わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

味わい知る事の尊さ 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

味わい知る事の尊さ

 

自我と言っても、そもそも自我とは何か?と考えると、掴みどころのない架空の物のような気がします。

「わたし」という感覚は、だれもがわかるでしょう。
「わたし」の事は、「わたし」が一番よく知っていると、だれもが思うわけです。

「わたし」が行動している。
「わたし」が考えている。見ている。聞いている。感じている。起こっている。恐れている。
何から何まで「わたし」が体験しているわけです。

「わたし」が「わたし」と思うこの「わたし」(主体)と、「わたし」が、あの人、彼ら、あの星、あの海、この出来事、この現象、などと思う、つまり「わたし以外」(客体)とに分けて認識していますが、「わたし」が関わる一切は、「わたし」なくして捉えられないわけです。

それらすべてが、自我というこのパッケージの中に存在していて、全てその中での主体である「わたし」の感覚であり、認識なわけです。

そうであるなら、「わたし」が展開している世界です。
「わたし」が世界を映し出し、それを「わたし」が見ています。
パッケージの中で「わたし」が「わたし」という主体と、「わたし以外」という客体に分離させて、見ているのです。

言ったら、そのパッケージが自我ですが、ほんとうは自我など無いのです。
主体と客体が、ひとつのものに統合されるとき、「わたし」は消えます。
「わたし以外」も消えます。
「わたし」と「わたし以外」が統合され、「わたし」でも「わたし以外」でもない、「有る」になります。

「わたし」とは「わたしである」と思考する者です。
それが消えるなら、思考も消えるのです。
思考が無い状態で、もはや「わたし」も、「わたし以外」も認識も断定もできません。

「わたし」というのは、その状態を恐れるのです。
「わたし」が消えてしまう事に、言いようのない恐怖を覚えるのです。
「わたし」が消えて、無になると思い為すからです。
「わたし」が消える事など、絶対有ってはならないと、断固拒否するのです。
分離して主体となった「わたし」には、そのような作用があるのです。

自我が未成熟だからです。
自我のどこかが歪(いびつ)だからです。

その未成熟の部分を体験して知り尽くす事で、それが無くなります。
つまり、恐怖を体験し、恐怖というものを知り、恐怖という歪な部分を補正する事で、歪な部分がきれいになります。

怒りも、そうでしょう。
自我の怒りという部分が歪であるから、怒りを知り、補正する必要があるのです。
それだから、怒りを体験しないわけにはいかないのです。

それらは、知識では学べないのです。知識では知る事が無いのです。
それは、実際に味わう必要があるのです。

その味を、味わい尽くして、そしてはじめて・・・もういらない・・・が現れます。
ブランド牛も毎日何度も味わっていれば、味わい尽くし、もういらないになります。
補正されて歪な窪みが埋められ満たされたから、もういらないのです。

悲しみを味わう。
辛さを味わう。
苦悩を味わう。
喜びを味わう。
楽を味わう。

いろんな自我のあちこちを、完全に補正し、埋め尽くして完全球体の自我にするために、人と人との関わりの中で、人と社会の関わりの中で、人と現象の関わりの中で、人と起こる事の関わりの中で、味わう体験をしているのです。

なんでこんな苦労をしなきゃならないんだろう。
なんでこんなに悩まないといけないんだろう。
なんでこんなに辛い人生なんだろう。
そのように思いながら、流されて生きていますが、それは味わう必要があるから、どうしても味わうのです。

気が付かないでしょうが、ブランド牛を求めるのと同じように、自ら求めているのです。
どうしても、そのように作用してしまいます。

自我の完成のプロセスです。
味わい、味わい尽くしたら、もうその部分は味を求めないのです。

自我は完成されなければいけません。
それが物語の終焉でもあります。

知識で知っている事は、知っている事ではありません。
それは、体験したのではないから、味わいを知らないのです。
知識は、つまり、言葉としての記憶であり、味わいの記憶にはならないから、自我の成長の役に立たないのです。

さて、虐める子供がいます。
そして、虐めるオトナがいます。
さらに、虐める事は、人の道に外れると知る子供がいます。
もちろん、虐める事は、人の道に外れると知るオトナがいます。

相手の立場を全く思いやる事が無く、一方的に自分の立場を主張するオトナがいます。
相手の立場を思いやり、自分の立場を押し通そうとはしない子供がいます。

そうであるなら、人としての成長とは、子供とか、オトナとかは、あまり関係ないように見えます。

それは、自我の遍歴、自我の完成が、ひとつの生で終わる事がなく、数多くの輪廻で継承されているからなのでしょう。

自我の完成とは人の完成の事です。
子供とかオトナとか区別があるわけではありません。
障害者と健常者の区別があるわけではありません。

ただその人に味わうべき出来事が今起こり味わい、味わう事で自我の歪を埋めていくだけです。

味わい終わる事で、やっと手放す事ができます。

だから、そのまま味わう事が必要で、なにも間違ってはいないのです。
そのまま、体験して生きていく事が、それで完成に向かっています。
どうしても、嫌だ嫌だになりますが、それさえも、味わっているのです。

そうして、自我が完成され、「わたし」と「わたし以外」が統合され、「わたし」も「わたし以外」も、共に消え去ります。
自我は本来無いものだと知れるのです。
自我は本来の在るに統合されるのです。

もちろん「真実の愛」も味わう事になります。
それがあっての自我の完成です。

この愛、この喜び、この幸せを味わう事が、最後の味わいです。
もはや、なにも味わう必要がなくなります。

完成されたのです。
それだから、仏陀を、「幸せな人」「完成された人」と呼ぶのです。

人の世とは、こんなにも尊いものなのです。
尊い夢の世界です。

 

2012-06-13

 

【読者T】味わう

花岡さん、みなさんこんばんは。 

本当にわかりやすく、また理解が深まります。 

ただ「在る」 
何でもない私。 
愛と光りと悦びそのもの。 

味わい尽くすって、体験そのものになりあるがまま受け入れるって事ですね。 
真っ只中にいると見えないけど、少しずらして観察すると見えて来るものもありますよね。 
何回も、試し、挫折し、駄目だとあきらめた事もすべてプロセスなんですよね。 

ずっとずっと、過去からの経験から、苦しい、悲しい、辛いなどの思考が、自動的に浮かんで来てしまうので、気付いて断ち切らないと本当に無限ループ。でもこれもプロセスですね。 
やっぱり今ここしかないとわかりますね。 

人間関係が、みんな厄介に思います。 
煎じ詰めれば、自分と自分との関係なんですよね。 
私つい最近その体験をしたばかりです。 
自分を愛し、認めて受け入れてあげる事が大切なんだと言う体験でした。 

愛に勝るものは無し。 
愛に出来ない事は無し。 
愛こそ全て。 

言ってる私はちょっと気恥ずかしい。