わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

記事・パンチャ・シーラ(五戒)への質問 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのやりとりを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

記事・パンチャ・シーラ(五戒)への質問

 

前回の記事、パンチャ・シーラ(五戒)について、質問を頂きましたのでお答えします。
この記事については、何かしら質問が来るだろうなって、ある意味期待していたところもありました。
きっとみなさん、うんうん、どうなんだ?って頷いてAさんの核心を突いた質問を読まれたのでしょうね。


1.目覚めは恩寵として与えられるのに、
やはり、瞑想がその準備として適切であるのと同じように、
五戒もまたその準備として適切である、
という意味でしょうか?

恩寵、瞑想、五戒、これらは相互に関連がありますが、それぞれ全く別の事です。

恩寵は完全に明け渡した時に与えられる源泉からの愛であり、慈悲です。
五戒は恩寵を頂くためのものではなく、明け渡す状態に入るために必要です。
五戒によって思考想念のカルマを作る事を止め、またその浄化にも役立つという事です。
瞑想は気づく力を養うのに有効です。
元々その能力を有していて必要ない人もいれば、瞑想した方がより良い人もおられます。

それぞれ全く別の事が、相互に連携して目覚めへと導きます。


2.それから、お酒については、前々から疑問なのですが、
目覚めたといわれる方でも、お酒飲む人がいます。
これは、どう考えたらよいのでしょうか?

お酒が悪いわけじゃないのですよ。
でもお酒に引き寄せられる(求めてしまう)執着と、脳に対する現世的肉体的な作用を考慮したら、飲まないほうがいいと言う事です。
酒を飲んではいけませんというのは、あくまでも求道者、探究者の立場に対してであって、言ったら目覚めたら後は飲みたければ飲んでも構わない訳です。
しかしながら、目覚めた人がお酒に執着する事はありません。

そうであっても、(何かの集会とかで)状況を鑑み、そうするのが適切となるならば(場を波立てないためとか)飲むかも知れません。
また、酒をすすめられる事が、真実好意によるものであって、それに応える必要があるなら、そうするでしょう。
つまり執着しないからこそ飲む事もあるわけです。

仏陀は鍛冶工チュンダのもてなす毒キノコ料理を、そうと知っていながらあえて受け入れました。
小異を残し大同に就く(小異を捨ててではありません)という言葉がありますが、逆に仏陀は、どんな小さな供養にも、今出来る最大を傾けて応える人でした。
後に現れる大きな何かよりも、今必要な事を成すという人です。
チュンダのこのようなもてなしに、また供養に、命を懸けてまで応える潔い人でした。
このような仏陀を、敬愛せずにはおれません。

では、目覚めた人がひとりで家に居て酒を飲むか?と言われたら、それは飲まないでしょう。
ただ在るであるその人が、そのようなものを嗜好するとは思われません。
また、何もすることがないからと、お店に酒を飲みに行くという事もありません。

もしもあったとしたら?
う~む。
わたしには理解できません。
ぜひその方に、直接教えて頂くのがいいと思います。

むしろ目覚めた人は、飲食をむさぼらず、誰にも会う事の無い山中に隠遁したくなるものです。
神と共に在る事さえできれば、そうしたくなると思います。
既に生きる事を捨てているはずですから。
既に捨てて、生きているはずですから。


3.不殺生戒(?の戒律)について
私は、蚊に刺されるとかゆくて仕方がないので、蚊は基本的に殺しています。
花岡さんは、蚊にはどのように対処されていますか?

そのように生きるように課せられた命でも、神の現れですので、あえて血を供養する事もあります。
やっぱり可哀そうで潰せなくなります。そうなってしまうんです。
大きな蚊や、ある環境の蚊は、やはり危険ですので、息を吹きかけて飛んで行かせます。
夕方の外などは刺されないように衣類でガードします。
しかし、不思議な事に、昨年今年と全く蚊が寄ってきません。
個体数が減少しているせいなのか否かは不明です。

またある日、こういう事がありました。
花菖蒲の畑で作業していると、向こうからでかい黒い犬が大きく上下にバウンドするように走ってきました。
ずいぶん大きな犬だなあと思っていると、あっという間に50m先まで来ています。
そして、わたしを確認するなり、ピタッとそこに立ち止りこちらを見ています。
なんとそれは犬ではなく、熊だったのです。
まだ成獣には至らない小熊でしたが、それでも犬よりははるかに大きく、胸の白い三日月がはっきり見て取れました。
眼と眼が合った瞬間、わたしは「あっ!かわいい」って思ってしまいました。
でも熊は驚いてしまったようで、急いで来た方向に向きを変え、懸命に逃げて行きました。
全てを神に委ね、起こる事が起こるままに受け入れているわたしには、恐怖心が湧き起る事も無く、熊がかわいいとしか思えなかったのです。
熊は害獣でしょうか。
熊にとっての我々が、害人間なのです。
どうか人間に見つからずに生きていて欲しいと思ったものです。


4.また、アリやワラジムシが、木造の家・建物を食べて、
老朽化を早めていることがあります。
こういうときも、私は殺虫剤を仕方なくまいてしまうことがありますが、
花岡さんならどうしますか?

幼虫成虫を掻きだし集め、離れた場所の木の切り株の傍とかに避難させた後に、殺虫剤ではなく防虫剤を塗布すると思います。
ごめんなさいね、経験が無いものですから。
たぶん、そのようにすると思います。


5.農業をされていたら、虫の害というのが、必ずあると思うのですが、
どのようにしてそれを避けておられるのでしょうか?
(全く殺さずに農業ができるのでしょうか?)

野菜を出荷するとか、お米を生産するとかの農業はしておりませんが、自家用の野菜は育てます。
全く薬品を使用しません。
おかげでキュウリもトマトもカボチャも茄子も白菜キャベツも、きれいなものはできません。
虫さえ食べることをしない危険な野菜を、なぜ人は好むのでしょうね。
虫が食べるという事は、安全ですよと証明しているようなものです。
もちろん市場には出せませんので、自家消費用です。
雑草を出さないよう耕し管理すれば、虫はあまり出てきません。


6.花岡さんは、ベジタリアンですか?
あるいは、乳製品・卵も摂らないビーガンですか?
私もベジタリアンになれたらいいなとは思うのですが、
現在のところ、肉や魚介類を食べたいと思うこともあり、ベジタリアンには成れていません。

また、一時、肉や魚をできるだけ食べないでいたら、
身体のエネルギーがなくなるような感じがして、あわてて肉を食べたことがありました。

瞑想だけしていられる生活ならば、ベジタリアンでも大丈夫だと思うのですが、
いわゆる日常生活(いろいろやらなくちゃいけない、ストレスに対処しなくちゃいけない)だと、それではエネルギーが足りないような感じがしてしまいます。
(また、外食だとお店が非常に限定されてしまうという問題もあります。)

でも、そういう時期を乗り越えれば、ベジタリアンになれるのでしょうか?

肉食であろうが菜食主義であろうが、目覚めに対しては全く無関係です。
ベジタリアンになる必要がある人はそうするのでしょう。
わたしは肉も魚も卵も食べます。
何を食べるかで、こうなるああなると思い為し意味づけるなら、そのようになるでしょう。
例えば一切何も食べないでも生きられると思うなら、生きられるのです。
実際そのような人がおられ、体内でバクテリアなどがアミノ酸やら必須成分を供給しているようです。

また、畜産、漁業という生業(なりわい)が存在します。
人はそのように生きる事を許されました。
そうであるなら、そのような人々にとっては肉、魚を消費されないのなら生きていけません。
また、せっかく命を供養してくれた家畜、魚を、どうします?
有難く感謝して頂くなら、彼等の尊い供養が成就されると言う事なのです。
自然が食物連鎖によって成り立ち循環しているなら、そのように生きる事に何の不都合があるでしょうか?

「肉食が生臭なのではない。むさぼりが生臭なのである」と仏陀が申されました。

たしかに食物に加工されて行くそれらは可哀そうで、人間のエゴのようにも見えます。
しかし、あらゆる命に、お互いがお互いを捕食し、その事が結果的にお互いを存続せしめる環境調和の作用がある事を、わたしは理解しています。


7.他人に菜食の話をすると、「じゃあ、植物は殺してもいいの?」「植物にだって意識があるんじゃない?」
といったようなことを言われたことがあったように思います。
植物を殺すのは、殺生にはあたらないのでしょうか?

植物にも命があり、意識もあり、それは全く神の愛によって表現されています。
上の6番でも言いましたように、この世界の命の成り立ちは、食物連鎖という循環があって成り立っています。
植物も動物も空を飛ぶものも水中を泳ぐものも、虫もアメーバも原虫もリケッチャも細菌もウィルスも、そういう摂理から切り離されません。

例えばトマトは若いうちは緑でまずく、食べないでくれと表明をしていますが、充分に熟れて食べるに適当となれば、真っ赤に色づきます。
この色は、「わたしを取って食べてください」という合図です。
赤く色づく事によって、取ってくれる誰かを誘っているのです。
そうする事によって、トマトはどこか離れた土地に種を落とせるのです。

野菜は食べられる事によって命を供養する事を拒んでいるでしょうか?
神のなされる事に間違いはありません。
それら命を無駄にする事、必要以上にむさぼり集める事、その事のほうが責められて然るべきかと思います。

食べてもいいのですよ。
食べてはいけないというのは個人の思い込みです。
殺生というのは、別の意味なんです。
興味本位、悪ふざけ、悪意、敵意、感情、欲望、そのような事で尊い命の使命を奪ってはいけないという事です。
また、どのような命にも、思い遣り、優しさ、慈悲をもって対する事が大切ですよって言う事です。
清らかで天心であるなら、人はそのようにするでしょう。
そのようでないなら、恩寵は届くはずが無いのです。

それと、その他の逸話についてですが。
公開するにふさわしい場面がある時には、公開したいと思います。

コメント、質問、ありがとうございました。

 

2012-11-10

 

 

 

[読者MMM]

花岡さん、ありがとうございます。 
Aさんのおかげで、理解が進みます。 

>五戒は恩寵を頂くためのものではなく、明け渡す状態に入るために必要です。 
個人的な考え: 
五戒を守る→貪らなくなる(自然に五戒を守るようになっている)→与えられていることに気付く→何も焦ることがないことが分かる→すべてを任せる=明け渡すことができる 
このような感じなのかなと。 

お酒や食べ物に関しても「貪らない」「執着しない」ということが大事なのですね。 

ひろさちやさんの本で、やむを得ず、虫を殺すときも、「ごめんなさい」という気持ちがあるのが仏教人である・・・というようなことを書いているのを読んだ記憶があります。 
ほかの命への配慮・心配りの中で、私たちも生きていくと、自然に五戒を守れるようになるのかもとおもいました。 
(蚊は確かに血を吸いきるまで、そっとしておいた方が、こちらもかゆみが少なくなるので、win-winの関係になりますね)

 

 

[読者MMM]

連投になりましてすみません。 

実は「瞑想」が今一つ分かっていなかったりします。 
どのような状態になっているとき瞑想ができているのだろうと? 
座禅のように静かに座ってみたりはしているのですが、瞑想になっているのかどうか??? 

「瞑想」がわかっていないので、せっかく教えていただいた「瞑想は気づく力を養うのに有効」の意味が適切に理解できないのです。 

「瞑想」の状態にあるとき、どんな感じなのかなと、そうした時に「気づく力」とは、何に気付くのだろう?と。 

あまりに初歩の初歩かもしれませんが・・・。 
なんとなく「座禅・公案」と花岡さんがおっしゃっている「瞑想」とは違うような気がして。 

もしお時間があるときに、お回答いただければありがたいです。

 

[質問者A]

花岡さん、分かりやすいお答え、ありがとうございます。 

MMMさんのお役にも立てたようで、よかったです。 

花岡さん、お酒のこと回答して頂きましたが、タバコはどうなのでしょうか? 
覚者と呼ばれる人で、タバコを好む方がいて、理解に苦しんだことがかつてありました。

 

 

[花岡]

MMMさん、Aさん、お二人は気が合いそうですね。 

お互い、いい友人になれそうに見えますよ。 

さて、瞑想は何のためにやるのか?という根本が無ければやってもしょうがないわけです。 
また、その「何のために」というのは、自分にとっての最重要課題であり、そのためには全てをなげうってでも到達したいという位置づけでなければ、理解には至らないと思うのです。 

探究者が瞑想をするという事の理由は、真実の探求です。 
意志、思考が作りあげた意味づけの世界ではなく、真実の在りようを、明らかに知り、自分とは何者なのか、実相とは何なのか、なぜ在るのか、そもそも在るのは真実なのか、現れではなく現すそれをわかりたいという抑えることのできない衝動があるから、静かに静寂に入るしかなくなるわけです。 

瞑想はシステムではありません。 
メソッドと捉えるなら、サーマディっぽいものは得られても、自我の域を出ません。 
ついついそうしてしまうほどの強い憧れが無ければ自我の境界を突破できないのです。 

これは、言ったら人にとっての究極の自然現象です。 

決して、何々法とか、何々瞑想とか呼ばれる体系化された手法でのそれでは、突破できない根本に突入する事です。 

忘我と言われます。 

わたしというものが無いただ、何か、です。 

そこでは気づきも、気づく力もありはしません。 
ただ、自我に再び戻るとき、気づきであり、その力であったと知るだけです。 
言葉にするために、自我が回想するから、そう言うのです。 

何に気づくのだろうとか、、そういう事は思考のノイズでしかありません。 
ただ、「知りたい・」・・が、その強烈な衝動が起こるなら、何かがそこへ連れて行ってくれます。 

禅とは違います。 
禅は精神統一によって境地に入るアプローチです。 
そこには自我が介在しなければ成り立ちません。 

公案は、応えの無い問いにひたすら答えを導き出そうとする手法です。 
それは苦痛を伴い、苦痛の扱いによって何かしらの答えを得ようとするものです。 
人生の苦悩から目覚めが起こるように、公案の苦痛からそれを導き出そうというわけです。 

わたしはそのように、認識しています。 

さて、Aさんの言うタバコについては、五戒には明示されておりません。 
従って、覚者がタバコを吸うのは論じても意味のない事です。 
がしかし、わたしの見解を言うのであれば、それはそれでいいという事です。 
アルコールの酩酊は、言ったら意識障害です。 
悟ろうという者にとって、禍であるのは明白です。 
タバコは血圧調整機能があり、リラックスできるのであればかまいません。 
しかし、健康については危惧されるわけで、重要視するなら控えるでしょう。 

疑問は次から次と新たな疑問を呼び、いつしか思考の渦に巻き込まれ、自我の壁を更に厚く、堅牢なものにして行きます。 
まず、どうでもいい疑問というものを放棄するのがいいでしょう。 
思考作用は、そのようにして、自我に縛り付けようとている事を忘れてはいけないと思います。 

自我の世界は、偽物であり、実体がありません。 
尊い世界ではあっても、真実ではありません。 

我々は、この眼に、逆さまに映っている像を、正常な像だと誤解しているだけです。 

 

 

[読者MMM]

花岡さん、皆さん、おはようございます。 

花岡さん、ご回答ありがとうございました。 

初めて瞑想というものが、どういうものかが、自分なりにイメージできたように思います。 
静けさの中で「深い自己探求」をすることのように思いました。 

これまで、座禅の座り方を見よう見まねでしたり、公案と呼ばれるものを考えてみたりしたことがありましたが、???でしたので。 
また、色々な場所で、独自の「○○瞑想」と言っておられたりで、その意味について混乱していたのです。

丁寧なご回答をいただき、ありがとうございました。

 

 

[読者MR]

以前、FF瞑想のB・FさんとAさんのコラボ講演会に出掛けた事があります。 
その時に、B・Fさんと、Aさんが、タバコを吸っていらっしゃる場面に遭遇しました。 
どなたかが、「お二人とも、タバコを吸われるのですね。」って仰ったら、B・Fさんが「煙は体内を浄化する」と、お返事されていました。 
それを聞いていたAさんが、Bさんに「止めたいって言ってたくせに~♪」と、タバコを吸いながら仰っていました。 

他愛も無い話ですみません。

 

 

[花岡]

MRさん、おひさしぶりです。 

B&A両先生も吸われているのですね。 
わたしとは全くタイプが違うのに、なぜかこの人いいなあ~って思うW先生もパイプやるそうです。 

MRさん、元気そうでよかったぁ。 

ありがとうございました。