かさからハートの豊かさへというの個人から社会までの価値観の変化)が始まっていて目覚めの連鎖反応が起こっているのかも知れませんね 

目覚めに興味を持ち始めた頃に見かけたとても 
私のハートに響いた詩をシエァさせて頂きますね 

随分前なので、うろ憶えだけど・・・ 

わたしは、どこにでも「在る」んだよ。 

あなたの娘の無邪気な言葉に 

あなたに語りかける母親の瞳の奥に 

暖かい子犬の温もりに。 

不器用なハーモニカのメロディに。 

朝露を照らす朝日にも。 

あなたの髪とたわむれる秋風に。 

3ヶ月前の雑誌の中に。 

今あなたの友人の舌先から出掛かっている言葉に。 

耳をすませば、わたしの言葉はどこからでも聞こえるよ。 

「聖書」とか、「悟りの本」だけにわたしの言葉が在ると思うかい? 

仮にも「神」と呼ばれるわたしが、そうしたものだけ 

にしか宿らないと思うかい?とんでもない! 

わたしは、どこにでも「在る」!! 

ただ、在るんだ。在りて在るんだよ。 

始めであり、終わり。昔いて、今もいる。 
それがわたしさ。耳をすませばいい。 

そしてそっと、静かに。鏡を見るといい。 

そこに、あなたは神の一つの形を見るだろう。 

そう、今ここに そして 永遠に。 
     

【読者A】 ナイス!!

K! ナイス!!(再び) 

グッと来た。 

それにしても「うろ覚え」でよくこんなに覚えてましたね。
     

【読者A】 Re: 頭の中で音楽が

花岡さん、ありがとうございます。 

音楽が流れるのも、思考に入るんですね。 
そうそう。CDを聴くように、完璧なアンサンブルです。 

前日にファミレスで流れていたビートルズの曲が自動再生されちゃったみたいです。 

意識して音楽を頭の中に流すのをさっきやってみましたが、こちらは、意識して(エネルギーを注いで)流し続けないと止まってしまうので、簡単です。 

音楽の自動再生は、今日は今のところありませんので、止められるかよく分かりません。
     

【読者M】 出掛ける前に♪

花岡さん、皆さんこんにちは。 

出掛ける前に、ほんの一言づつコメントしちゃいます。 

記事を読んで、言い表しようの無い感覚でハートがフワーッと拡がるような感じがしています。 

Sさんはじめまして!これから宜しくお願いします! 

Tさん。 
Tさんの思いが流れ込んできたのか、ふわりと温かな涙が零れました。 
不思議な感覚です。 

Nさん。 
Nさんのハートが、愛と平穏で満たされますようにと、ただただ、祈っています。 

Kさんありがとう。 
シェアして下さった詩は良いですね。私たちは神と一体なんだと感じます。 

Aさん。 
AさんがKさんの事を「K」って呼び捨てにすると、めっちゃフレンドリーな感じがします。 
良い感じ♪ 

短いコメントですが、思わず書き込んでしまいました! 


     

【読者T】 ありがとう

花岡さん、みなさんこんにちは。 

Mさん、ありがとう。 
みんなに一言コメント。嬉しい心遣いですね。 

Aさん、新しい方々がいらしてから、なんか凛々しくなった気がするのは私だけかな? 

Kさん、胸が詰まる詞をありがとう。 
素敵ですね。 

花岡温泉は益々繁盛しますね。

毎日ただで浸かれしかも 
心も身体も温まり、言う事ないね。 

     

【読者N】 ありがとうございます

花岡さん、Tさん、そして皆さま、ありがとうございました。 

わたしの人生の経験は必然であると理解してはいるものの、思考でいっぱいになると、ハートから離れて思考の渦の中から抜け出せなくなってしまいます。 
でも、本当のわたしが経験したかったことが、たったいま叶っているんですね。 
これからも、花岡さんの感じている愛を知るため(思い出すため?)に、日々を送っていきたいと思います。 

ほんとうにありがとうございました。 
これからも、ブログの更新を楽しみにしていますね!
     

【読者K】

Aさん 
>K~! ナイス!!(再び) 

サンクスでも残念ながらこれは借り物なんだよね~ 

Aってがっかりしないでね 

こないだのラップは即興のオリジナルなんだけど・・ 

M さん 
こないだMさんが予言してたような状況に 
なってきたね、約束の地ならぬ約束の温泉に 
最後のピースをはめるために続々集結している 
感じがするね~ 

Tさん 

>毎日ただで浸かれしかも 
>心も身体も温まり、言う事ないね。 

そうなんですよね、おまけに自然の山奥の鳥のさえずり、たまに鹿や猿もきてたりおまけに混浴ときてるからハートが源泉の花岡温泉はたまりませんな~ 
Tさんもある意味こちらで目覚め体験を 
語ってくれて良かったって思うな~これも大いなる方(ハート)の粋な計らいだったのかも知れませんな~ 

Nさん 
我々も降参という最後のパズルをはめて 

自分まるごと差出し、明け渡し、 

生きてるだけで丸もうけという心境で 
日々好日の生活をおくるようになりましょうねー 

娘さんにもよろしくね~ 
     

【読者A】 夢と現実

花岡さん、みなさん、おはようございます。 

(A氏も最近同じようなこと書いておられましたが) 
今朝、睡眠中の夢の中で、(詳しいことは忘れましたが)何か問題が生じていました。 
「これをしなくちゃいけない」とか「償いをしなくちゃいけない」とか、そんなようなことだったと思います。 

でも、その時すでに、半ば目覚めたような状態で、「目が覚めれば問題が消える」というような思いがどこかにあったような。 

それで、目を覚ましてみると、何も問題は存在しない。 
問題自体が存在していないのです。 

いま私が現実だと思っているこの世界も、覚者から見れば夢のようなものだと言われます。 

ということは、今私がこの世界で問題だと思ってること、解決しなきゃいけないと思ってること、 
人間関係の苦しみ、苦悩、・・・ 
それも全部夢のようなもので、実際には存在せず、私は存在しないことで日々悩まされているのでしょうか? 

だとすると、この問題・悩みとは一体何なのでしょうか?
     

【読者A】 歩いているとき

昨日の夜、散歩をしていたのですが、すると、いろいろなネガティブな想いが噴出して来ました。 

屋内で静かにしているときと違って、歩いているとき、そういうネガティブな想い(恨み・怒り等)に知らぬ間に捉われてしまっていることが多いように思います。 

これってどうしてなのでしょうか?
     

[420] おはようございます

花岡さん、みなさんおはようございます。 

Aさん、ウォーキングをすると、歩き初めて15分~20時分もすると、脳内にベータエンドルフィンというホルモン物質が分泌され、これが出てくると、気分がウキウキしてきます。 
そして、それに続き、セロトニンというホルモンも出てきます。セロトニンは精神を安定させ、盛り上がり過ぎた気分を少しクールダウンさせ、頭の中に広がるだけ広がった考えを地についたものにする働きがあります。 

by DrT

なんってぇ~(笑)うっそー!本の受け売り。 

て言うことは、歩きながら、いまここに居て愛が溢れていれば自然に幸せ体質になるんだね。 

それと、セロトニンは、ボディラインやフェイスラインを引き締める効果があるんですって! 

Aさん、いまここ以外は、みんな幻想で本当は何も起きてないって事で、今体験してる事は、体験しているだけって事じゃないかしら? 
Aさんがどれだけ苦悩していても、その事と、真我とはなんの関係もなく、始めから幸福で、愛され、護られてるって事です。 
信じられないですよね、でもこれが現実なんですよ。 
Aさんの苦悩はきっと、シナリオにある通りで、幸福の対極にある事でしか幸福は体験出来ないですものね。 
みんな最後に行き着く所は同じで、ハッピーエンドです。 
だったら、それは今すぐ今ここで体験してもいいはずです。 
Aさんの苦悩に光りがあたり、明るくなれば、影は消えてしまいます。苦悩はただの影でそこに、不安や怖れや心配などネガティブになれば成る程抵抗し、益々影は強固になりますから、あるがまま受け入れ、観察者の立場でそれに気付いていれば、段々自我が力を失って来ます。 
自我(思考)に気付いてれば、受け入れ、ただ景色を見ているようにするとやがて自然となくなって行きますので、繰り返して行けばそうなります。 
ウォーキングでウキウキ幸福体質になっちゃいましょう~一緒に!(笑)