わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

幸せになりたいなら 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

幸せになりたいなら

 

だれでも自分の意識に現れた世界という物語の主人公です

その世界は、自我から見ると不幸な世界かも知れません。
でも、その不幸という断定は、
物語の主人公である自分(自我)による断定で、
結局、世界は自分の在り方で、どのようにも見えてきます。

では、幸せになりたいならどうすればいいのでしょうか?

幸せになりたいって言い張るのは、
自分は不幸なんだと言い張っているのと同じですよね。

そうすると、不幸な自分の物語の世界にしか見えなくなるのです。

本当に不幸?

それは他(客体)との比較によって作り出した有りもしない想像ではないでしょうか?
もしも、他も、同じ境遇なら、やっぱり自分だけが不幸だと思うでしょうか?

足りているなら、満足しなさい。
今に満足するなら、幸せでないはずがないのです。
そして、満足するなら、その事に感謝するのです。

そうすれば、不幸だった世界が、なんと幸せな物語に変わっています。

足りているのに満足しない自我の欲望が、不幸という苦悩を返してきます。
欲望を満たすだけの幸せは、はかなく消えてしまいます。
さらに大きな欲望が湧いてくるからです。

足りていれば、それでいいじゃないですか。
それに満足すればいいのです。
それに幸せを見出せるなら、さらに大きな幸せが展開されていくでしょう。

自分の在りかた、状態のとおりに世界は展開されていきます。

神を疑うことなく(信じるとはちがう)、
神を信頼して生きるなら、
神の愛に満たされるでしょう。
これを超える幸せを、わたしは知りません。

欲望を満たすために、目をぎらつかせて生きるのは、もうやめましょう。
自我の思考が作り出した持論を声高に、うるさく言い張るのはもうやめましょう。
お金、名声、権力、賞賛、執着が姿を変えた愛、
それは虚栄であって、手に入れるものは偽物の幸せで、気づけば苦悩です。

悟りが欲しい悟りが欲しいと言い張るなら、自分は悟れないと言い張るのと同じです。
悟りがなくても、真摯に生きているなら、、
悟りがなくても、満足しているなら、
明日にでも、突然悟りはやってくるかも知れません。


2012-03-06